【epilogue・4】王子様が正直者とは限らない
イヤホンから流れてくるメロディは、耳に心地良い疾走感があった。ギターの音に溶けるように響く女性ヴォーカルの歌声は少しハスキーで、それでいて高音は濁ることなく美しく伸びる。
印象的なフレーズを繰り返すサビはしっくりと耳に馴染み、ついついハミングしそうになるが、ここは電車の中だと思い出して、優花は口をキュッと結ぶ。
最近買ったばかりのスマートフォンにダウンロードしたその曲は、草太の友人の姉がヴォーカルを務めるバンドの曲だ。
先月、ライブに参加した草太はすっかりファンになってしまったらしく、ライブハウスで購入したCDを優花に貸してくれた。
草太はまたライブに行きたいから、冬休みはバイトをするのだと張り切っている。なんでも、移動販売店のパン屋さんが日雇いで雇ってくれるのだとか。
バイト先の売れ残りだというパンを優花も食べさせてもらったが、どれも素朴で優しい味わいだった。機会があれば足を運んでみたい。
イヤホンから流れる曲が変わった。今度は柔らかなバラードだ。甘く切なく胸を引っ掻くようなその歌声は、気のせいだろうか、やはりどこかで聞いたことがあるような気がする。
(まぁ、歌声と普段話す声って違うし……気のせいよね)
ふと顔を上げると、電車内の電光掲示板に降車駅が表示される。
優花は辿々しい手つきでスマートフォンを操作し、曲の再生を止めてイヤホンを耳から外した。
そのまま鞄にしまおうとしたところで、スマートフォンが小さく振動する。見ると、通話アプリに画像付きのメッセージが届いていた。
画像はホカホカと湯気を立てる美味しそうな鍋の写真。
添えられたメッセージは「今夜は鹿鍋だよ!」
送り主はグレーテルだ。彼女は今、行くあての無いキメラ達を匿ってくれる、とある施設に身を寄せているらしい。
……クロウも、今はそこで治療中だという。
その施設の場所は機密らしく教えてもらえなかったが、グレーテルは「クロウが目を覚ましたら、お姉さんに教えるね!」と言ってくれた。
優花は今日もその連絡を待っている。
* * *
崩壊した洞窟から脱出した後、優花は深海財閥傘下の病院に運び込まれた。
優花だけでなく、観戦客などの一般人は皆そこに運び込まれたらしい。
優花と美花が深海会長に交渉したおかげだと、見舞いに来たイーグルが教えてくれた。
几帳面なイーグルはほぼ毎日のように見舞いに来てくれたが、それ以外にも何人かが優花の病室に顔を出した。
サンヴェリーナは非常に辿々しい手つきで見舞いの品にあったリンゴの皮を剥きながら、燕の様子を教えてくれた。
燕は損傷が激しく、現在も治療・修理中だという。ただ、あの医務室のビル青年が花島カンパニーに就職し、花島主任と一緒に燕の修理にあたっているのだとか。
現在は「ビームは目から出るべきか、口から出るべきか、或いは他の部位か」を真剣に討論しているらしい。次に会う時に、燕が劇的ビフォア・アフターを遂げていないことを祈るばかりである。
その後にやってきたカーレンとイスカは相変わらずで、病室でも口喧嘩になり、最終的に二人仲良く看護師に叱られていた。
あの二人は、これから先もきっと変わらずにあんな感じなのだろう。
一番意外な見舞い客はピーコックとトラヴィアータだ。
ちなみに二人からは京都土産の生八橋とあぶらとり紙を貰った。なんでも、フリークス・パーティが終わった後、京都を観光していたらしい。ピーコックは京都の某有名店のあぶらとり紙を大層お気に召したらしく、大量に買い込んでいた。日本を満喫しているようでなによりである。
* * *
「レヴェリッジ家はフリークス・パーティの権利を手放したよ。岩槻氏の狙い通り、これからは〈修羅〉が台頭してくるだろうね」
そう優花に語るイーグルは、ハーフフレームの眼鏡をかけていた。
投与されたkf-09nが脳に影響を与え、元々低かった視力が更に悪くなったのだという。イーグルは「日常生活に支障は無いよ」と穏やかに笑っているが、彼が笑顔を向けた先は優花ではなく点滴だったので、日常生活にもだいぶ支障が出ていることが予想される。
「治療には時間がかかるけど、少しずつ快方に向かっているから大丈夫だよ」
そう言ってイーグルは眼鏡の縁にちょこんと指を添えて「似合ってないかな?」と首を傾ける。
幼少期にかけていた牛乳瓶の底のような眼鏡と違い、スクエア型にダークブラウンのフレームの洒落た眼鏡だ。大人びた顔立ちの彼によく似合っている。
