【epilogue・5】彼女の夢の眠る場所
優花は全身から怒りのオーラを撒き散らし、腕と足を組んでソファに腰掛けていた。
その威圧感たるや、服装の相乗効果でチャイニーズマフィアの女幹部のようである。
向かいのソファでは、イーグルがきちんと靴を脱いでソファの上で正座していた。床ではなくソファに正座なのは優花の温情である。
「……で?」
「うん」
「いつから」
優花がギラリと底光りする目で睨めば、イーグルは困ったように眉を下げた。
その顔に眼鏡は乗っていない。ハーフフレームの眼鏡は優花に没収され、今は優花の指先でプラプラと揺れている。
「地下に落とされた後、優花ちゃんにワクチンを打たれて正気に戻った時、いつも以上に目が見えなかったのは本当だよ。ただ、その時、目にはコンタクトレンズが入ったままだった」
「……コンタクトレンズを落とした、っていうのは嘘だったわけね」
「うん、ごめんね。優花ちゃんを心配させたくなくて」
それはきっと嘘ではないのだろう。彼が嘘を吐くのは、いつも優花を気遣っている時なのだ。
……まぁ、だからといってすぐに絆されるほど優花も甘くはないが。
「コンタクトレンズをしているのに、いつも以上に目が見えないから、kf-09nの影響で脳に変異が起こって、視力が低下したと思い込んでいたのだけどね。どうも、逆だったみたいで」
「……逆?」
「視力が良くなっていたんだ」
つまり、ワクチンを投与された時点でイーグルの視力は平均以上になっていた。それなのに、度の強いコンタクトレンズをしていたから、視界が不明瞭だったのだ。
「そのことに気づいたのが、全部終わった後の帰りの船でね。コンタクトレンズを外したら、世界が急にクリアになるからビックリしたよ」
その後もイーグルが視力が落ちたフリをしていた理由は、容易に想像できた。
彼は〈修羅〉の闘技者になるつもりはないのだ。
元々、彼はとても温厚で、暴力が嫌いな青年である。鷹羽コーポレーションを乗っ取り、レヴェリッジ家と対峙するために岩槻源治と協力体制を取っていたが、フリークス・パーティが幕を閉じた今、彼に戦う理由はない。
「……視力の低下を言い訳に、闘技者になるのを拒むため、目が悪くなったフリをしていたわけね」
「うん」
イーグルは素直に頷く。
そういう事情があるのなら、優花とてベラベラと吹聴するつもりはない。
優花は立ち上がると、ソファの上で正座しているイーグルの顔に伊達眼鏡を乗せた。
「よろしい、返してしんぜよう」
「他のみんなには、黙っててくれる?」
「当然でしょ」
即答すれば、イーグルは子どもがするみたいに唇の端をキュッと持ち上げる。
「じゃあ、二人だけの秘密だ」
その台詞はずるい、と優花は思う。
そういう童心をくすぐるワードを出されると、優花はどうしたって大目に見てしまうのだ。
「ところで翔君は、私が深海会長のところの受付になるのは反対なのよね?」
「優花ちゃんはレヴェリッジ家やボクと面識があるから、深海会長は手許に置いておきたいのだろうけれど……僕は君には、フリークス・パーティとは無縁の世界にいてほしいんだよ」
深海老人と優花を引き合わせたのは、他でもないイーグルである。
だからこそ、優花が深海老人に勧誘されている現状に、彼は責任を感じているらしかった。
優花は目を閉じて考える。
フリークス・パーティのことを忘れて、フリークス・パーティに関わる全てのものと縁を切って、そうして日常に戻っていくのも一つの選択肢だろう。
だが、優花の心はもうとっくに答えを出していたのだ。
(……上京するのが嫌だなんて言ってたら、今までと何も変わらないじゃない)
もう、何もしないことの言い訳に、弟達を使ってはいけないのだ。
「深海会長が、私をダシにして翔君を脅すんなら、私が逆に深海会長の弱みを握っちゃえばいいと思わない?」
「優花ちゃん??」
「深海財閥で働いてれば、アリス君と会う機会もあるかもしれないわよね。ドイツ語勉強した方がいいかしら?」
イーグルは困り顔で優花を見ていた。きっと彼は優花を説得しようと、一生懸命言葉を選んでくれているのだろう。
そんな心優しい幼馴染に、優花はにんまりと唇を持ち上げた悪ガキの顔を向ける。
「深海財閥本社のビルって、翔君の会社のビルと割と近いのよね」
「……え?」
「仕事帰りに、一緒にラーメン食べに行ったりできるわよ」
イーグルは伊達眼鏡の奥でポカンと目を丸くしていたが、やがてふにゃりと頬を緩めて「それはいいね」と笑った。
* * *
深海老人の申し出を受けると決めてから、優花の日常は俄かに忙しくなった。
家政婦の仕事で世話になった先に挨拶をしに行ったり、住む家を探したり。
その日も、優花は家政婦の仕事で一番多く派遣された、倉田の家に最後の仕事と挨拶をしに行った。
「おはようございます、倉田さん」
優花が頭を下げると、倉田は優花の顔をじっと見て、ぼそりと呟く。
「なんだ、案外元気そうだな」
「はい、お陰さまで」
家政婦協会の方では、優花は病気で療養中だったことにされている。病状や病名について聞かれたらどうしようかと優花は密かにハラハラしていたのだが、倉田はそれ以上追求はせず、以前と変わらぬ無愛想さで仕事の指示を出した。
「家の中の掃除と、飯の用意。庭は草むしりはしなくていいが、落ち葉掃きをしてくれ」
「はい」
