【8-4】愛されたがりの嘘
指先から滑り落ちた皿が床に落ちてパリンと音を立てた瞬間、厨房の空気が凍りついた。
厨房の責任者である女が、フライパンの底でテーブルをバンと叩く。
「またあんたなの!? これで何回目よ!? いい加減にしてっ!!」
「すっ、すみません……」
縮こまる女に、責任者はヒステリックに怒鳴り散らす。
「あんた、本当に使えないんだけど!? ホールに出せばオーダー間違えるし、厨房に入ればボヤ起こすし……洗い場すらできないんなら、もうここにいる意味なくない!?」
すみません、すみません、と気の弱い女が謝る度に、責任者の怒りは加速していく。
周囲の者も、そんな責任者を止めようとはしない。寧ろ責任者の怒りの原因である女を、責めるような目で見ている。
その視線が、声なき声が、こう言っていた。
──早く辞めればいいのに、と
「はあ!? 途中で逃げてきたぁ? なに考えてんだ! 相手はお得意先の社長さんなんだぞ!?」
「そ、それはホテルに連れていかれそうになったから……」
女がオドオドと言い訳を口にすると、店長の男は女に侮蔑の目を向けた。
「君ねぇ、お客様と店の外で二人きりの食事ってのは、つまりそういうことだろ」
それぐらい察しろよ、と言外に匂わせて、店長はイライラとタバコのフィルターを噛む。
「ホステスとしてやっていくなら、これぐらい当然だろ」
「で、でも……」
「社長はもうカンカンだよ。君、もう使えないね。明日から来なくていいから!」
深夜営業しているスーパーで値引きシールが貼られた弁当を買い、女はトボトボと夜の街を歩いていた。上にコートを羽織っても丈の短いドレスを着た足元は寒く、いまだ慣れないハイヒールにつま先が痛い。
ホステスはある程度売れるようになれば、タクシー送迎なんて当たり前なのだが、女はとうとうタクシー送迎なんてしてもらえないまま、仕事をクビになった。
(クビになるの、今年に入って何件目だっけ……)
世の中には、手先が不器用で、物覚えが悪くて、愛想笑いも下手な、とにかく要領の悪い人間というものが一定数いる。女がそれだ。
顔だけはそこそこ良いと褒められたが、それを武器にするには、女はあまりにも世渡りが下手すぎた。
異性には下心のある目で見られ、体を求められ。
同性には男に媚を売っていると見下され。
(……なんで私は人並みのことができないんだろう……)
家族も友達も恋人も、頼れる人は誰もいない。
父は物心ついた時にはいなかったし、母は借金を残して蒸発した。
(どうして、私ばっかり……)
「失礼、あなたが山城ゆりさんね」
声をかけられて、足を止める。しまった、聞こえなかったフリをして、さっさとアパートの中に逃げ込んでしまえば良かった。
それでも一度足を止めてしまえば、もう逃げ出すことはできない。ゆりは覚悟を決めて振り向いた。
背後に佇んでいるのは、金髪をきちんとまとめた二十代の女性だった。上品なスーツと眼鏡がよく似合っている。
「私、花島カンパニーのケイト・ハスクリーと申します。お母様のご融資のことで少々お話が」
そう言って女はゆりの前に一枚の請求書を突きつけた。
そこに記された数字を、ゆりは虚ろな気持ちで見つめる。借金はまた増えていた。
(……お母さんなんて、もう何年も顔を合わせてないのに、なんで私が返済しなきゃいけないんだろう)
でも、この家から逃げて、新しい生活を始めるだけの蓄えもない。
どこにも行けない。何もできない。守ってくれる人もいない。
自分は誰からも必要とされないまま、自分のものではない借金を背負い続けて死ぬのだ。
(誰からも必要とされていないって……辛い)
ケイトと名乗った女は請求書をハンドバッグにしまった。あぁ、今すぐ払えというわけではないのだろう、良かった……と密かに胸を撫で下ろしていると、ケイトはゆりを見てとある提案をする。
「山城ゆりさん、借金返済のためにアルバイトをしてみる気はないかしら? そこらのアルバイトよりかなり儲けは良いわよ」
