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【幕間12】ラ・トラヴィアータ

 スラム街を歩くには、その男の格好はあまりにも場違いすぎた。

 一目でブランド物と分かる毛皮のコートにサングラス。女性と見紛うほど美しい顔には化粧が施されていて、手入れの行き届いたブロンドは腰に届くぐらいに長い。

 こんなスラム街なんかより、アッパーイーストサイドを闊歩している方がよっぽど似合うだろう。

「おい、兄ちゃん。そこのお前だよ、あんた観光客か? なら、金持ってんだろ? ちょっと恵んでくれよ」

 地べたに座りこんでコークを煽っていた男が声をかければ、美貌の青年は絹糸のような髪を揺らして溜息を吐いた。

「……あー、やだやだ。なんで、こういう汚い街には醜い人間しかいないんだろうねぇ。しかも、喋る言葉まで美しくない。耳障りだから黙ってくれないかい」

 地べたに座っていた男はコークの瓶を放り投げ、懐に手を突っ込む。上着の隙間からは拳銃のグリップが僅かにのぞいていた。

 男はヤニだらけの歯を剥き出しにしてニヤニヤ笑いながら、青年を見上げる。

「なぁ、悪いこと言わないからよぉ?」

 露骨に拳銃をチラつかされても、青年は顔色一つ変えなかった。それどころか、どこか面白がるような笑みすら浮かべて、にんまりと目を細める。

「ふふふ、命知らずのお馬鹿さん。お仕事の途中だけど良いよ、殺してあげ……」

「あんた達、こんな所で何やってんだい!」

 二人が揉めている道路のすぐそばで、窓が内側から乱暴に開いた。窓から顔を出して怒鳴っているのは、派手な化粧をしたチェリーブロンドの女だ。

 青年を脅そうとしていた男が、口を尖らせる。

「なんだ、お前か。邪魔すんなよ」

「その兄ちゃんはアタシの客だよ。商売の邪魔されちゃ困るね」

 女が細い顎をツンと持ち上げて言うと、男はきまり悪げに頭をかいた。

「ちっ、お前の客かよ……じゃあ、仕方ねぇな」

「悪いね。お詫びに次に来た時はうんとサービスしてあげるよ」

「ははっ、その言葉、忘れるなよ!」

 男は軽く片手を上げると、そのままその場を立去る。残された派手な容姿の青年は、窓枠で頬杖をついている女を不服そうに睨んだ。

「ねぇ、ちょっと。僕、君とは初対面なんだけど?」

「そうだね。ほら、とっととどこへでも行っちまいな」

 犬でも追い払おうとするかのように、女はシッシッと片手を振る。

 青年は眉を釣り上げた。

「この僕が娼婦の客扱いされて庇われたとか、すごく納得がいかないんだけど!」

「そりゃ悪かったね。でも、あんたも拳銃を持ってんだろ?」

 派手なマニキュアに彩られた爪が、青年の毛皮のコートを指し示す。

「あの男を殺す気だったんだろ? 困るんだよ。あんなゲスでもアタシの客だ」

「つまり、君は僕じゃなくて、あの男を庇ったってわけかい?」

 青年が目を細めると、女は軽く肩をすくめながら首を傾けた。ショートボブの隙間から覗く派手な耳飾りがシャラシャラと鳴る。

「アタシの仕事の邪魔をされたくなかっただけさ。ほら、とっとと行きな。道に迷ったのなら、そこのストリートを左に曲れば良い。自殺志願者なら右に曲りな」

「右には何があるんだい?」

「この辺の元締めファミリーのアジトがある。正面から突っ込めば蜂の巣にして貰えるよ」

 女の言葉に、青年はうっとりとするような美しい笑みを浮かべた。

「それなら右に行かないとだね」

「おや、本当に自殺志願者だったのかい?」

「ふふっ、まさか」

 青年はクスクス笑いながら、軽やかな足どりでストリートを歩き出す。

