【1ー2】ヒロイン、土下座する
母が死んでから、父は家を留守にすることが増えた。
やれ出稼ぎだとか、冒険王になるだとか、デカイ土地を買うんだとか、大きな口を叩いていた父からの仕送りは年々減少していき、優花が高校二年生の頃には完全に途絶えた。
『優花姉、なんでお父さん、家に帰ってこないの?』
そう寂しそうに問う末っ子の若葉の顔が、優花は今でも忘れられない。
あの時、誓ったのだ。自分が父の代わりとなって家族を守っていくのだと。弟や妹達に苦労をさせたりなんかしない、と。
それなのに妹の美花は高校を卒業と同時に家出をし、そして草太もまた、家を飛び出した。
(草太が美花みたいに……帰ってこなくなったら、どうしよう)
不安を胸に抱えながら黙々と品出しをしていると、あっという間に作業は終わってしまった。そろそろホットフードも補充もしようとレジカウンターに戻ると、同じシフトの大学生、滝川があくび混じりに話しかけてくる。
「今日はチョー暇だよねー。全然お客さん来ないし」
「うん、そうだね」
余計なことを考えられないぐらい仕事に集中したい、という時に限って客が来なくて暇になるものである。
大して減っていないフードストッカーの中身を確認し、レジ周りの整理をしていると、滝川は仕事中にも拘わらず、スマートフォンを取り出して弄り始めた。
「滝川さん、お仕事中はダメですよ」
「いいのいいの。どうせ客いないし。それより如月さんさぁ、今度、うちのサークルの飲み会に来ない?」
優花は思わず「へっ?」と間の抜けた声をあげた。
滝川が大学生で何らかのサークルに所属していて、よく飲み会に参加していることは、たまに話に聞くので知っている。だが、優花はその大学の生徒ではないのだ。その大学の人間でないのに、参加して良いものなのだろうか?
まごまごしながら、その疑問を口にすると、滝川は「へーきへーき」とパタパタ片手を振って見せた。
「うちのサークルって普通に外部の人間も出入りしてっから。飲み会とか、OBも結構来るし。もう、ノリが良ければ誰でも全然ウェルカム的な?」
そういうものなのか、と優花はしみじみ納得する。
高卒の優花にとって「大学」も「サークル」も未知の世界だ。正直に言うと興味はある。だが、真っ先に思い浮かんだのは……
(飲み会って……お金かかるんだろうな)
これである。
以前優花がバイトしていた居酒屋では、安いコースでも三千円前後はした。三千円もあれば、弟達にお腹いっぱいお肉を食べさせてあげられる。擦り切れそうになっている下着を新調するのもいい。そうだ、草太の新しいシューズ代の貯金に……と考えたところで、喧嘩の原因を思い出し、優花は肩を落とす。
自分がこうやって節約することばかり考えているから、弟達が心配するのだ。それでも優花は、弟達を置いて飲み会に参加しようという気には、どうしたってなれなかった。
「ごめんね、しばらくバイトの休みがないの」
ははっ、と苦笑しながらそう答えれば、滝川は一歩優花の方に距離を詰めた。
「如月さんさぁ、この間もそう言ってたよね。まじ、働きすぎじゃね?」
「そ、そんなことないと思うけど……」
「じゃあさ、次の休みっていつ? いつなら空いてる? その日、オレも空けとくからさ、一緒に遊ぼうよ」
畳みかけるように言われて、優花は言葉に詰まった。
休みが全くないわけではないけれど、たまの休みは溜まった家事を片づけたり、自治体で開催される介護検定講座に参加したりで、遊んでいる余裕は殆ど無い。
返事に困っていると、滝川が優花にずいっと顔を近づけた。
「如月さんさぁ、オレと遊ぶの嫌なの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ、彼氏いるとか?」
「いないけど……」
「じゃあ、いいよね? 予定教えてよ?」
予定を教えることと、自分に彼氏がいることに何の因果関係があるのだろう、と優花は真剣に頭を悩ませた。
如月優花二十一歳。家計のために人生を捧げてきた彼女は、言わずもがな彼氏いない歴イコール年齢である。
妹の美花に「早く彼氏作りなよ〜」などとしょっちゅう急かされてきたが、バイトと家事に明け暮れている優花に、そんな余裕などなかった。
「ねぇ、オレ、結構マジなんだけど?」
何がマジなんだろう? と首を捻っていると、滝川は優花に覆いかぶさるようにして、カウンターに手をついた。至近距離で見下ろされ、優花は軽く混乱する。
何故、自分はこんなにも追い詰められているのだろう。
(まさか、その飲み会……人手不足!?)