借金の取り立て人から斡旋される仕事、と言われて真っ先に思いつくのは売春、あるいは臓器の売買。腎臓なんて一つぐらいとっても平気よ、とか言われたらどうしよう……と内心ヒヤヒヤしていると、ゆりの顔色を見て言いたいことを察したのか、ケイトが手を横に振る。
「ああ、売春だとか臓器売買ではないから安心して頂戴。まぁ、おおっぴらに募集できない仕事なのは確かだけれど」
「……どんな、お仕事ですか?」
「あなたに助けてほしい人物がいるのよ」
* * *
部屋に足を踏み入れた瞬間、部屋中に立ち込める異様な空気に足がすくんだ。もしかしたら小さく悲鳴ぐらいはあげていたかもしれない。それほどに酷い光景だった。
血と肉の焦げたにおいと薬品のにおい、医療機器の音に混じる苦しげな呻き声。
ベッドに横たわる人物は全身が包帯だらけで、包帯の隙間からわずかにのぞく皮膚は赤黒く変色していた。
(この人……腕が……)
左腕は包帯で覆われているが、右腕は二の腕から先が無くなっている。
上半身の怪我が特に酷いのだろう。顔なんて半分以上が包帯に覆われていて、性別も年齢も分からない。
痛々しいと思うよりもまず恐ろしくて、ゆりは直視することすらできずに目を反らした。
ケイトが言うには、この人物は火事に巻き込まれ、一命をとりとめたものの、唯一の肉親だった妹を失ってしまったらしい。
『あなたにはその妹のふりをし、彼のリハビリのサポートをしていただきたいのです』
それが、ケイトがゆりに提案した「お仕事」だった。
『彼は視力を失っていますし、あなたは妹さんと声や背格好が似ています。事前に口調や癖を覚えておけばなんとかなるでしょう……いいえ、なんとかしなさい』
ケイトは眼鏡の奥の瞳を鋭く細めて、ゆりを見据えていた。絶対に逃がさないとばかりに。
『あなたに選択権はないのよ。全力で騙しなさい。たとえ相手が……全てを失った哀れな人間だとしても』
ケイト達は慈悲の心でこの青年を助けようとしているわけではない。ただ、この青年が彼らの研究に役に立つから、生かそうとしているだけだ。
こんなにボロボロになって、帰る家も家族も失って、それでもまだ、この青年は搾取されようとしている……偽物の妹をあてがわれて。
ゆりは自分がしようとしていることが、途端に恐ろしくなってきた。
(やっぱり、無理……妹役なんて……私には……)
もうこれ以上、この哀れな青年を見ていられなくて、ゆりはその場を逃げ出そうとした。
その時、ベッドの上の青年が体を痙攣させて、絶叫する。
「ぁ……ぁ…あああああ!」
その断末魔にも似た声に、ゆりはヒィッと息をのんで涙目で後ずさった。
白衣を着た少年が、慌ててベッドの上の青年を押さえ込む。
「ちょっ、暴れちゃ駄目なのだー! 点滴が抜けちゃうー!」
「……ろぜぇ……!」
青年の苦しげな声はガラガラに掠れていて、ただただ恐ろしかった。
だが、最初は意味を持たないと思っていた叫びを聞き続けていると、次第に青年が何かを訴えかけているということが分かる。
「ごろ、せぇ……あ、ああ……あや、めぇ……すまな……まもれな、がっ…た……」
あやめ──それはこの人の死んだ妹の名前だ。
そこでゆりはやっと気がついた。
部屋に入った時から聞こえていた呻き声は、苦痛を訴えるものじゃない。
(この人はずっと、妹さんへの懺悔を口にしていたんだ……)
耳をすまして意識を集中すれば、彼が同じ言葉を繰り返しているのが分かる。
『あやめ』
『守れなかった』
『すまない』
そして……必ず最後に、彼はこう言うのだ。
『殺してくれ』
咄嗟に、ゆりは口を開いて叫んでいた。
「お兄様!」
青年に駆け寄り、包帯に覆われた左手に触れる。
事前の打ち合わせで聞いた妹の口調で、口が勝手に言葉を紡ぐ。
「お兄様、傷が痛むのですか」
包帯だらけの体がピクリと小さく震える。
「あ、や……め」
(私の声……届いた)
鼻の奥がツンとして目が熱くなる。いつの間にか、ゆりの両目からは涙が溢れていた。
