【幕間18】みにくいアヒルの子
これはとある男と、その許嫁の女の話だ。
男は、中国のとある食品メーカーの社長の次男として生まれた。
社長子息であることを除けば、あとは何も語るところなど無いような凡庸な男で、男自身、それを自覚していた。
それでも社長の息子というだけで男に媚びを売ってくる者は、男女問わず掃いて捨てるほどいて、彼の婚約者もその一人だった。
婚約者のフォン・メイは社長令嬢だが、妾腹故に家では厄介者扱いされていたらしい。
凡才の次男坊と妾腹の娘。互いの家の結びつきをより強固にするためだけの婚約なのは、誰の目にも明らかだった。
婚約者のフォン・メイはいつもびくびくしながら、男の顔色をうかがっていた。それが男には気に入らなかった。
フォン・メイはいつも自分を卑下して「私なんかが」とよく口にした。
「私みたいな馬鹿が」
「私みたいな醜い子が」
「私みたいなグズが」
だけど本当は違うことを、フォン・メイ以外の誰もが知っていた。
白い肌に艶やかな黒髪、美しく整った顔。誰もが見とれるほど、女は優れた容姿をしていた。
頭だって悪くはなかったし、愚鈍でもなかった。運動にしろ、教養にしろ、大抵のことは人並み以上にできた。
もし、フォン・メイが妾腹の子でなかったら、才色兼備のお嬢様として周囲は彼女をちやほやしていただろう。
だが、フォン・メイの家族が徹底的に貶め続けたせいで、彼女はどうしようもないほど卑屈に歪んでいた。それが、男には腹立たしかった。
(オレより優秀な癖に!)
(オレより才能に恵まれている癖に!)
(「私なんかが」? オレを馬鹿にしてるのか?)
卑屈さが癪に触って、暴力を奮ったり罵ったり、他にも思いつく限りの酷いことをした。
暴力はどんどんエスカレートして、彼女の人間性を否定する虐待じみた真似もした。
それでも一言、「愛してる」と言えば、卑屈なフォン・メイは馬鹿みたいに喜び、どんな暴力にも耐えた。
ある日ふと、男は天啓のように気がついた。
フォン・メイはもしかして、本当にオレのことを愛しているんじゃないか、と。
これだけのことをしても愛してると言えるなら、それは本物の愛なのかもしれない。
考えてみれば、フォン・メイは美しい女だ。しかも、病的に卑屈だが優しくて気立てがいい。尽くされれば男として悪い気はしない。
(なんだ、こんな簡単なことだったのか)
まるで憑き物が落ちたような心地だった。
そうとなれば、早速あいつに会いに行こう。会って、少しだけ優しくしてやろう。
どこか浮かれるような気持ちで、男はフォン・メイの家に向かい……
そして、見てしまった。
赤。赤。赤。明るい赤、茶色く変色した赤、更に変色して黒っぽくなった赤。とにかくたくさんの赤。その中に沈む人間だったモノ。
人の形をしているモノはほとんどなく、それはもはや残骸と呼ぶ方が正しい。
血の海の中で泡を吹いて倒れた彼は、数時間後に救急隊員によって助け出された。
フォン一家惨殺事件は、翌日の新聞の一面を大きく飾った。
殺されたのはフォン家の家族と使用人の三十五名。その中にフォン・メイの名前は無い。
事件は殺しのプロの仕業と言われ、フォン・メイは犯人に拐われた可能性が高いと言われた。
警察は犯人の行方を追ったが、とうとう何一つ真実は分からぬまま、事件は迷宮入り。
かくして男は、フォン・メイに優しくしてやる機会を永遠に失った。
それから三年。色々あって長兄が出奔し、男が父親の後継者に指名された。
それからが大変だった。父の事業を継ぐため、勉強の毎日。空いた時間は父の会社絡みのイベントに顔を出し、コネクション作り。
そして社会勉強として連れていかれた、親父が出資しているイベント……フリークス・パーティで、男は思わぬ再会を果たした。
血まみれの舞台の上に、行方不明になった元婚約者はいた。
舞台の上で、フォン・メイは相手の姫に馬乗りになり、その女めがけて鋭い櫛を降り下ろした。
女が泣きわめく。それでも、フォン・メイは手を止めない。何度も何度も凶器を降り下ろす。
白い顔を血で汚して、見たこともない凄絶な笑みを浮かべて。
そうして、殺した姫など見向きもしないで、己のパートナーの元に駆け寄り、返り血まみれの顔で幸せそうに笑うのだ。
「ライ君、ライ君、私、ライ君のお役に立てましたか?」
「…………」
「あっ、あっ、ごめんなさい、もっと手際よくやらないと駄目ですよね。私、次はもっと上手にやりますね」
無言のパートナーに、フォン・メイは懸命に媚を売っていた。まるで、恋に落ちた雌のような顔で。
それが許せなくて男は廊下を走り、選手控え室へと向かう途中だった女に声をかけた。隣にあの大男がいるが、構うものか。
「おい! おいっ!! メイ! フォン・メイ!」
男が怒鳴っても、女は振り向きもしなかった。まるで、男の声なんて聞こえていないかのように。
(フォン・メイの癖に、オレを無視する気か!)