よほど参加者が少なくて困っているに違いない。だが、自分にも都合が……と大真面目に悩んでいると、自動ドアが開く電子音が聞こえた。
滝川がサッと優花から距離を置いたので、優花はホッと胸を撫で下ろして、客の方に目を向ける。
客はまだ若い黒髪の男だった。年齢は二十代半ば程度だろうか。どことなく西洋風の顔立ちで、整ってはいるのだが、それよりも目つきの鋭さの方が印象的だ。
まだ残暑の残る九月だというのに、タートルネックのシャツにロングコートを羽織っており、手には黒い手袋をはめていた。
男は厳ついブーツをカツカツと鳴らして、陳列棚には目もくれず、一直線にレジへと向かってくる。煙草か何かの支払いだろうか。
そんなことを考えていると、男はカウンター越しに優花を鋭い目で睨みつけた。
「……おい」
「はい、いらっしゃいませ」
優花が営業スマイルでマニュアル通りの挨拶をすると、男はゆっくりと口の両端を持ち上げる。
目をギラギラと輝かせて、眉を釣り上げて、口の端をニタァと持ち上げたその笑みは、酷く凶悪で物騒極まりない笑みだった。
「……やっと見つけたぞ、このクソアマ」
「はい?」
言われた言葉の意味が理解できず、優花は一瞬フリーズするが、すぐに気を取り直す。これは多分、クレーマーだ。今までにも何度か遭遇したことがある。
クレーマー相手には、まず相手の話をよく聞き、相手の要望を聞き出すことが重要……という店長の言葉を思い出した優花は、まず目の前の男の話に耳を傾けようとした。
ところが、男はあろうことか、ズンズンと大股でカウンター内に入ってくると、優花の腕を乱暴に掴んだ。そうして、ズイと顔を近づけて低い声で呻く。
「オレから逃げられると思ったか」
「え、あの、ちょっ、お客様、カウンター内に入られては困ります」
「ほぅ、シラを切るつもりか?」
優花の対応に、男はますます機嫌を損ねたらしい。眉間の皺が更に深くなる。
(なに!? なんなのこの人っ!!)
最初はクレーマーかと思い様子を見ていた滝川も、流石に異変に気付いたらしい。
「なにすんだよ!? 手ぇ離せよ、あんた!」
滝川は優花を掴む男の手を引き剥がそうと試みたが、手袋をした男の手はピクリとも動かなかった。長い指が鉤爪のように、優花の腕にきつく食い込む。
流石にこれは普通じゃない、と優花は自由に動く方の手で防犯ベルを押そうとした。だが、男はその手を軽々と捻じ上げる。
「い、痛いっ! 離してっ!!」
「オレは強盗じゃない」
(強盗じゃなくても、暴漢であることには間違いないわよ!)