その涙の理由が、この青年に同情したからなのか、亡き妹の気持ちが分かったような気がしたからなのか、自分でもよく分からない。ただ涙が止まらい。
そして、自然とこぼれ落ちた言葉は……間違いなくゆりの本心だ。
「あなたが生きていて……本当に良かった」
「あ、や、め……」
掠れてはいたが、穏やかで優しい声が妹を呼ぶ。
多分きっと、それは初めてゆりが誰かに必要とされた瞬間だった。
* * *
火事に巻き込まれた青年の、妹のふりをしてサポートをすること。
そして、フリークス・パーティというイベントに彼の姫役として参加すること。
それが花島カンパニーがゆりに与えた仕事だ。
ケイトはゆりに契約書を差し出して言った。
「フリークス・パーティでの獲得賞金の三割があなたの取り分です。借金を返したいのなら、全力であなたのお兄様のサポートをなさい」
ゆりはその契約書にサインをしながら、自分が最低の約束をしていることを噛みしめる。
自分はあの哀れな青年を騙して戦場に送る。そして、その賞金の一部を受け取るのだ。
青年のリハビリは順調だった。彼はゆりが寄り添うようになってから、驚異的な回復力を見せ、今ではリハビリと称して毎日素振りをしている。
そうして、フリークス・パーティの参加が近づいたある日、彼はゆりに言った。
「『サンヴェリーナ』……それがフリークスパーティでの、お前の名になるそうだ」
「サンヴェリーナ? 親指姫ですか?」
「親指姫? そういう童話があるのか……俺はいまいちそういったものに疎くてな」
青年は少しだけ唇をへの字に曲げて、頰をかく。
彼の両目は包帯に覆われているから表情が分かりづらい。それでも、ゆりは彼の感情の機微が少しずつ理解できるようになってきた。今の彼は少し恥ずかしがっている。
「まぁ、うふふ。わたくしがサンヴェリーナなら、お兄様はどんなお名前になるのですか?」
「燕だ。最初はスワローと言われたが、カタカナの名前はいまいち落ち着かないのでな。日本語表記を希望した」
「燕! 素敵! お兄様にぴったりです!」
サンヴェリーナ──親指姫は傷ついた燕を助け、燕は親指姫を春の国へと連れていく。
昔読んだ童話のワンシーンを思い出し、ゆりは自嘲した。
(……私は、心優しい親指姫なんかじゃない)
善意ではなく打算で燕を助け、騙し、戦わせ……その賞金をかすめとる。最低の偽者だ。
(それでも……)
「サンヴェリーナ」
「はい、お兄様」
「サンヴェリーナ……やはり言いづらいな。慣れるまで時間がかかりそうだ」
「わたくしはお兄様と呼び続けてもよろしいですか?」
彼女の問いに、燕は「無論だ」と力強く頷いた。
「どんな時でも、お前が俺の妹であることに変わりない。フリークス・パーティとやらでも、お前を死なせたりはせん。必ず守ってみせる」
(この人は私に優しい。私を守ってくれる。私を必要としてくれる)
だから、ゆりはこの哀れな青年を騙し続ける。
この人に愛される妹のあやめを──心優しいサンヴェリーナを演じ続ける。
* * *
己の首を絞める紐がキシキシと軋む。その音が、サンヴェリーナを現実に引き戻した。
(分かってる……全部全部、私のためだって)
サンヴェリーナはいつだって自分のことばかり考えて、打算で動いている。
だから、打算無しで自分を助けてくれたサンドリヨンに憧れた。力強く手を引いて、あの場から連れ出してくれたサンドリヨンが眩しかった。
(……私もあんな風になりたかった)
首紐を外そうともがいていたサンヴェリーナの指が力を失い、だらりと垂れる。
スノーホワイトがクスクスと笑った。
「やっと自覚したんですね……自分が嘘つきだと」
嘘つき。
その言葉がサンヴェリーナの胸をえぐる。スノーホワイトはサンヴェリーナの事情など知らないのだろう。それでも「兄のために」というサンヴェリーナの嘘を見抜き、自分のことしか考えていないサンヴェリーナの醜さを露呈した。
