【12ー6】白鳥と黒鳥
美しきオデット姫は、悪魔の呪いで白鳥になってしまう呪いにかけられてしまいました。
そんな彼女は、夜にだけ人間の姿に戻ることができました。
そしてオデットは、夜の湖で王子様と出会い、恋に落ちるのです。
呪いを解く方法は、まだ誰も愛したことのない男性から愛を誓ってもらうこと。それを知った王子様は、翌日の舞踏会に来て欲しいとオデットに伝えます。
そこで告白をさせてほしい、と。
オデットは頰を薔薇色に染めて頷き、必ず夜になったら会いに行くと約束しました。
しかし、翌日の舞踏会でオデットより先に舞踏会の会場に現れたのは、オデットと瓜二つの娘、オディールでした。
王子様は彼女がオデットではないことに気づかぬまま、オディールを花嫁に選んでしまったのです。
──ピョートル・チャイコフスキー作曲「白鳥の湖」より
* * *
クロウはサンドリヨンに「長風呂ね」とよく言われるが、実際はそれほど長風呂なわけじゃない。
元々、クロウはシャワー派だし、湯船に浸かることは滅多にないのだ。
時間がかかるのは、寧ろシャワーの後。
複数の鳥のキメラである彼は、肩から二の腕にかけて羽毛で覆われていて、これを乾かすのにとにかく時間がかかる。
適当に乾かして服を着ると、羽と羽の間に残った水が服に滲んで気持ち悪いのだ。飛べもしないのに、なんだって無駄に羽なんてあるのだろう。
そんなわけで、クロウはたっぷりと時間をかけて羽と髪を乾かし、バスルームを出る。
室内にサンドリヨンの姿がなかった。仲の良いエリサやサンヴェリーナは今はいないから……ヤマネのところに行ったのだろうか?
選手に与えられた部屋にはミニキッチンがついているのだが、冷蔵庫に食材はほとんど入っていない。欲しいものがあれば、ヤマネに頼んで用意してもらうのだ。
きっと、サンドリヨンはヤマネに食材を分けてもらいに行ったのだろう。
(まぁ、すぐに戻ってくるだろうし、今のうちに薬を飲んでおくか)
椅子の背にかけていたコートは、きちんとハンガーにかけて吊るされていた。きっとサンドリヨンが吊るしてくれたのだろう。
クロウは無意識に小さな笑みを浮かべつつ、コートのポケットから薬の袋を取り出す。
そして、違和感に顔を強張らせた。
彼にとって、薬は命を繋ぐための命綱だ。だからこそ、残りの個数を彼は神経質に管理している。
(……薬が足りない)
いつも飲んでいる薬はある……が、新しく開発された強化用の薬だけが無い。
袋の封はきちんと閉じているから、落としたということはないだろう。
クロウがコートを脱いだのは、この部屋に戻ってから。
だが、サンドリヨンが薬を抜き取る理由は無い。
(まさか、侵入者が薬を盗んだ? サンドリヨンがいないのは……そいつに攫われたのか?)
しかし、誰かが忍び込んでサンドリヨンを攫い、薬を持ち出したとして……あのサンドリヨンがおとなしく攫われたりするだろうか? 争うような音がしたら、浴室にも聞こえたはずだ。
他にも奇妙な点はある。
薬は全て同じ袋にひとまとめにしていた。盗むならまとめて全部盗んでしまえばいい。わざわざ新薬だけ抜き取った理由は?
(……落ち着け。まずは現場をよく観察しろ)
部屋に争ったような形跡はない。扉にこじ開けたような跡もない。
窓はどうだろう? と窓に近づいたクロウは目を見開いた。雨の中を走る人影が見える。あれはサンドリヨンだ。
攫われたわけではないと分かり、ホッとすると同時に今度は疑問が浮かんだ。
サンドリヨンは傘もささずに部屋を飛び出して、どこに向かっているのだろう?