こうなったら、思い切り体当たりをして、その隙に滝川に防犯ベルを押してもらうしかない。優花が滝川に(隙をついて防犯ベルを押して!)と目で合図を送ると、滝川は鼻息荒く頷いた。
「待ってろよ、オレが助けてやるからな!」
違うそうじゃない。と優花が声なき声で叫んだその時、黒髪の男が口を開いた。
「この女はオレのモノだ。連れて帰る。文句はないな」
大有りである。
これには流石の優花も目を剥いて叫んだ。
「誰が、誰のモノですって!? 文句あるに決まってるでしょ!! 滝川君! ヘルプ! ヘルプ! 早く非常ボタンを押し……もがっ」
男は優花の口を乱暴に塞ぐと、そのまま優花を小脇に抱えて歩き出す。レジカウンターを越えて、コンビニの扉を出れば、深夜の駐車場に一台の車が停まっているのが見えた。男はその車に向かって真っ直ぐに向かっている。
流石に車に乗せられたらまずい。優花は口を塞ぐ男の手に手袋越しに噛みつき、叫んだ。
「離してっ! 離しなさいよっ!」
「うるせぇ!」
バシッと鋭い音がして、頬がジンジンと熱くなる。
頬をぶたれたのだ。それも、いっさいの容赦も無しに。
口のどこかを切ったのか、少しだけ血の味がした。
「オレにあんな舐めた真似しておいて、口応えできる立場か? あぁ?」
優花を見下ろす目は、軽く血走り殺気立っていた。
(……なにこいつ、やばい)
下手に逆らったら何をされるか分からない。そんな空気が男にはある。だが、このまま自分はどこに連れて行かれようとしているのだろう。
「乗れ」
男は駐車場に止めてあった車の助手席に、優花を突き飛ばした。シートの端に頭をぶつけて「ぎゃんっ!」と悲鳴をあげた優花がふらついている間に、男は運転席に乗り込み、エンジンをかける。
(駄目だ、呆けてる場合じゃない! 車を出されたら、どこに連れて行かれるか分かったもんじゃないし、車が動く前に逃げなくちゃ……)
「逃げようなんて思うなよ?」
男はサイドブレーキ越しに手を伸ばし、優花に何かを突きつけた。細いナイフだ。街灯の明かりを反射して銀色に輝く刃が、優花の顎をチクリと刺す。
あと数ミリ刃を食い込ませれば、皮膚が破け、血が流れる──そんなギリギリの位置でナイフを止めて、男は嗜虐心を隠そうともしない笑みを向ける。
「オレは構わないんだぜ? お前の顔に傷ができようが、お前の『役目』に支障はないしな」
男の目は本気だった。なによりも、暴力で他人を脅す行為を躊躇しない空気が男にはある。それが、優花の背すじを冷たくした。
(やばい、本当にこいつやばい)
女の子の顔に刃物を押しつけるなんて、普通じゃない!
優花は震えながら助手席に座り直し、シートベルトを止めた。男はようやくナイフを引っ込めると、ハンドルを握る。
「それでいい」
エンジン音がして、車がゆっくりと動き出す。優花は助手席で硬直しながら、自分が置かれた状況を冷静に把握しようと努めた。
これは新手の誘拐なのだろうか? だとしたら、正直に「うちは貧乏で身代金なんて払えません」と言えば、解放してもらえるだろうか?
(あぁ、でも、そのせいでこいつが逆上したらどうしよう……というか、滝川君は警察に連絡してくれたよね? 流石にしてくれたわよね!?)
してなかったら、本気で恨んでやる……と優花が声に出さずに叫んでいた一方その頃、滝川君は「もしかして、男女の修羅場? 如月さん、マジぱねぇ〜」と汗をぬぐっていた。
勿論、警察に通報なんてしていなかった。
* * *
優花が車に乗せられてから、凡そ二十分が経過した。男は無言でハンドルを握ったまま、何も話そうとしない。
頰を叩かれ、ナイフで脅され、この短時間で理不尽な暴力に晒された優花は、恐怖に体を強張らせ、膝の上で拳を握りしめた。そうして、ちらりと目だけを動かして男の横顔を観察する。
顎の細い顔に、鼻筋の通った精悍な顔立ちは、黙っていればどことなく品があった。だが、口を開けばあの悪態で一気に台無しだ。なによりも、男は明らかに暴力慣れしていた。絶対に堅気じゃない。
(一体、何者なんだろう……)
男を観察しつつ、優花は窓の外の景色にも注意を向けた。
街灯の少ない田舎の夜道は、当然に車も少ない。うまいこと巡回中の警察官とすれ違わないだろうか。そうしたら、走行中だろうがなんだろうが、飛び出して逃げるのに。
次第に車は速度を落とすと、大きな建物の地下駐車場へと入っていく。ホテルの駐車場だ。男は車を停めるとキーを抜き取り、優花に車を降りるように促した。これみよがしにナイフをちらつかせつつ。
「逃げたらどうなるか……分かってるな?」
優花はこくりと頷き、素直に車を降りつつ、逃げ出す隙をうかがった。だが、男はすぐに優花の腕を乱暴に掴み、歩き出してしまう。
「……腕、痛いんですけど」
「余計な口を利くな」
どうやら、腕の力を緩める気はないらしい。男の優花に対する振る舞いは、徹底して容赦がなかった。
そうして二人はエレベーターを昇って廊下を歩く。エレベーターの表示と、壁に貼られたフロア説明を眺めた優花は違和感を覚えた。このホテルの客室は五階までだ。それなのに、男は迷うことなく六階でエレベーターを降りた。
(……六階にも、客室が?)
