【10-2】あのギミックね、すごく重いんですよ、えぇ。準備も大変だったんですよ、はい……泣いていいですか?(Byスタッフ)
ドロシーは後天性フリークスのキメラだ。その体を改造された時から、身体能力は飛躍的に上昇したし、体力だって桁違いに上がった。それなのに、まだ走りだして十分もしていないのに、呼吸は乱れ、口からは不自然に引きつった聞き苦しい声がこぼれ落ちる。
「ハッ、ハッ、ハヒッ、ハァッ……ヒィッ、ヒィッ、ハッ……ぁっ……!」
勝てない、無理、殺される──そんな言葉が頭の中をぐるぐると回る。
(でも戦わなくちゃ……画面の向こうでみんながアタシの醜態を笑ってる。教授だって……教授に見放されたら……)
──廃棄
その二文字に胃がズゥンと重くなる。
ドロシーは立ち止まると、服の胸元をぎゅぅっと握りしめ、必死で自分に言い聞かせた。
「戦える……アタシはちゃんとやれる……」
滅茶苦茶に乱れていた呼吸を整え、ドロシーは自分が為すべきことを一つずつ思い出す。
(アタシがやるべきは、姫殺し。それは変わらない)
ウミネコの姫、エリサを見つけ出して殺すのだ。ウミネコに見つかるよりも先に。
ドロシーは猫耳をヒクヒクと震わせて、周囲の音に意識を向ける。
風の音に混ざって聞こえる足音は、ドロシーのすぐ真後ろから聞こえた。
「見ーつけた」
無邪気なその声に全身の血の気が引いていく。あぁ、追いつかれた。
ドロシーは口をついて出そうな悲鳴を嚙み殺し、振り向きざまに自慢の硬い爪を振り上げる。
狙うはウミネコの頸動脈。
「っ、やぁぁぁぁあっ!」
「おっ、決死の特攻? うーん、悪くないけど……」
ドロシーの爪がウミネコの首をかき切るより先に、ウミネコの手がドロシーの手首を掴んだ。
「首を狙うんだなーってのバレバレ。ほら、簡単に捕まえちゃった」
ミシミシと手首から嫌な音がする。ドロシーはウミネコの手を振り払おうともがいたが、ウミネコの手はピクリとも動かない。まるで万力のように。
「は、離せ! 離しなさいよ!」
「ほっそいなー。簡単に折れちゃいそう……あ」
──ポキッ
まるでスナック菓子が砕けたみたいな音がした。
少し遅れてやってくる激痛に、ドロシーは悶絶する。
「ぅぁああああっっっ!」
「折れちゃった。メンゴ☆」
ウミネコは案外あっさりと手を離した。
本来ならすぐに距離を取るべきなのに、足に力が入らず、ドロシーはその場にへたりこむ。
手首は赤黒く変色して不自然な角度で固まっていた。
痛い、痛い、痛い。
「ひぐっ、うぅっ……」
戦うための勇気が、涙と一緒にこぼれ落ちて、スカートに染みを作る。
空っぽになったドロシーに残されたのは絶望と、無力感。
(なんで……)
今まで試合中に泣いたことなんてなかったのに。
いつだって、一人で戦ってきたのに。
(……違う)
本当は誰かに助けて欲しかった。守って欲しかった。
クロウに守られているサンドリヨンが羨ましかった。
(でも、アタシとあの子は違う)
サンドリヨンは人間。ドロシーは化け物。
本当は最初から分かっていた。自分は姫にはなれないと。
「そんじゃ、これで終わりにしよっか。バイバイ、ドロシーちゃん」
ウミネコが斧を振りかぶった。戦闘用の斧は日の光を反射してギラリと輝く。
これで真っ二つにされた奴らを、ドロシーは何人も見てきた。
(……あぁ)
ドロシーも、そいつらと同じ末路を辿るのだ。
「警告する」
ドロシーの優れた耳が、ヒュゥンという微かな音をとらえた瞬間、ウミネコの斧が不自然に止まった。
何者かが、ウミネコの腕を背後から掴んで止めている。あの恐ろしく力の強いウミネコを、片腕で!
「私の姫に手を出すな」
ドロシーはぎこちなく首を持ち上げ、目を見開く。ウミネコを片手で制しているのは……
「ドロシー、貴女を守りにきた」
ドロシーの騎士、オウルだ。
ウミネコが不自然に動きを止めたまま、己の背後に立つ男に不敵に笑う。
「早かったな。まだ、三十分経ってなくね?」
そうだ、ドロシーはまだ鍵を見つけていないのに。
どうやってオウルは脱出したのだろう? そんなドロシーの疑問に答えるように、オウルは短く答えた。
「こじ開けた」
「は?」
口をポカンと開けるドロシーを見つめ、オウルは同じ言葉を繰り返す。
「こじ開けた」
あの太い鉄格子は、並の力ではびくともしない頑丈さだった。フリークス・パーティでも一、二を争う怪力のウミネコ以外に、そんなことができる筈がない……だが、現に今、ドロシーの目の前でオウルはウミネコを制止している。それも、片腕で!!
