【6-4】仲直りの双子パン
目を覚ました優花が最初に感じたのは、フカフカとした羽毛布団の感覚と、少しだけ残る柔軟剤の香り。そのどれも覚えのあるものだった。
ここはクロウと暮らしているマンションの寝室だ。
「起きたか」
ベッドサイドに佇んで優花を見下ろしているクロウは、いつも以上にむっつりとした不機嫌そうな顔だった。
最後にクロウと話したのは第二試合の真っ只中。それも、優花が試合を妨害するような形でだ。
きっと怒ってる。また、ぶたれるかもしれない。
それでも言わなくては。ちゃんと謝らなくては。
優花は怖気づきそうになる自分を奮い立たせ、クロウに頭を下げる。
「勝手なことして、ごめん」
「…………」
「怪我、させちゃって、ごめんなさい」
「…………」
本当は、ここで終わらせてしまいたい。これに続く言葉は、言わなくても良いのでは……そんな甘ったるい考えが胸をよぎる。
だが、それではダメなのだ。迷惑をかける覚悟をしたのなら、きちんと彼に言わなくてはいけない。
「いっぱい迷惑かけてごめん。それでも、私は自分の主張を譲れない。人が殺されそうになるのを、指をくわえてただ見ているなんて、できない」
クロウは何も言わない。怖いぐらいの無表情で、じっと優花を見ていた。
薄い水色の目は硬質な氷の刃みたいで、なんだか少し怖い。
「あんたが私のことを許せないなら、それでも良い。詰られる覚悟はある。ただ、これだけは言わせて」
どんなに罵られても、それでも言いたいことがある。
「トラヴィアータも、ミミズクも……誰も殺さないでくれて、ありがとう」
クロウは第一試合でも第二試合でも、その気になれば対戦相手を殺すことは簡単だった。実際に彼はそうすると公言していたのだ。
それでも、クロウは誰も殺さなかった。その事実だけで優花は救われた気持ちだった。
「……お前はオレが憎くて、妨害をしたんじゃないのか? オレが死ねば良いと思っていたわけじゃないのか?」
「違うっ、そんなこと、絶対に思ったりなんかしないっ!!」
カッとなって優花は叫ぶ。髪を振り乱して、喉を震わせて。
「あんたに死んでほしくないし、手を汚してほしくもない……ただ、それだけなのにッ……でも、そのせいで、あんたに怪我をさせたのよね……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
何故、自分はいつも上手に立ちまわれないのだろう。
感情に振り回されて、勢いで行動して、全然、理論も理屈も滅茶苦茶で。
(……駄目だ。自分のことを卑下して、立ち止まってる場合じゃない)
今はクロウと向き合って話をしなくては。自分が思っていることをきちんと伝えなくては。
……それなのに喉がうまく動かない。
目の奥が熱くなって馬鹿みたいに涙がこぼれてくる。おかしい。泣かないように我慢するの、得意だった筈なのに。
一度、滴が零れ落ちると、次から次へと涙が溢れて止まらない。
「ごめっ……ごめんっ、なさっ……」
鼻をすすりながら、目を押さえ、なんとか涙を止めようと奮闘していると、息を吐くように笑う声が聞こえた。
「やっと、泣いたな」
クロウは口の端を小さく持ち上げ、眉を少しだけ下げた、柔らかい表情を浮かべていた。
優花が「ふぇ?」と間の抜けた声をもらすと、クロウは肩を竦める。
「だってお前、モズに誘拐されて殺されかけた時も、パーティが始まって何度も怖い思いをしても……オレが殴ったり、拘束したり、酷いことをしても、一度もオレの前で泣かなかっただろ」
クロウは赤くなった優花の鼻をつまむと、まるで少年みたいな顔で笑った。
「一度、お前を泣かせてみたいと思ってたんだ。ははっ、やっと泣かせてやった」
「性格、悪っ……」
鼻をつまむ手を振り払い、優花がじとりとクロウを睨んでも、クロウはニヤニヤと余裕の表情である。
「あぁ、やっぱお前はそれぐらい威勢が良くないとな。オレに何度も謝るなんて、お前らしくねぇよ」
「……なによっ……私は、いっぱい、考えて……っ」
「いいよ」
唐突に投げかけられた一言が、優花の動きを止める。
クロウは憑き物が落ちたような顔で、短く言った。
「お前がオレを裏切ったんじゃないなら、それでいい」
それは、優花を許す言葉だ。
だが、優花には彼が許してくれる理由が分からない。優花は今まで以上の勢いで怒鳴られ、責められることを覚悟していたのだ。それなのに、どうして彼はこんなにもサッパリした顔をしているのか。
「私、これからもきっと、たくさん迷惑かける」
「お互い様だろ? むしろ、一番迷惑被ってんのは、望まない殺し合いに巻き込まれたお前だろうが」
それは確かに事実だが、クロウだって美花のわがままに振り回された被害者なのだ。