他のフロアと比べて圧倒的に照明が少ないそのフロアは、どう見ても客室階には見えなかった。だが、男は迷わず廊下を進んでいき「六〇一」というプレートがかかった扉を、カードキーで解錠する。
寂れたビジネスホテルにしては、随分と立派なカードキーだ。
「入れ」
鍵をまじまじと眺めている優花の背中を男は乱暴に突き飛ばした。たたらを踏んで室内に足を踏み入れると、自動で室内に照明が灯る。
そこは、スイートルームとまではいかずともセミスイートに匹敵する、広くて綺麗な客室だった。なにより壁紙、ファブリック、調度品、それら全てに高級感がある。
(なんなの、この部屋……)
戸惑う優花の背後で、ガチャンと鍵のかかる音がした。振り向けば、優花をここまで連れてきた男が一歩、また一歩と優花に近づいてくる。じりじりと後ずさりながら、優花は武器になる物を探した。ベッドサイドのシェードランプ。あれなら振り回しやすそうだ。
優花は男に背を向けて、ベッドサイドへ走る。そして、シェードランプに手を伸ばし──その手を、男に掴まれた。
(……嘘。だって、まだ、結構距離があったのに)
男は足音一つ立てずに優花との距離を詰めたのだ。あまりの不気味さに、優花の全身から血の気が引いていく。
男は震える優花の手首を掴んだまま、ベッドに押し倒した。
「お前にしては随分と口数が少ないな。少しは懲りたか?」
お前にしては。
男が口にしたその一言が、妙にひっかかった。
(そういえばこの人、さっきから私のことを知っているような話し方をしているけれど……なんで?)
優花は男を刺激しないように、恐る恐る話しかけた。
「あの……」
「あん?」
「どこかでお会いしたこと、ありましたっけ?」
途端、男は無表情になった。但し、こめかみに太い青筋を浮かべて。
「いつまで、その猫かぶりを続けるつもりだ? あぁ?」
低く呻く声は、怒りに掠れていた。まごうことなく大激怒である。
優花は「いや、えっと、あの……」と口ごもりながら、自分が、過去にこの男と会ったことがあるかどうかを思い出そうとした。だが、どうしても思い出せず、あうあうと意味もない声を漏らすことしかできない。
男が八重歯を剥き出しにして、凶暴な笑みを浮かべた。
「どうやら、本気で躾が必要らしいなぁ?」
手首をベッドに押さえつける力が、ますます強くなる。いかにも高価そうなベッドは安っぽく軋むような音を立てたりはしない。それでも自分の体が、男の体重の分だけ、沈んだのが分かる。
「ひ、ぃっ……」
恐怖に硬直し、優花は声なき声で叫んだ。
──なんで、いつも私ばっかりこんな目に!!
そこで、不意に閃いた。
そうだ、こういう事態は初めてではなかった。
初めて会うはずの人に、知り合いのように話しかけられることも、やたらと理不尽な目に合わされることも。
これが初めてじゃない……寧ろ、しょっちゅうだった! 二年前までは!
(この人、まさかまさかまさか……!)
「オレから逃げられると思うなよ、美花」
「やっぱりぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
男が呼んだのは、二年前に家出した優花の双子の妹の名前だ。
そう、優花が理不尽な目に遭うのは、これが初めてではない。
突然知らない大人から叱られ、突然知らない子から泥水かけられ、突然知らない女の子から泥棒猫呼ばわりされ……そして、優花を責め立てる者はみな、口を揃えて妹の名を呼ぶのだ。優花と同じ顔をした、双子の妹の名前を!