 女は、青年が右に曲がろうが左に曲がろうが知ったこっちゃないとばかりに、さっさと窓を閉じた。



 * * *



 その晩、チェリーブロンドの女は、窓にかかったカーテンを少しだけめくってストリートを眺めた。

 今夜はやけに騒がしいのだ。そのせいで、客がまるで寄り付かない。

 蜂の巣でも増えたかな、とぼんやり考えていると、誰かが扉を激しくノックした。酔っ払いの客にしてはやけに切羽詰まったノックだ。

「おい、大変だ!」

 扉の向こう側から聞こえた声は、昼に綺麗な兄ちゃんに絡んでいた男だ。女は扉越しに男に話しかける。

「なんだい、今夜はもう客は取らないよ。気乗りしないんだ」

「そうじゃねぇ。ファミリーのドンがやられた!」

 女は軽く目を見開くと、声を押し殺して問う。

「……下手人は?」

「不明だ。ただ、隣町のファミリーが雇った殺し屋って噂だ」

「不明ってことはまだ捕まってないのかい?」

「あぁ、危ねぇから今夜は外出はしない方が良いぜ」

「ご忠告どうも。それじゃ、今夜は大人しくさせてもらうよ」

 女は扉から離れると、コンロの小鍋に火を入れた。どうやら今日は一晩中騒がしいことになりそうだ。どうせ寝付けないのなら、コーヒーでも飲みながら、徹夜でDVDでも観ていよう。

 その時、またしてもドアが乱暴にノックされた。さっきの男だろうか。

 煩わしく思いつつ、女はコンロの火を消して扉に近づく。

「ねぇ、ちょっと。中に入れてくれない? 僕、怪我してるんだけど」

 扉越しに聞こえた声には聞き覚えがあった。

 女はしばし考えて、鍵を外して扉を開ける。すると、扉の隙間から昼間の美しい青年がするりと入り込み、扉にもたれて息を吐いた。昼間見た美しい毛皮のコートは赤黒い血でグッショリと濡れている。

「この界隈のドンが殺されたらしいけど。下手人って、あんた?」

「そうだよ、そしたらヘマをしちゃってさ。左足に一発貰っちゃった。あぁ、僕の美しい肌に傷が!」

 まるで芝居のように大げさな身振り手振りを交えて男は語る。これだけ派手なリアクションができるなら、しばらく放っておいても死ななそうだと女は思った。

「正直、娼婦の世話になんてなりたくなかったんだけど、早く応急手当しないと僕の美しい肌に傷跡が残ってしまうからね。そういうわけだから救急箱貸してくれる?」

「世話になる人間の態度とは思えないね。消毒液が欲しいなら二十ドル寄こしな」

 女がズイと手を差し出せば、青年は細い眉をひそめた。

「高すぎない? 別にお金が無いわけじゃないけど」

「ここじゃ清潔な物は高級品なんだよ。使い捨ての注射器が一本幾らするか知りたい?」

「注射器を使い回しって、正気とは思えないね」

 青年は毛皮のコートから財布を取り出すと50ドル紙幣を女に押し付けた。

 女は紙幣を光にかざして、透かしと数字の色の変化を確認してから、ポケットにねじ込む。

「注射器を使い回しなんて、ここじゃ当たり前なのさ。隣に住んでた同業者の女はそれで病気を貰って死んじまったけどね」

「なるほど、ここで女を買うのはやめておくよ」

「正しい判断だね。そうでなくても、あんたみたいな若い兄ちゃんなんて女が放っておかないだろ」

 軽い口調で言いながら救急箱を引っ張りだすと、青年は急に前のめりになって叫んだ。

「そう、そこだよ!!」

「はぁ?」

 青年は足の怪我もなんのその、怪訝な顔をする女に詰め寄ると、その美しい顔をずいと近づける。近くで見ると改めて恐ろしいほどの美貌だった。白い肌にはそばかす一つ無いし、睫毛は恐ろしく濃くて長い。