いよいよ抵抗が弱くなってくると、スノーホワイトはサンヴェリーナの耳に、唇が触れるぐらい顔を近づけて囁く。
「一つ昔話をしましょうか。私ね、そこそこ裕福な華僑の家の出身で……許嫁がいたんです。私より二歳年上の資産家の息子でした」
スノーホワイトはサンヴェリーナが意識を失わないよう、ギリギリの力加減で首を絞めながら、訥々と己の半生を語る。
「私は妾腹の子だったから家に居場所がなくて……その許嫁だけが頼りでした。彼に見捨てられたらどこにも居場所がなくなってしまう。だから、見捨てられないよう必死で尽くしました。どんな嫌なことでも我慢しました」
スノーホワイトの黒い瞳が、暗く淀む。
激しい水音の響く会場は、もう脛の辺りまで水に浸かり始めていた。その足にまとわりつく水が、スノーホワイトの暗く重い情念のようにすら感じる。
「その許嫁は何かある度に『できの悪いクソブスが』と言って私を殴りました。私は、何でもするから許してくださいと懇願しました。その人は私の髪を鷲掴んで頰を叩きました。叩きながら彼は、私のことを『愛してる』と言いました。『愛してる。だから、何をしても構わないだろう?』と。私は愛してもらわないと、居場所がなくなってしまうから必死で頷きました。愛してくださいと懇願しました。その許嫁は『ああ、お前みたいなクズ女を愛してやるなんて、僕はなんて優しいんだろうな』と言いながら、私のお腹を踏みつけて、ゲラゲラ笑いました。『愛してる』と言いながら、その人は私を殴りました……愛してるなら何をしてもいいのだと、その人は言いました」
スノーホワイトの声は抑揚が無く、だからこそ、押し込められた彼女の激情の底が見えない。
「だったら、愛なんていらない。愛してくれなくていい」
首を絞める力が再び強くなる。苦しげに喘ぐサンヴェリーナを憎々しげに睨みつけ、スノーホワイトは声高に叫ぶ。
「愛してると言いながら、みんな私を踏みにじる。それなら愛なんていらない。私が愛していればそれでいい! 誰も私を愛さないでいい! 私が! 私が愛していればそれでいいんです、それだけでいいんです! だから貪欲に愛情を乞うあなたを見ているとイライラするんです。愛されるために嘘を吐いているあなたが嫌い、嫌いです」
サンヴェリーナは誰からも必要とされなかった。だから、愛されたかった。愛されたくて嘘を吐いた。
スノーホワイトは愛情を免罪符に踏みにじられてきた。だから、愛されることを疎み、愛することだけを選んだ。
「愛されたいだけの親指姫と、愛したいだけの白雪姫。ふふふ、正反対なのに独り善がりなところは同じですね…………私達、きっと永遠に分かり合えない」
サンヴェリーナの視界が霞む。もう、手に力が入らない。
「長く話しすぎましたね。そろそろ終わりにしましょう……さようなら」
死というものは、なんと静かに訪れるのだろう。
あんなに煩かった水音も、スノーホワイトの呪詛の声も、何も聞こえない。
とても静かになった世界で彼女は……
「サンヴェリーナ!!」
己を呼ぶ人の声を、確かに聞いた。
ドン、と胸を圧迫され、サンヴェリーナの肺は思い出したかのように酸素を取り込む。真っ暗になっていた世界が急速に色彩を取り戻し、心配そうに自分を見つめる人の姿を映す。
「お、にい、さ……」
「無理に喋るな」
燕は左腕でサンヴェリーナを抱き抱えながら、右手の刀でスノーホワイトを牽制していた。
「駆けつけるのが遅くなって、すまなかった。お前のいる方角は分かったのだが、どうにも壁が邪魔でな」
「それで、壁を壊しながら駆けつけたんですか……非常識な人」
スノーホワイトが刀で切り裂かれた組紐をポイと放り捨てて、憎々しげに呟けば、燕は静かに告げた。
「女を斬る気は無い。立ち去れ」
「嫌です駄目です。だって私はライ君の姫だから、ライ君の敵は殺さないと」
サンヴェリーナには、なぜそこまでスノーホワイトがライチョウに固執するのかが、分からなかった。愛されることを疎いながら、何故彼女はこんなにもライチョウを慕うのだろう。