美花が何かをやらかすたびに、同じ顔をした優花がとばっちりをくらう……それは、妹が実家にいた頃は、割と日常茶飯事であった。
美花が家を出てからは、そういうことが無かったので、優花はすっかり忘れていた。できれば忘れたままでいたかった。
「人違いですっ!!」
優花は腹の底から叫んだ。ビリビリと空気を震わすほどの大声に、男は一瞬怯んだ顔をするが、すぐに鼻の上に皺を寄せて、憎々しげに優花を睨む。
「この期に及んで、まだそんな言い訳を……」
「私は如月優花! 美花は二年前に家出した私の双子の妹です!」
「オレが、そんな言い訳を信じると思うか?」
まずい、と優花は内心ほぞを噛んだ。なにせ、コンビニのバイト中に連れ出されたので、今の優花は身分証明書の類を何一つとして持っていないのだ。
それでも、優花は必死で食い下がった。
「調べてもらえば、絶対に私が美花じゃないって分かります。バイト先のお財布に保険証があるし……家にいる弟や近所の人に聞いてもらえば、すぐに分かるはずです」
男は黙って優花の訴えを聞いていたが、ふと何かに気づいたような顔で優花の手を見た。
優花の手は水仕事でガサガサに荒れている。できればあまり、まじまじと見てほしくない。
「……手が、違う」
流行り物やお洒落に疎い優花と違い、美花は高校生の頃からお洒落が好きで、暇さえあれば爪を磨いていた。綺麗に整えられた爪はいつだって綺麗な色に染められていたし、勿論ハンドケアにも余念がなかった。
「……そういや、あいつ、姉貴がいるって言ってたな」
妹は、この男に自分の何を話したのだろう。まぁ、大方「口うるさい姉がいる」という愚痴だろう。
男は優花の手首から手を離すと、ベッドの上で胡座をかいた。優花も上半身を起こし、固い声で男に訊ねる。
「あの、あなたは、その……美花のお知り合いですか?」
自分が美花ではないと、誤解が解けても油断はできない。
仮に男が美花の知り合いだとしても、美花と間違えた優花に対して、あれだけやりたい放題やってくれたのだ。この男が美花相手に暴力を振るうような人なら、姉として見過ごすわけにはいかない。一体、彼は美花とどういう関係なのだろう?
(見たところ、年齢は私や美花より少し上ぐらいだけど……こ、恋人とか……? そういえば、さっきも「オレから逃げられると思うなよ」とか言ってたし……まさかこれって、ドメスティックバイオレンス!?)
もしかして美花は、この男の暴力的な振る舞いを苦にして逃げ出したのかもしれない。だとしたら、ここは姉としてビシッと言ってやるのだ。
──金輪際、妹には近づかないで下さい、と!!
「オレは如月美花の雇用主だ。あの馬鹿女はオレとの契約をほっぽり出した挙句、退職金だとか抜かしてオレの金を持ち逃げして失踪した」
「妹が迷惑をかけてすみませんでしたぁぁぁぁっ!」
優花はベッドの上で勢いよく土下座した。
反射的に体が動いてしまうのは、美花が何かをやらかすたびに謝罪に行くのが姉の優花の役割だったからである。正直、泣きたい。
(契約を放棄した挙句、雇用主の所からお金を持ち逃げ!? ……生活費持ち逃げした頃から、全く成長していないじゃない!!)
優花はベッドに額を擦り付けて、腹の底から声を出して謝罪した。
「妹がっ、ご迷惑をっ、本当に申し訳ありませんっ!! もう本当、どのようにお詫びすればいいのか、姉として大変申し訳なく思っています!! 私の躾が至らなかったばかりに申し訳ありませんでしたッ!!」
「…………」
男はちょっとひいていた。いや、ひかれてもいい。
こういう時は、ひかれようが罵倒されようが嘲笑されようが、誠意を持って謝ることが大切なのだと、優花は長年妹に振り回された経験で知っていた。
「美花を見つけたら、必ず謝罪と弁償をさせます」
「信用すると思うか? オレはお前が妹を匿っている可能性も考えているが」
「あの子は二年前に家を出てから、一度も連絡をしていません」
男は手袋をした手を顎に添え、ふむとしばし考え込む。その間も、優花は頭を下げたままだ。
やがて男は土下座する優花の顎に指を添えて上向かせると、真っ直ぐに優花の目を見て問いかけた。
「失踪した如月美花に代わり、お前が責任をもってオレの損失を補てんすると誓えるか?」
「は、はいっ!」
損失を補てんするということは、美花が持ち出した金を弁償しろという意味だろう。
美花を見つけたら、きちんと弁償させるとして、今は優花が立て替えるしかない。
「あの……美花が持ち逃げしたお金って、幾らですか?」
「二百万」
優花はガンと頭を殴られたようなショックに体をふらつかせた。
二百万。一生かかるというほどの額ではないが、それでも貧乏な如月家が二百万円を貯めるのに、一体何年かかるのだろうか。少なくとも、はいどうぞと簡単に支払えるような金額ではない。
せめて、分割払いにしてもらえないだろうか……と優花が密かに考えていると、男は更に驚くべきことを言った。
「金はこの際どうでもいい。問題なのは、お前の妹が放り出した仕事だ」
(に、二百万円が、どうでもいい……っ!?)
