【幕間22】鷹羽の闇
鱗に覆われた女の腕は異様に白く、まるで魚の腹のようだった。
床につくほどに長い髪は、色素の抜け落ちた純白。その長い髪の奥で、女の白い顔が悲しく笑う。
「ねぇ、お願いよ……殺して」
ひんやりと冷たい女の手が、彼の手を握る。血の色を透かした目に涙を滲ませ、女は懇願する。
「殺して頂戴………………イーグル坊や」
* * *
「──……っ!」
それが夢だと気づくのに少し時間がかかった。それほどまでに彼女の声は生々しく耳に残っていた。
イーグルはベッドから起き上がると、鈍い動きで手を持ち上げる。
夢の中で、彼の手は真っ赤に濡れていた。今は冷たい汗で少し湿っているだけだ。
「イーグル、どしたの? 寝汗超やばくない? 怖い夢でも見たの?」
ひょっこりと扉の陰から姿を見せた彼の姫──オデットが、スリッパを鳴らしながらイーグルに近づいてくる。イーグルは彼女の腕を引いて、胸の中に抱きしめた。ほんの少しだけ、彼女にもたれて甘えるみたいに。
「ああ、オデット……どうせ見るなら君の夢が良かったよ。最近は寝つきが悪くていけない」
「そういう時はね、あったかくして寝るのが良いんだよ。そだ、お姉ちゃん直伝のいいもの作ってあげる!」
オデットはするりとイーグルの腕から抜け出し、ホテル備え付けのシンクに向かう。
「いいもの?」
「ホットミルク! それ飲んで寝れば、ぐっすりだよ! 超オススメ!」
彼女の笑顔に少しずつ荒れていた気持ちが落ち着いてくる。どんな時でも彼女の笑顔を見れば、怖いものなんてなかった。昔からそうだ。
弱者に優しくて、強者に臆さず立ち向かう。
いつだって彼の不安や恐怖を笑い飛ばしてくれる、お日様みたいなお姫様。
「……なんだか懐かしいな」
ポツリと呟くと、オデットは小鍋を握りしめたまま「え?」と小首を傾げる。
イーグルは小さく笑って、乱れた前髪をかきあげた。
「昔から、君は僕にたくさんのものをくれたね」
「ホットミルクぐらいで大袈裟だよぉ」
ケラケラと笑うオデットの笑顔が眩しい。
彼女の笑顔はいつだって、暗闇の中から彼を救ってくれる希望の光だった。
だからこそ、彼は誓ったのだ。
「オデット、君の優しさに報いるためにも……僕は必ず優勝するよ」
「お姉ちゃんに酷いことをしたクロウを懲らしめてくれる?」
お姉ちゃん──それはオデットの口から一番よく聞く単語だ。
オデットの姉、サンドリヨン。
見かける時は大抵距離があるので、はっきりと顔は見えなかったけれど、オデットが言うには彼女とあまり似てはいないらしい。ただ、声はよく似ているな、というのが第一印象。
みすぼらしいドレスを着せられて、本来は守る立場である騎士のクロウに乱暴に扱われている姿は、あまりにも不憫で、素直に助けてあげたかった。
「キメラは生かしておけない。まして君のお姉さんを苦しめるクズなら尚更だ。必ずクロウに勝って、君のお姉さんを解放してみせるよ」
オデットはパアッと顔を綻ばせて、イーグルの胸に飛び込む。
「ありがとう、イーグル!」
イーグルはそっとオデットの髪を撫でながら、腕の中の温もりを噛みしめた。
たくさんのものを殺して奪って踏みにじって、ここまで這い上がってきたのだ。
(……せめて彼女の笑顔だけは、この手で守ってみせる)
その時、扉が控えめにノックされた。返事をすれば、扉を開けた秘書が一礼して、オデットをちらりと見る。どうやら、オデットには聞かせたくない話らしい。
オデットは察しの良い娘なので「ホットミルク作ってくるねー」とイーグルから離れて、シンクの方に移動した。
イーグルの秘書、周防は三十二歳。イーグルより年上だ。それでも、周防は恭しくイーグルに頭を下げた。
「お休みのところ申し訳ありません、社長。どうしてもお耳に入れたいことがございまして」
イーグルが無言で続きを促せば、周防は短く告げた。
「ハロルド・パークの所在が掴めました」
「……へぇ」
キメラ開発研究チーム主任、ハロルド・パーク。キメラ研究チーム解体と同時に姿を消した男。
キメラ研究員は全て研究データを没収し、口止め料を掴ませた上で鷹羽コーポレーションの別部署に配属させている。
それは鷹羽の闇を知る者を監視下に置き、データの流出を防ぐためだ。
しかし、一人だけ失踪したまま消息がつかめない研究員がいた。それがハロルド・パークだ。
情報の流出を防ぐため、鷹羽コーポレーションは血眼で彼を探していた。
「ハロルドはレヴェリッジ家に身を寄せているようです。今はハッターと名乗り、医療チームでキメラ治療の主任をしているとか」
「レヴェリッジ家か……良い判断だな。あそこに逃げ込まれては、僕達も迂闊に手を出せない」
レヴェリッジ家の影響力は日本国内では然程大きくないが、フリークス・パーティに関わる者なら、決して無視できない存在である。
周防はレヴェリッジ家に直訴することも考えているようだが、イーグルはそんな周防の提案に首を横に振った。
「必要ない。しばらくほうっておけ」
「しかし……」
「レヴェリッジ家はある意味中立だ。グロリアス・スター・カンパニーや、アルマン社に行かれるより、よっぽど良い」
キメラ研究における三大機関、それが鷹羽コーポレーション、グロリアス・スター・カンパニー、そしてアルマン社だ。逃亡したハロルドが、その知識を鷹羽以外の二社に流していたら厄介だったが、フリークス・パーティ運営委員会なら、然程大きな損失は無い。
「ハロルド・パークか……彼は優秀な研究員であると同時に、極度のキメラ愛好家だったね。キメラの専門医だなんて天職じゃないか」
フリークス・パーティ運営委員会における、ハロルド・パークの仕事はキメラの治療だという。あぁ、なんて彼らしいとイーグルは喉を鳴らして嘲笑った。
「まぁいずれ、彼が治療するキメラは一匹残らずいなくなるけどね」
「あなたが駆逐するからですか」
「その通り!」
室内にはふんわりと甘いミルクの香りが漂い始めていた。もうすぐ、ホットミルクが出来上がるのだろう。
仕事の話はここまでだ。
イーグルは周防に一つだけ指示を出して、話を締めくくった。
「プロフェッサー・パーク……今はハッターだっけ。彼がレヴェリッジでお役御免になって追い出されたら、その時はすぐに拘束しろ」
「かしこまりました」
ちょうどそのタイミングで、オデットが「ホットミルクできたよー」とイーグルを呼ぶ。
イーグルはとろけるような笑みを浮かべて、愛しい姫の元へ歩き出した。