「力技は、彼の専売特許ではないということだ」
「フカシこくなよ、新人。片腕でオレの斧を抑えられるわけないよな? この糸がトリックの種だろ?」
ウミネコの言う通り、彼の斧の柄には細い糸が巻きついていた。それが、オウルの左手に繋がっている。オウルは左手の糸で斧の威力を分散し、右手でウミネコの腕を制止しているのだ。
ウミネコは「器用なもんだなぁ」と感心したように呟き、どんぐり眼をくるりと回して背後に立つオウルを見る。その口の端を楽しげに持ち上げて。
「ところでさあ………………お前、釣りは好き?」
次の瞬間、ウミネコは斧を力任せに振り上げた。オウルの体はまるで釣り上げられた魚みたいに、斧に絡んだ糸ごと宙に浮く。
ブチブチと糸が千切れる音がした。ウミネコが力任せに引きちぎったのだ。
そのまま落下するオウルに、ウミネコが斧を横向きに振りかぶる。木こりが木を切るみたいに……だが、それよりも明確な殺意をもって、斧が振り抜かれる。
だが、ウミネコの斧が突き刺さるより早く、オウルが何もない宙を蹴った。恐らくそこに糸を張り巡らせていたのだろう。器用に空中で軌道修正をしたオウルは、ウミネコの攻撃をかわして少し離れた所に着地する。
攻撃を外したウミネコはためらうことなく斧を手放すと、オウルの懐に飛び込んだ。
オウルの鳩尾に直接拳を叩き込むつもりだ。オウルは避けようとしない。
(あの馬鹿! なんで避けないのよ!?)
ウミネコは「素手の方が凶悪」とまで言われている怪力だ。まともに食らえば、胴体に風穴が空くぐらいじゃすまない。
「オウル、避けなさい!」
ドロシーが叫ぶ。
……オウルは、避けない。
ズン、と腹に響くような低い音がした。オウルはウミネコの拳を左手だけで抑えこんでいる。そして抑えこんだウミネコの右手首めがけて、オウルは右手で手刀を降り下ろした。ウミネコの右手がバキリと音を立てて歪む。
ウミネコが舌打ちをして、距離を取る。
「今のは、ドロシーの右手の分だ」
ドロシーは言葉にならない激情に突き動かされて、オウルの元へ駆け寄った。
そして……
「オウル!この馬鹿っ!」
オウルの頭をひっ叩く。それも割と全力で。
オウルは叩かれた頭を押さえて、無表情にドロシーを見た。
「ドロシー、痛い」
「馬鹿じゃないの!? 馬鹿じゃないの!? 何が『ドロシーの右手の分だ』よ! ……そのせいで、あんたの左手がボロボロじゃない!」
あのウミネコの攻撃を素手で受けとめて、無事で済むはずがない。
オウルの左手の指は不自然に折れ曲がっていた。指だけでなく、手のひらの骨もグシャグシャになっている筈だ。
オウルの武器である糸、単分子繊維は操るのに精緻な操作が必要になる。それなのに左手がこの有り様では、攻撃力は半分以下になったも同然。
「あのタイミングなら、いくらでも避けられたわよね!? なんで避けなかったのよ!」
吠えるドロシーに、オウルは数秒程考え込む仕草をして、口を開いた。
「そうしないといけないと思ったからそうした。……いや、この言い回しは適切ではないな」
そしてオウルはまた考え込む。やがて、納得のいく答えが見つかったのか、ドロシーをまっすぐに見て、言った。
「何故、ウミネコの攻撃を受けたのか。それは、そうしないと私の気がすまなかったからだ」
オウルの気がすまなかった?
ドロシーは面食らって、口をパクパクさせる。
だって、それではまるで……
「……あんたが、アタシの怪我に怒っているみたいじゃない」
「怒っている。貴女を傷つけたウミネコにも、貴女を守れなかった自分自身にも」
続く言葉は即答だった。
彼は変わらずの無表情だ。眉一つ動かさず、しかし彼は静かに怒っている。
オウルはボロボロになった左手を持ち上げて、噛みしめるように言った。
「この左手は、私なりのケジメだ」
「ば、馬っ鹿じゃないの。あ、アタシが壊れて使い物にならなくなっても、教授はあんたを責めたりしないんだから、べ、別に無理して守る必要なんて……」
「教授は関係無い。無理もしていない」
ドロシーは混乱した。だって、オウルがこんなにも何かを主張したことなんて無かった。
いつだって無表情で、何を考えているか分からなくて……
「じゃ、じゃあ……なんで……」
「ドロシーがいないと、私が困る」
その瞬間、オウルの無表情が微妙に変化した。ドロシーにしか分からないような、本当に僅かな変化だ。
(……こいつ、本当に困ってる)
ドロシーの背後で右手をぷらぷらと揺らしていたウミネコが、突然ふきだした。
彼は痛めた右手などものともせず笑い出す。ゲラゲラと腹を抱えて。心底楽しそうに。
「……ははっ! あははははっ! いいなあ、お前。思った以上に面白いわ」
フリークス・パーティで最も凶暴な男が、背筋が寒くなるような笑みを浮かべた。
ドロシーは一度その笑顔を間近で見たことがある。
……あれはフリークス・パーティの悪魔が、惨劇を前に見せる笑顔だ。
「さあ、遊ぼうぜ、ルーキー。バラバラにしてやっからよぉ」
* * *
優花の隣のクロウが、突然マナーモードの携帯電話のようにガタガタと震えだした。
その目は焦点が合っておらず、唇は血の気をなくして紫色になっている。
「クロウ!? クロウ!? ちょっ、あんた、顔色悪いわよ大丈夫!?」
優花が肩を揺さぶっても返事は無い。
* * *
モニターを見ていた笛吹は、ただでさえ色の白い顔を更に青白くして、掠れ声で呟いた。
「……だから嫌なんだよ、あの男」
画面の中では〈フリークス・パーティの赤い悪魔〉が、それはそれは楽しそうに笑っている。
人間の魂を前にした悪魔みたいにニタニタと唇を持ち上げ、舌舐めずりをして。目をギラギラと輝かせて!
「とりあえず、オウルはミンチ確定だね……同情するよ」