優花が素直にそう褒めると、イーグルははにかむように唇を持ち上げた。
「昔、優花ちゃんが取り返してくれた眼鏡が宝物でね。なかなか、次の眼鏡を買う決心がつかなかったんだ」
「それで、ずっとコンタクトレンズだったの?」
イーグルは驚き瞬く優花のベッドに手をついて、優花の顔を至近距離でじぃっと覗きこむ。
「眼鏡とコンタクトレンズ、どっちが好き?」
「どっちでも。翔君は翔君だもの」
あっさりそう答えれば、彼は幼い頃によく似た顔で笑った。
* * *
待ち合わせの時間よりだいぶ早めに駅に着いた優花は、化粧室の洗面所で慣れない化粧が崩れていないか確認した。
普段滅多につけないマスカラのせいか、目がなんだかムズムズして落ち着かない。うっかり擦らないように気をつけつつ、優花は目元を確認した。大丈夫だ、化粧崩れはしていない。今日はデートなのだから、崩れた化粧で行くわけにはいかないのだ。
優花はピーコック推薦のあぶらとり紙をさっと顔に当てて、化粧室を出た。
都会の駅は入り組んでいて苦手だ。改札なんて一つか二つあれば充分だというのに、どうしてこうもあちらこちらに改札があるのか。
優花は慣れないヒール靴をコツコツと鳴らして、掲示板の地図を頼りに待ち合わせ場所へ向かう。時間に余裕があるつもりだったが、駅構内を無駄に歩き回ったせいで、時間ギリギリになってしまった。
ぐるりと辺りを見回しても、なかなか待ち合わせ相手は見つからない。人が多すぎる。
優花はむぅっと眉をひそめて、待ち合わせ相手の上品なスーツを探した。
(……そういえば、今日は新しい眼鏡をかけてくるって言ってたっけ)
立派なスーツと新しい眼鏡。そのキーワードに焦点を合わせてみるが、やはり見つからない。
電話をかけた方が良いだろうか、と悩んでいた優花だったが、視界の端に一際目を惹く格好の人物を見つけて、鞄に突っ込んだ手を引っ込める。
なるほど、あれでは見つからないはずだ……いや、ある意味すごく目立っているけれど。スーツに意識を傾けすぎた。
「優花ねぇ、やっほー!」
「優花ちゃ〜ん、来てくれて嬉しいのぅ、嬉しいのぅ」
陽気な声をあげてこちらにやってくるのは、真っ赤なチャイナドレスを着た美花と、黒いチャイナ服に丸い眼鏡を合わせた老人。
「こんばんは……じゅ、ジュウちゃん」
深海財閥会長。通称ジュウちゃん。
彼こそが、本日の優花のデートの相手であった。
* * *
フリークス・パーティの観客達を避難させるため、深海会長に協力を頼んだ際「デートでもなんでもするから!」と口走ったのは優花であるが、美花はそれを更に誇張して伝えたらしい。
深海財閥傘下の病院から退院してすぐに、深海老人から「約束のデートしよ?」と誘われ、こうして優花は深海老人とデートをする流れになった。
合流するなり深海老人と美花に挟まれた優花は、そのままコスチュームサロンへ連行され、美花と色違いの翡翠色のチャイナドレスに着替えさせられた。
見るからに高級そうで手触りの良いシルクのチャイナドレスには、華やかな鳳凰の刺繍が施されていて、目に鮮やかだ。
「な、なんかコスプレみたい……」
慣れない装いに小声でボヤけば、美花にケラケラと笑われた。
「そんなのフリークス・パーティだって、似たようなものじゃん〜」
言われてみればご尤もである。
ざっくりと深いスリットの入ったチャイナドレスの裾を気にする優花に、深海老人はご機嫌で口髭をしごいていた。
「チャイナドレスの双子美人姉妹とデートなんて、長生きするもんじゃのぅ」
深海老人はカッカッカ、と豪快に笑うと、優花と美花を左右に侍らせて、リムジンに乗り込む。
車の中でなら、誰かに話を聞かれる心配もないだろう。優花は深海老人に深々と頭を下げた。
「深海会長、あの時は私のわがままを聞いてくださって、ありがとうございます。あと、病院の手配も……お世話になりました」
クリングベイル城から逃げ出した観客達はパニック状態のまま港に押しかけ、レヴェリッジ家所有の船に我先にと乗り込もうとした。
もし、深海老人が部下の船を島に向かわせていなかったら、被害はより拡大していたことだろう。
「なぁに、それは別にかまわんよ。結果として、こちらはレヴェリッジ家とそのスポンサー連中に恩を売ることができた……美花ちゃんの言った通りになったのぅ」
褒められた美花は「えへへ〜」とご機嫌である。
「あの後、レヴェリッジ側も大混乱でな……なにせ、当主のシャーロットもあの騒動で死んでしもうたじゃろ?」