彼女はでかける時はいつもトートバッグを持ち歩いている。その中に折り畳み傘も入っていた筈だ。だが、トートバッグは机の上に置き去りにされている。
つまり、バッグを持っていくことも忘れるぐらい、慌てていたということだ。
ポケットから消えた薬。
部屋を飛び出したサンドリヨン。
拝み屋から送られてきたメールの写真。
森で手を繋いて歩ぐ、イーグルとサンドリヨン。
点と点が繋がらないことを祈りながら、クロウは部屋を飛び出した。
* * *
秋の夜の雨は酷く冷たく、優花の体温を奪っていったが、それでも傘を取りに戻る気にはならなかった。
優花はクロウのポケットから抜き取った薬だけを握りしめて、薔薇庭園を走る。
イーグルがクロウを助けてくれなかったらどうしよう。
もう手遅れだと言われたらどうしよう。
そんな考えが頭をよぎる度に、心臓がギュッと掴まれたみたいに苦しい。
庭園の噴水の前には、紺色の傘をさして佇む人影があった。傘の下には立派なスーツとピカピカに磨いた靴が見える。
「イーグルっ!」
息を切らせて駆け寄れば、イーグルは傘もささずに駆け寄ってきた優花に傘を傾ける。そして、ポケットからハンカチを取り出して、びしょ濡れの優花の頰を拭いた。
「傘も持たずに来たの? 風邪をひいてしまうよ」
「そんな、ことより……っ!」
荒い息を吐きながらイーグルを見上げれば、彼は優花を落ち着かせるよう穏やかに語りかけた。
「大丈夫だよ、サンドリヨン。まずは薬を確認させてくれる?」
「う、ん……」
言われた通り薬の袋を手渡すと、イーグルは袋を少しだけ開けてにおいを嗅いだ。
そして、僅かに目を細める。
「……このにおい、間違いないね。あの薬と同じ物だ」
やはり。そう確信すると同時に、優花の全身を恐怖が支配した。
膝から崩れ落ちそうになるのをグッと堪えて、優花はしっかり地面を踏みしめる。
「クロウは……クロウはどうなるの!? もし、もう飲んでたとしたら……」
洞窟で見た異形の姿が頭をちらつく。クロウがああなってしまったら。
理性を失った、ただの異形になってしまったら。
(嫌だ、そんなの、絶対に嫌……っ!)
「kf-09nは遅効性のものだから、すぐには変化は出ないんだ。半日様子を見て、変化が出たらワクチンを打てば良い」
「ワクチンは……」
「大丈夫、用意してあるよ。君が僕との約束を守ってくれるなら、譲ってあげる」
優花は涙の膜の張った目でイーグルを見上げた。
「……本当?」
「君との約束は必ず守るよ」
あぁ、と優花は安堵の息を吐きながら胸を押さえる。
良かった、これでクロウが助かる。そのことで頭がいっぱいで、優花は気づかなかった。優花を見つめていたイーグルが顔を上げて目を細めたことに。
イーグルは傘を持つのと反対の手で優花を抱き寄せ、こちらに駆け寄る人影に冷笑を向けた。
傘も持たずに駆け寄ってきたその人影は、同じ傘の下で身を寄せ合うイーグルと優花に呆然と立ち尽くす。
「……どういうことだ」
低い声に優花がピクリと肩を震わせて顔を上げる。
「……ク、ロウ」
クロウは怖いぐらいの無表情で、静かに優花とイーグルを見ていた。
その視線がイーグルの手元──優花が持ち出した薬に向けられる。
「お前が持ち出したのか、サンドリヨン?」
「…………」
「……違うと言ってくれ」
懇願するようなかすれ声に、優花は答えることができなかった。
(だって、違わない。私が抜き取った。その薬は危険なものだから。イーグルがワクチンを持ってるから、もしクロウが薬を飲んだ後でも助けてもらえるかもしれないから。だから、だから……)
事情を説明しなくては。クロウに誤解なのだと伝えて、この薬は危険だから絶対に飲んではいけないと教えないと……
その時、イーグルが優花の肩を抱き寄せ、耳元でささやいた。
「約束を忘れてはいないね?」
「……っ」
この薬の存在を話さないこと。
それがエディとクロウを助けて貰うための条件。
「君がクロウに事情を話すなら……僕はこの場で彼を殺さないといけない」
「……ぅ、あ……」
真っ青になって震える優花の耳元に、イーグルは甘く優しく囁く。
「それは困る? 嫌だ?」
「や……いや……」
「なら、この場は僕に任せて」
イーグルは優花を安心させるようにニコリと微笑んだ。
彼ならきっとなんとかしてくれる。そう根拠もなく思わせてくれる笑顔は、人の上に立つ者特有の貫禄があった。
イーグルは優花の肩を抱き寄せ、クロウと向かい合う。
「彼女を責めるのは感心しないな。彼女は僕との約束を守っただけだもの」
「約束? 何のことだ?」
「内緒、君には教えてあげない」
イーグルが人差し指を口元に当てて微笑めば、クロウはギシギシと音がするほど強く歯ぎしりをしてイーグルと優花を睨んだ。
「……つまり、お前達はグルだったってことか」
「グルだなんて人聞きが悪い。僕達は仲良しなんだ。君が思っているより、ずーっとね」
優花は呆然とした。イーグルは何を言っているのだろう?