「何故です。何故、そんなにあの人を……」
サンヴェリーナが思わずそう呟けば、スノーホワイトは暗い目でサンヴェリーナを見て、吐き捨てた。
「それはきっと、あなたには分かりませんよ」
愛されたいだけの、あなたには──と、声無き声で、蔑まれた気がした。
鼻白むサンヴェリーナに、スノーホワイトは目もくれず、恍惚とした目でうっとりと語る。
「私を愛してはくれない愛しい人、彼のためならなんだってします。なんだってしてあげたい……だって、愛しているから…………だから、邪魔者は殺します」
スノーホワイトは大きく開いた胸元に指を差し込み、そこから小ぶりの櫛を取り出した。装飾のついた銀色の美しいコームだ。
燕が油断なく刀の切っ先をスノーホワイトに向けた。
「……ただの櫛ではないようだな」
「ただの櫛ですよ。ちょっと先端が尖っているだけの」
ふふふ、と笑ってスノーホワイトは白い繊手で櫛を握り、ヒラヒラと振ってみせる。銀の櫛は地下迷宮の弱い光源を反射して怪しく輝いていた。
燕が苦い声で言う。
「……絞殺用の紐に、刺殺用の櫛か。姫の武器持ち込みは禁止されている筈だが」
「ふふ、武器じゃないですよ。胸紐も櫛も白雪姫の嗜みですから」
「……ほぅ。だが、毒リンゴはないようだが?」
スノーホワイトは赤い唇を美しく釣り上げ、告げる。
「ありますよ」
言葉と同時に、スノーホワイトは燕へ駆け寄る。
燕がサンヴェリーナを背後に庇うと、その僅かな隙にスノーホワイトは一気に距離を詰めて燕の懐に入り──両手を燕の頰に添え、彼の唇に己の赤い唇を重ねた。
* * *
『おーっと! スノーホワイト、唐突に燕選手に口づけをかまし……かましてない! 燕選手避けました! 間一髪で避けましたー!』
スクリーンの映像を見ていた優花は、口をあんぐりと開いて仰天した。
「え!? え!? なんでキス!?」
この状況でなんで? と混乱する優花の横で、ウミネコが額に手を当てた。
「勿体無い! オレなら絶対そのままベロ入れるのに!」
「次の瞬間オダブツだぞ」
クロウが短く突っ込み、エリサが腕組みをして唸る。
「明らかに毒を仕込んでますよねアレ……ルール的に良いんですか?」
「黙認されてんだろ。ばれなきゃセーフ、パーティが盛り上がれば、それで良いってのがレヴェリッジ家の方針だからな」
* * *
「女の子に恥をかかせるんですか? ……酷い人」
燕に突き飛ばされたスノーホワイトは己の唇に指を添えて、薄く笑う。
余裕の表情のスノーホワイトとは対照的に、サンヴェリーナは真っ赤になって叫んでいた。
「な、なな、な、何をするんですかー! ああああなたという人は……!」
「落ち着けサンヴェリーナ、毒は受けておらぬ」
「そういう問題じゃありません!」
動揺するサンヴェリーナをなだめていた燕だったが、その動きが不自然に止まる。体に痺れがあった。たとえ体の一部を機械化していても、生身の部分に異変が生じれば、機械化された腕の動きも鈍る。
これは間違いなく毒の症状だ。だが、燕は確かにサンヴェリーナの口づけをかわしている。
動揺する燕に、スノーホワイトはニッコリ笑いながら、右手の櫛をヒラヒラと振った。
「『白雪姫』を読んだことはありますか?」
「……なに?」
「絵本によってはこのシーン、カットされているんですけどね……櫛にも仕込まれているんですよ……白雪姫を殺すための毒が」
そこでようやく燕は、己の脇腹に小さな傷ができていることに気がついた。おそらく口づけをかわした際に、櫛で腹を刺されたのだ。
毒はおそらく、そう強い毒ではないのだろう。せいぜい体が少し痺れる程度。だが……
「私相手なら、それぐらい大したハンデじゃないですよね……私だけが相手なら」
その時、燕の鋭い感覚は風を切り裂き飛来する物体を捉えた。おそらく、小型のボウガン。その矢は真っ直ぐにサンヴェリーナの眉間めがけて飛んでいく。刀で弾くのが間に合わない!