優花は叫びそうになるのを、ぐっと堪えた。
いやいや、きっとこれはあれだ。簡単に金で解決するのではなく、自分に誠意を示せということなのだ、そうに違いない。
「あいつが『役目』を放り出して逃げ出したせいで、オレは非常に困っている。お前が責任を取ると言うのなら、あいつの投げ出した『役目』をお前に引き継いで貰おうか」
「つまり、美花が投げ出した仕事を私が代わりにやれ、ってことですよね? ……すみません、私にも自分の生活があるので、すぐにお返事は……」
男は口の端をニタァと持ち上げて、背筋が寒くなるような笑みを浮かべた。
そうして、至近距離で優花の顔を覗き込み、囁く。
「嫌なら良いんだぜ? 警察に行っても」
「──っ」
「あいつはオレから金を盗んだんだからなぁ。本来なら訴えられてしかるべきのところを、示談にしてやっても良いって言ってるんだ……この意味、分かるよな?」
引き受けなければ、お前の妹は犯罪者だ。この男の目がそう言っていた。
だが、優花は一つの疑問を覚え、それを口にする。
「……なんで、美花を警察に通報しないで、自分で探そうとしたんですか?」
「あいつに逮捕されちゃ困る事情がある。なにより、二百万に目ぇ瞑ってでも、オレは如月美花の代役を必要としている。お前がこの条件を飲めば、妹は通報されずに済むんだ。悪い条件じゃないだろう?」
つまり、優花が男に従い美花の代役となれば、美花の身柄は保証されるというわけだ。
家出した妹の尻拭いだなんて、馬鹿らしいと思う。
それでも、優花はどうしたって、家族を見捨てることができなかった。たとえそれが家出した妹だとしても。
草太と若葉が「優花姉は美花姉に甘すぎる」と溜息を吐いている光景が脳裏をよぎり、苦笑が浮かびそうになる。それをぐっと噛み殺し、優花は男に頭を下げた。
「……分かりました、その『役目』私が代わりにお受けします」
「それで良い。お前、名前は?」
「如月優花です。『優しい』に『花』で、優花」
優花が名乗ると、男はスマートフォンを取り出し、手袋をしたまま器用に操作する。そうして、どこかに電話をかけ始めた。美花が働いていた職場の人事部か何かだろうか。
「……笛吹か? オレだ。『姫』の変更を申請する……黙れ。大会の二週間前なんだから、ギリギリ修正は効くだろう?」
……姫?
普段、あまり耳にする単語ではない。優花が困惑していると、男は首を上下に動かして優花を頭のてっぺんから足の先まで、マジマジと眺めた。
「服のサイズ? あぁ、それは如月美花と同じでいい……何せ、双子のお姉様だそうだからなぁ」
服のサイズが必要になるということは、制服がある職場ということだろうか?
「……そういうわけで、色々と手配がいるからな、書類持って今すぐこっちに来い。あぁ? 場所? 知ってんだろ? お前ら『委員会』がぼったくってる、あのホテルだよ……てめぇの事情なんて知るか。今すぐっつったら今すぐだ」
乱暴に言い捨てて電話を切ると、男は優花を見て薄く笑う。
「──さて、如月優花。オレと一緒に来てもらおうか。お前はオレの『姫』だからな」