倉田家の庭を見ると、柿の木はすっかり葉が少なくなっていた。それでも秋の名残の落ち葉がちらほらと地面に落ちている。
まずは掃除の用意をしようとリビングに移動すれば、倉田は作業中だったらしい。リビングのテーブルの上には工具箱が置かれ、何やら細々としたパーツが並んでいた。
工具箱のそばには赤い車のフレームが置いてある。どうやら、ラジコンカーを分解していたらしい。
「お孫さんのですか?」
「うちの夫婦に子はおらん。これは『玩具のお医者さん』のだ」
なんでも近くの児童館で、月に一度、壊れた玩具を修理する『玩具のお医者さん』というイベントがあり、倉田はそれにボランティアで参加しているらしい。
「大抵のモンは、その場で直せるんだが、これは割れたパーツを新しく作る必要があってな。持ち帰ったんだ」
そう言って倉田は樹脂を固めたパーツをラジコンカーにセットする。中の配電盤は複雑で、優花には何がなんだかさっぱり分からないが、ハンダ付けをする倉田の作業は流れるように淀みない。
「はぁ……すごいですね」
思わずなんの捻りもない感想を漏らせば、倉田はチラリと優花を見て、また視線を手元に戻す。
早く仕事をしろ! と叱られるかと思い、優花は肩を竦めたが、倉田は黙々と作業をしながら独り言のように呟いた。
「……ワシは時計屋の倅でな。子どもの頃は、親父が作業するのを机にかじりついて見てたもんだ」
気の利いた返事が思いつかず、優花は戸惑いがちに倉田の背中を見る。その背中はしばらく会わない内に、少し小さくなったような気がした。
「あんた、東京行くんだってな」
「……はい」
浮ついた若いモンはすぐに東京に行きたがる……そんな小言を覚悟していたのだが、倉田は手元に視線を落としたまま、ボソボソと言う。
「それがいい。若い内は色んなモンを見ておけ。ワシも……若い頃は新しい技術が見たくてなぁ。海外に留学したりもしたもんだ」
倉田が昔話をするのは少し珍しかった。
普段から口数が少なく偏屈なこの老人は、たまにポツポツと亡き妻のことを語るぐらいしか昔を語らない。心境が変化するような出来事でもあったのだろうか。
ただ、上京する優花の背中を押してくれるような言葉は素直に嬉しかった。
優花は「はい」と歯切れ良く返事をして、エプロンを身につける。
そして、埃の溜まり具合をチェックしようとサイドボードに視線を向け、小さく目を見開いた。
すっきりと整理されたサイドボードには、いつも手編みレースのドイリーが敷かれていて、その上に写真立てが置かれている。
ただ、今はその写真立ての横に、蓋の開いたオルゴールが置かれていた。両手に乗るぐらいの木箱には、丁寧な飾り彫りが施されており、円盤の上に小さなネズミのマスコットが乗っかっている。
気になるのは、オルゴールのそばに小皿が置かれ、そこに一口大に切った柿が盛りつけられていることだ。まるで仏壇にお供えでもするかのように。
「あの、このオルゴールも『玩具のお医者さん』のですか?」
もしこれが修理中の物なら、下手に触らない方が良いだろうと思ったのだが、倉田は優花に背を向けたまま「違う」と答える。
「それは、ワシが昔作ったモンだ。あぁ、柿もいじらんでいい。そのままにしておいてくれ」
「分かりました」
優花が手を引っ込めると、倉田は歯切れ悪く「……いや」とモゴモゴ口の中で呟く。
「……オルゴール、鳴らしてくれ」
「はい」
やっぱり、今日の倉田はいつもと様子が違う気がする。なんだか妙に……
(感傷的、みたいな)
そんなことを思いつつネジを巻くと、円盤がゆっくりと回りだし、オルゴールはポロンポロンと可愛らしい音を奏で始めた。
流れてくるメロディは「さくら、さくら」だ。
「可愛いですね。これは……ハムスター?」
円盤の上をクルクルと回るネズミのマスコットは、つぶらな瞳で優花を見上げている。
「ヤマネ。ワシの故郷の山によくいた、野ネズミの一種だ」
「そ、そうなんですか」
聞き覚えのある単語に、優花の心臓が小さく跳ねる。
円盤の上のネズミは薄茶色の毛並みで、あの少女の髪色とよく似ている気がした。
* * *
家政婦としての仕事を終え、倉田に別れの挨拶を告げると、倉田は袋いっぱいの柿を持たせてくれた。
「オレは、甘いモンは嫌いだ。弟達と食え」
という、お決まりのぶっきらぼうな台詞付きで。
優花は何度も何度も倉田に頭を下げて、彼の家を後にする。
もうこの家に通うことはなくなるのだと思うと、妙に物寂しかった。倉田の感傷的な空気が伝染したのかもしれない。
見上げた空は青く、澄んでいたが、吹く風は冷たかった。今日は温かな鍋が食べたい。冷蔵庫にある残り野菜を全部入れて。肉も魚もたっぷり入れて。
ダシは何が良いだろうか。シメは何にしようか、などと考えていると、優花の鞄の中でスマートフォンがブルブルと振動した。着信だ。
仕事絡みだろうかと、道の端に寄り、優花は画面に目を向ける。着信はグレーテルからだった。
「…………っ!」
考えるよりも早く、優花は震える指で通話アイコンをタップする。反応しない。そうだ、手袋越しだとダメなんだった。
優花はもどかしく思いながら手袋を外し、画面に指を乗せる。
「…………もしもし」
期待と不安の滲む声で告げれば、口元から溢れた吐息が寒さに白く曇る。
コクリと唾を飲む優花に、幼い少女の弾んだ声が告げた。
『おねーさん! クロウが目を覚ましたよ!』