「──サンヴェリーナ!!」
燕は咄嗟に、機械化された右腕をそのまま盾にした。ボウガンの矢はサンヴェリーナの手前で燕の機械化された右腕に突き刺さる。
「お兄様っ!」
「問題ない」
サンヴェリーナに余裕の態度で返しつつ、燕は静かに焦りを募らせていた。今のボウガンの攻撃で、右腕に異常が出ている。指先に上手く力が伝わらない。
バシャバシャと水をかき分ける音とともに、ライチョウが姿を現した。ボウガンの攻撃は彼の義肢に仕込まれたものなのだろう。
接近と同時にライチョウがチェーンソーのスイッチを入れた。ィィィィィィィィン……という機械音が聴く者の背すじを凍らせる。
スノーホワイトがライチョウに駆け寄り、健気に話しかけた。
「ライ君ごめんなさい私、上手に殺すことができませんでした」
「元より必要ない」
「でも私、ライ君の役に立ちたくて……」
ライチョウは何も言わず、スノーホワイトをちらと見る。
スノーホワイトは泣き出しそうな顔をして、ペコペコとライチョウに頭を下げた。
「ご、ごめんなさい私なんかが出すぎた真似をしてごめんなさい」
そんな二人のやりとりの間も、燕は冷静に自分が置かれた状況を把握しようとする。
麻痺毒による体の痺れ。そして、右腕の接続不良。刀を握って振り回すことはできるが、鍔迫り合いになったら勝ち目は薄い。
それでも、燕は不安そうなサンヴェリーナを安心させるよう、落ち着いた声で言う。
「案ずるな。何があろうともお前を死なせたりはせん」
燕は数歩前に出てジリジリと距離を詰める。距離を一気に詰めすぎてもいけない。ライチョウはボウガンという飛び道具を持っているのだ。ボウガンの矢から常にサンヴェリーナを守れるよう立ち回らなくては。
水かさはいよいよ膝に届きそうなほどになっている。通常時のように俊敏に動き回ることはできない。とは言え、いつまでも様子を見続けていては、どんどん水かさが増していく。
そんな状況の中、先に動いたのはライチョウだった。ライチョウが常人にあらざる速さでチェーンソーを振り下ろす。
チェーンソーは刀で受け流せないので、燕は身を捻ってかわしつつ、ライチョウの攻撃がサンヴェリーナに向かぬよう、常に意識を向ける。
足場の悪い場所での戦いに不慣れな燕と違い、ライチョウは常時とさほど変わらぬ動きで、静かに燕を追い詰めていった。ライチョウは元軍人だ。足場の悪い状況での戦い方も心得ている。
サンヴェリーナを守るため、燕が一歩引いた瞬間、ライチョウは左手に仕込んだボウガンを放つ。刀で払おうとするが腕に上手く力が伝わらず、燕の動きが一瞬止まった。
(ここで避ければ……サンヴェリーナに当たる!)
ボウガンの矢が燕の脇腹を貫く。その時になって、初めて燕は気がついた。己の腹を貫くそれの形状は普通の矢のそれではない。
これは、アンカーだ。
アンカーのワイヤーはライチョウの左腕と繋がっている。まさか、と思った瞬間、ライチョウはアンカーを巻き取った。
アンカーには簡単に抜けぬよう銛のような返しがついている。その返しの部分が、燕の腹を深く抉った。
「がっ、ぁああああああああああっ!!」
絶叫とともに、血飛沫と肉片が舞う。
サンヴェリーナが悲鳴をあげて燕に駆け寄る。
「お兄様ぁぁぁっ!」
「動くなっ!」
燕が血を吐きながら叫び、サンヴェリーナが動きを止める。
これ以上サンヴェリーナが前に出れば、確実にライチョウの射程に入ってしまう。そうなればライチョウは迷わず回避能力のないサンヴェリーナを狙うだろう。
(それだけは……させん!)