優花が口ごもっていると、クロウはベッドに腰を下ろす。
「なぁ、サンドリヨン。オレはこの先の試合で、誰も殺さないと約束はできない。相手を殺さないとオレやお前が死ぬかもしれないという状況になったら、オレは迷わず相手を殺す方を選ぶ」
「…………」
「オレは自分の主張を曲げるつもりはない。それでも、お前も自分の主張を曲げるつもりが無いなら、お前はお前の好きなように動けば良い」
クロウらしいぶっきらぼうな譲歩の言葉が、胸にじんわりと染み込んでくるようだった。
こういう時、優花は自分の不甲斐無さが嫌になる。
「あんたのために何もしてあげられなくて、ごめん」
「……お前はオレのために何かしたいと思っているのか?」
「うん」
迷子の子どもみたいに途方に暮れた顔をしていたクロウを放ってはおけなかった。
だから、優花は彼に何かしてあげたかった。
「あんたの力になりたい、あんたのために何かしてあげたい、って思ってる」
そう言って、優花は頼りなくクロウの服の裾を掴む。
クロウはコクリと唾を飲み、優花に手を伸ばした。
「……それなら、オレと――」
ぐぅぅぅぅぅ……きゅる……
「…………」
「…………」
女の子としてあるまじき音量の腹の虫に、優花は真っ赤になって腹を押さえた。
悲しきかな、空腹ゲージはとっくに限界。大食漢の優花がこの二日でまともに口にしたのは、アンパン一つなのだ。もつはずがない。
優花が、あうあうあうあう……と口を震わせて呻いていると、クロウは呆れたような顔で笑った。
「少し待ってろ」
しばらくして、クロウはミネラルウォーターのペットボトルと紙袋を持って戻ってきた。そして、優花の手に紙袋を握らせる。
「ほら」
「わっ、ありがとう」
年上の威厳、形無しである。それでも空腹だから仕方ない。仕方ないったら仕方ない……と紙袋を手に取った優花は、その紙袋のロゴを見て瞬きをした。アンパン大使がくれたアンパンの紙袋と同じ袋だ。
「それ、お前と一緒にいたパン屋の女が一緒に食えって」
紙袋に入っていたのは丸いパンを二つくっつけた、雪だるまのような形のパンだった。優花には懐かしい馴染みの商品だが、クロウは物珍しげな顔をしている。
「なんだこれ、焼く時に失敗したのか?」
「違うわよ、これは双子パンって言って、こういうパンなの。半分コして食べるのよ。右と左、どっちがいい?」
「両方お前が食べればいい」
「あのパン屋さんは一緒に食べろって言ったんでしょ? はい」
優花は丸いパンの片方をクロウに押しつけ、自分のパンにかじりついた。中身はカスタードクリームだ。ぽってりとした優しい甘さと滑らかな舌触りに、優花は目を細める。
「カスタードクリームおいしぃ〜」
「こっちはチョコクリームが入ってたぞ」
「本当? 一口頂戴」
クロウが「ほらよ」とパンを差し出したので、優花はバクリとチョコクリームパンを頬張った。すると、クロウが「おい!」と動揺したような声をあげる。
もしかして、一口が大きすぎたかしら……と優花が反省していると、クロウはまるで見当違いのことを言った。
「そのままかじりつく奴があるか!」
「なんで?」
首を傾けて心底不思議そうな顔をする優花に、クロウはもごもごと口ごもる。
優花は自分のカスタードパンをクロウに差し出した。
「あ、私のも一口食べる?」
「……え」
「美味しいわよ。カスタードクリーム嫌い?」
クロウは目をそらしてボソボソと「まぁまぁ嫌いじゃない」と言う。
クロウの「まぁまぁ嫌いじゃない」は「結構好き」だということを、優花は二週間の同居生活で把握していた。
「じゃあ、はい、どーぞ」
クロウは何故か葛藤した様子で視線を右に左に彷徨わせていたが、やがて覚悟を決めたようにパンにかぶりつく。
「ね、美味しいでしょ」
「あ、あぁ……」
クロウはそっぽを向いて、手元のパンをポソポソと食べ始めた。
(相変わらずお行儀の良い食べ方だなぁ)
クロウはパンに直接かぶりつかないで、必ず一口サイズに千切って食べるのだ。口は悪いが、案外育ちが良いのかもしれない。
そんなことを考えつつ、優花はパンをかじる。
アンパン大使がこの双子パンをくれた理由が、優花にはなんとなく分かるような気がした。
誰かと一つの物を半分コして分かち合うのは、いつだって子ども達の仲直りの儀式なのだ。
甘くて美味しいパンを飲みこみ、ミネラルウォーターで流し込むと、ちょっとだけ元気になった気がする。
(大丈夫、私はまだ頑張れる)
また失敗するかもしれないし、迷惑かけるかもしれない。それでも、自分ができることを探すのは絶対に諦めない。
もっともっと頑張ろう。自己満足と言われても、偽善者と言われても「自己満足で何が悪い!」と胸を張って言い返せるように。