「君さぁ、こんなに美しい僕がわざわざ訪ねてきてあげたのに、なんで放っておくのさ!」

「ちゃんと対応してやってるだろ。薬と包帯まで分けてやってんだ。他に何を期待してんだい?」

「こんなに美しい男がいたら、普通はもっとそれに相応しい対応をするものじゃない!?」

 駄々っ子か。

 女は面倒くさいという気持ちを隠そうとしない顔で息を吐く。

「娼婦風情と言ったのはあんただろ。金にならない男に色目を使うほど暇じゃないんだよ」

「こんな美しい僕を前にその台詞! 信じられないね!」

「確かにあんたは綺麗だよ。自分のことを綺麗って言う奴は大抵がろくでもないけど。まぁ、それを差し引いてもあんたは綺麗さ」

 女が褒め言葉を口にすれば、青年は満足げに頷いた。

「うんうん、分かってるじゃない」

「だからこそ、アタシが色目を使うだけ馬鹿らしい。アタシみたいな安い娼婦の客はシケた中年親父で充分さ」

 そう言って女は救急箱の中から消毒液を引っ張り出す。もう随分と使っていなかったが、ギリギリで使用期限は切れていなかった。あとは包帯があればいいだろう。

 消毒液と包帯を手に振り向くと、やけに神妙な表情の青年と目が合った。

「……君、僕には到底及ばないけれど、そこそこ美人だと思うよ?」

「そりゃどうも」

「僕、自分を卑下する奴って嫌いなんだよねぇ」

「別に卑下なんてしてないさ。単純に年の問題だよ。アタシはもう若くない」

 特に気負うでもなく、当たり前のことのように言えば、青年は嘆かわしいとばかりに天を仰いだ。

「年齢! 実に下らない問題だね! 僕は何歳になろうとも美しいままさ! 年齢に敗北を告げるなんて、僕の美意識が許さない」

「そこまで美に執着できるなら、いっそあっぱれだよ。殺し屋なんてやめて、ビューティ・コンサルタントにでもなっちまいな」

 この青年の美貌なら、きっと顧客が殺到することだろう。なんだったら、モデルでもなんでもすればいい。これだけ美しい容姿をしているのだから。

 だが、青年は金髪をかきあげながら、首を横に振る。

「実に魅力的な案だけど、そうはいかない事情があってね」

「そう。あんたの事情に興味はないよ。アタシはもう寝る。帰るんなら裏口から帰っておくれ」

 女は救急箱と30ドル分の紙幣を押しやると、青年に背を向けた。

 そんな女の背中に青年が、静かに声をかける。

「ねぇ、君さぁ」

「なんだい?」

「生まれはどこの国?」

 女の動きが一瞬止まる。

「……さぁね、忘れちまったよ」

「そう。たまにクイーンズが混ざるから。この街の出身じゃないのかと思って」

 女はふぅっと鼻から息を吐くと、これで最後だと男の方を振り向いた。

「ブロードウェイを夢見て、国を飛び出した馬鹿女の末路さ。よくある話だろう?」

「ステージに未練は?」

「そんなの忘れちまったよ」

 話は終わりかい? と素っ気なく言えば、青年はいつのまにか距離を詰めて女の真正面に立っていた。

(いつのまに?)

 ギョッとしている女の頰に、ささくれ一つ無い美しい指を這わせ、青年は囁く。

「ねぇ、君さぁ……僕の姫になってみない?」

「…………はぁ?」



 * * *



「あ、あの、ピーコックさん。今回の姫なんですけど、お名前はどうしますか? 特に希望が無ければ、こちらで決めてしまいますが」

 ビクビクおどおどしながら訊ねるのは、フリークス・パーティ運営委員会の白兎だ。

 ピーコックは枝毛の手入れをしながら、それに答える。

「トラヴィアータ」

「……え? ト、トレヴィアーン?」

「君、無知なんだね。オペラは見ないの? ラ・トラヴィアータ。日本語だと……あぁ、そうだ『椿姫』だよ」

 白兎はポンと手を打つと、コクコクと頷いた。

「椿姫……あ、それなら聞いたことあります! 確か高級娼婦の純愛物語ですよね!」

 この様子だと知っているのはあらすじだけで、実際に観たことなど無いのだろう。

 ピーコックは金糸のような髪を指先にくるくると巻きつけながら、ふふっと美しく笑った。

「僕さぁ、娼婦って嫌いなんだよね」

「は、はぁ」

「でも、あのオペラは気に入ってるんだ……だって美しいじゃない?」


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