刀を握り直せば、視界が霞んだ。脇腹から流れる血が燕の周辺の水を赤く染める。
* * *
「燕さん! 大変、燕さんが……」
悲鳴をあげる優花とはいっそ対照的なほど、ウミネコはのんびりとしていた。
「ありゃりゃ。燕のやつ、完全に的になっちゃってんなー」
スクリーンの中では、燕が脇腹の傷口を押さえながら、それでも刀を握りしめ、一歩も引かぬ態勢でライチョウと向かい合っている。出血の量が多いのは一目瞭然。急いで止血をしなければ、命に関わるだろう。
エリサが顎に手を当てて、険しい顔をする。
「なんで燕さんは攻めに行かないんでしょう。ここは、速攻で攻撃を仕掛けた方がいいのでは?」
エリサの疑問にクロウが真面目に解説をした。
「普通の舞台なら、燕が速攻をしかけるのもありだが、今は水のせいで身動きがとりづらい……もたついていれば、その間にサンヴェリーナがスノーホワイトに殺される」
「位置どりもまずいよなー。サンヴェリーナちゃんの背後に逃げ道がないから、サンヴェリーナちゃんは燕の横をすり抜けて前に出ないと戦線離脱できない。けど、前に出ればボウガンで狙い撃ちされちまう」
ライチョウのやつ、よく考えてんなー、と感心したように呟くウミネコに、優花がオロオロしながらスクリーンとウミネコを交互に見る。
「でも、このままじゃ燕さんが……」
「まぁ、ギブアップでもしない限り、なぶり殺し確定かな」
「そんな!」
優花の悲鳴を聞きながら、クロウは声に出さず思案した。
地下迷宮の温度は恐らく十度以下。放水されている水もかなり冷たいはずだ。そこに大量出血となれば、相当体力を削られたはず。
(ライチョウは前回燕と戦って負けた時は、遠距離攻撃用ギミックが乏しかった。今回は燕対策に色々用意してきたってわけか……)
前回と同じ装備の燕と、万全の対策をしてきたライチョウ。
既に明暗は、はっきりと分かれている。
(準決勝で当たるのは……ライチョウだな)
* * *
脇腹を赤く染めながら、それでも刀を離さない燕に、サンヴェリーナが叫んだ。
「お兄様! もう……もう止めて下さい! ギブアップしましょう! そうすれば命だけは……っ!」
燕は一歩も動かず、そして何も言わない。その細い背中に、サンヴェリーナは必死で言い募る。
「お願いです! もう、これ以上は……お兄様が死んでしまいます!」
「駄目だ」
頑なに言い張り、そして燕は全神経を集中させる。
燕の目のセンサーは地下迷宮の大雑把な形を把握することはできても、細かな部分までは把握できない。だが、彼の耳が、わずかに残された生身の皮膚が、正確に自分の周囲の状況を教えてくれる。
水が流れ込む音。頰を撫でる弱い風。
──あと、三秒
「まだ、やれることがある」
唐突に、燕のすぐそばの壁がガラガラと崩れ落ちた。先程、ライチョウと斬り合った際に少しばかり切っておいたのだ。水圧に負けて、時間差で崩れ落ちることを計算に入れて。
「退くぞ、サンヴェリーナ!」
燕はサンヴェリーナの手を引き、崩れた壁の穴に飛び込んだ。今は態勢を立て直す必要がある。
だがしかし、彼が逃げた方向には赤い血の筋がうっすらと残っていた。追跡されるのは時間の問題だろう。
ライチョウがチェーンソーを一度オフにして、燕が逃げ込んだ壁の穴を睨みつけた。
「……無駄な足掻きだ」
──完全水没まであと二十分