女を見下すのは最早男にとって長年染み付いた習慣のようなものだった。
男にとってフォン・メイは従順な婚約者だ。自分を無視するなんて、ありえない。
カッとなって肩を掴むと、フォン・メイは立ち止まり、長い睫毛に縁取られた大きな黒い目で男を見た。不愉快そうに顔をしかめて。
「フォン・メイ、お前、なんでこんなところなんかに……!」
フォン・メイは何も言わない。ただ無言で肩に置かれた手を不愉快そうに見ている。
隣の大男、ライチョウとかいう騎士がフォン・メイを見て言った。
「知り合いか」
「いいえ? 人違いじゃないですか。私はライ君の姫のスノーホワイトですよ」
そう言って女は、肩に置かれた男の手を煩わしげに払い、ライチョウの腕に抱きついた。たくましい二の腕に豊かな胸を押し付けて。甘ったるい猫なで声で女は言う。
「行きましょう、ライ君。今夜は私、ご馳走作っちゃいますね」
「おい! 待てよ……」
もう一度肩を掴もうと手を伸ばすと、女は男の手を容赦なく叩き落とした。パァン、と音がするほど強く。
「触らないで下さい」
男を見下す目は冷たく、それでいて青白く燃える炎のような殺意が宿っていた。
フォン・メイは本気だ。これ以上近づいたら本気で殺される。
男は一歩も動けないまま、それでもなんとか声を絞り出した。
「オレを、恨んでいるのか?」
あぁ、そうだ。きっとそうだ。だから、フォン・メイはこんな態度を取るのだ。
彼女に優しくしてやろうと考えたあの時の気持ちを思い出し、男は彼なりに精一杯誠実な態度で言い募る。
「オレは、お前に謝りたかった。謝って、そして今度こそちゃんとお前を愛して……」
男の言葉を遮ったのは、女がプッとふきだす音だった。
「ぷっ、…………ふっ……ふふふっ……あは……アハハハハハハハ!」
女は白い喉を仰け反らせ、おかしくておかしくて仕方がないとばかりに声をあげて笑った。そうして、ひとしきり笑い終えると、途端に人形のような無表情になる。
「あなたの愛なんていりません」
血のように赤い唇が、高慢な男の思い上がりを斬り捨てる。
「だって、踏みにじって傷つけるのがあなたの愛でしょう。そんなもの、いりません」
「違う! オレは!」
「いきましょう、ライ君」
もう女は、男に興味などないと言わんばかりの態度だった。それでも、男は必死になって言い募る。
「待て! オレがお前のことを助けてやる! 本当だ! もうこんなイカれた殺し合いに参加しなくていいように手を回して……」
「何か勘違いしてませんか?」
女はライチョウの腕に抱きついたまま、目だけを動かして男を見る。
「私は自分の意思でフリークス・パーティに参加しているんです。誰にも強要されてません」
そう言って美しく微笑むフォン・メイは、今までフリークス・パーティで見てきた、どの化け物よりも狂っていた。
だが、どうして男がそれを非難できるだろう。この女をここまで歪めて狂わせたのは、彼自身だというのに!
「そうそう、一つ、良いことを教えてあげます」
女は少しだけ声のトーンを上げて、独り言のように呟く。
「フォン家惨殺事件」
その単語に男の肝が冷えた。
血の海に散らばる人間の残骸が脳裏をチラつく。思い出すだけで吐き気がする。
「プロの殺し屋の手による殺害。生き残りは娘のフォン・メイだけ。あの家の財産は生き残りの娘のものとなり、ゆくゆくはその婚約者である柳家の次男坊……あなたのものとなるはずでした」
「……何が言いたい」
掠れた声で問う男を見る女の目は、馬鹿を見る目──かつて、男が女に向けていた目と同じだ。
「まだ分からないんですか? あの事件が、あなたのお父様の差し金だということに」
「なっ……!?」
父の差し金──つまり、父が誰かに依頼した? フォン家の殺害を?
絶句する男に、女はクスクスと笑う。
「まあ、生き残った娘が失踪したせいで、その目論みは無駄に終わりましたけど。ふふっ『おかげで自由になれました』と、あなたのお父様にお伝えくださいね」
そう言って、フォン・メイは──否、スノーホワイトはスカートを揺らして歩き出す。
愛しい騎士の腕に己の腕を絡めて、もう男になど見向きもせずに。