この場をおさめる気を全く感じないどころか、クロウを煽っているようにしか思えない。
(でも、今の私に何ができる? 言い訳をしたところで、クロウに信じてもらえる?)
この薬は危険な物なのだと、クロウに伝えたい。
だが、薬のことを話すということは、イーグルとの約束を破るということだ。
そうしたら、ワクチンがもらえない。クロウもエディも助けられない。
(どうしたら、どうしたら……)
ぐるぐると考えても、答えが見つからない。
クロウを異形にしたくない。エディを助けたい。
そのためには、イーグルとの約束を守るしか──クロウに薬のことを黙っているしかないのだ。
だが、クロウは革の手袋が軋むほど強く拳を握ると、暗く淀んだ目で優花を見た。
「……また、オレは裏切られたんだな」
(違うっ!!)
叫びが喉元まで出かかって、止まる。
そうだ。クロウにとってこの状況は、裏切り以外のなにものでもない。
クロウの薬を黙って持ち出した時点で……否、そもそもイーグルと約束をしてしまった時点で、優花はクロウを裏切ったも同然だ。
真っ青になって震える優花を見つめ、クロウは自嘲した。
「……否定、しないんだな」
何か言わなくては。
そう思うのに喉の奥が乾いて、何も言えない。
(言い訳するの? そんな権利、私にあるの?)
クロウは何も言わない。
優花は何も言えない。
イーグルだけが余裕の表情で、クロウと優花を交互に見ている。
雨の音だけがその場を支配する、夜の庭園。
つつけば弾けそうな張り詰めた空気は、次の瞬間、あっけなく瓦解した。
「ああー! いたー! お姉ちゃーん!!」
場にそぐわない声をあげて、こちらに駆け寄ってくるのは、優花の双子の妹、美花だった。
美花は傘もささずに駆け寄ってくると、優花に向かってブンブンと手を振る。
「お姉ちゃん、助けてー! 美花、イーグルに殺されちゃう! ……って、イーグルいるしー! あれあれ? なんでクロウもいるのー?」
美花の登場は優花の混乱に拍車をかけた。
(……え? なんでこの状況で美花が出てくるわけ? というか、イーグルに殺される? 本当にこれ、どういう状況?)
疑問は山ほどあるが、とりあえず言いたいことはただ一つ。
「あんた……今度は何をやらかしたの?」
優花が力なく呟くと、美花は膨れっ面でそっぽを向いた。
「美花悪くないもーん。イーグルが勝手に勘違いしてたのに、突然態度変えるなんてヒドイよねー」
よく分からないけれど、よく分かった。
これは美花が何かをやらかして、イーグルを怒らせたパターンだ。
優花が額に手を当てていると、唐突にクロウが笑い出した。ケタケタと、背筋が凍るような声で。
「なんだ、丁度良いじゃないか」
そう言ってクロウは美花の二の腕を掴み、引き寄せた。美花がバタバタと手足を振り回す。
「いたた! 痛い! ちょっ、なにすんのよー!」
「どうせ、同じ顔なんだ。どっちが姫でも変わらないだろう?」
クロウの言葉に優花は目を見開き、硬直する。
「……え」
一瞬止まった心臓が、バクバクと嫌な音を立てて一気に動き出す。ぬるりと気持ちの悪い汗が背中を濡らす。寒さとは違う理由で体が震え出す。
そんな優花の肩をイーグルが強く抱き寄せた。
「僕としては願ったり叶ったりだから、異論はないよ」
クロウはもう優花を見ていない。捕まえた美花を見て、彼は言う。
「……だそうだ。今からお前がサンドリヨンだ。行くぞ、馬鹿娘」
「キャー! ちょっ、ヤダヤダヤーダーーー!!」
クロウは騒ぐ美花を有無を言わさず引きずって歩き出す。
その背中に優花は震える手を伸ばした。
「ク、ロウ……ま……待っ…て……」
イーグルは見た目以上に強い力で優花の肩を抱いているので、振り払えない。
それでも優花が震える手を伸ばすと、クロウは足を止め、首だけを捻って優花を見た。
氷のような瞳に、敵意を宿して。
「お前なんて、いらない」
クロウはもう振り返らない。
その背中が遠くなるのを、優花はただ見送ることしかできなかった。