レヴェリッジ家のその後のことは、優花も詳しくは知らない。優花が目を覚ました時にはもう、アリスとヤマネはドイツに帰国していたのだ。
優花の見舞いに来たグリフォンは、アリスがエディ・レヴェリッジとしてレヴェリッジ家の当主の座に就いたことを教えてくれた。
日本に残って事務的な処理をしているのは、そんな彼の後見人らしい。白兎と呼ばれていた、あの頼りなさそうな青年だ。
「レヴェリッジの後見人を捕まえて、フリークス・パーティの利権関係の話をしたかったんじゃが、あの小僧っ子、逃げ足が早くてなかなか捕まらなくてな」
〈修羅〉関係者は、日本国内において絶大な権力を有していることを優花は知っている。なにせ、代表の岩槻源治は日本裏社会のドンであるし、深海老人は日本でも有数の大財閥の会長だ。
そんな人々が追っ手を差し向けたにも関わらず、しっかりきっちり逃げ回った白兎青年は案外大物である。
「どうやってあの小僧っ子を捕まえたもんかと考えていたら、美花ちゃんが会食の場を設けてくれてのぅ」
優花は思わずギョッとして美花を見た。
美花はネイルアートを施した爪で、得意げにブイサインをしてみせる。
「一緒にご飯しよ、って誘ったら普通に来たし」
「……あんた、いつのまに連絡先を……」
知り合ったばかりの人間と、自然と連絡先を交換することが美花は得意だ。優花なんて、いまだアドレス帳には最低限の連絡先しか登録されていないというのに。
唖然とする優花に、美花は顎に指を添えながら言う。
「女王様との仲を取り持ったげる〜って、ジュウちゃんに約束したんだけど、女王様死んじゃったじゃん? だから、その代わりに白兎君でいいか〜みたいな?」
「おかげで、円満に話し合いが進んでのぅ。フリークス・パーティは終了。次の春からは新生〈修羅〉が始まることになったわい」
〈修羅〉も非合法の裏闘技会であることに変わりはないが、武器無し、殺し無しの格闘戦である。当然、姫を殺して勝利するペアバトルなんてものはない。
もう、エリサの姉達のような犠牲者が出ることはないのだ。
ちなみに、この新生〈修羅〉に、グリフォンは出場を考えているらしい。
フリークス・パーティで戦うことに対する熱意を失ったと言っていた彼だったが、やはり自分は戦うことが性に合っていると、今回の騒動を通じて強く実感したらしい。
意外なのはウミネコだ。優花はてっきり、戦うのが大好きなウミネコは〈修羅〉に出場するものだとばかり思っていたのだが、ウミネコは誘いを蹴って就職することを決めたのだという。
フリークス・パーティの幕が下りても、人々の歩みは止まらない。
めでたしめでたしで絵本を閉じても、登場人物全員にその後の物語があるのだ。
(……クロウ)
いまだ眠ったままのクロウのことを想い、優花は膝の上で拳を握る。
クロウが命懸けで自分を守ってくれた。優花の未来を繋いでくれた。
だからこそ、優花は自分だけが何も変わらず、立ち止まったままでいたくない。
……騎士のクロウが誇れる姫でありたかった。
* * *
豪華客船で夜景を見ながらクルージングデート、というのが深海老人の用意したデートプランだ。
フリークス・パーティの会場を思い出させる豪華な船内の一室に足を踏み入れれば、そこは中華風の調度品で統一された洒落た内装になっている。
窓枠は細やかな飾り彫りで縁取られ、照明器具には蓮花模様の装飾が施されて、隅から隅まで美しい。
飴色の大きな卓の前に腰を下ろせば、スタッフ達が次から次へと料理を乗せた皿を運んできた。
「こ、これは……満漢全席っ……!」
北京ダック、フカヒレの姿煮、エビチリ、翡翠餃子などなど。
ズラリと並ぶご馳走に、優花はレンゲを握り締めて唾を飲む。
「ほっほっほ、お腹いっぱいになるまでお食べ」
「「いただきますっ!」」
目を輝かせたのは優花だけではない、美花もだ。アレルギーが多く、食べられる物が限られてしまうが、それでも美花の食欲は基本的に優花と大差ない。
「春巻き、餃子、小籠包……っ、おいふぃぃぃ……中からスープがじゅわっと……じゅわっと……」
「優花ねぇ、これアワビだよ! やばっ、うまっ……え〜〜、やばすぎ〜、ほっぺた落ちちゃう……」
「美花、これ、これって伝説のフカヒレ様……まさか生きてる内に食べられる日が来るなんて……うううう、生きてて良かった……美味しい……」
「北京ダック、一回食べてみたかったんだよね〜。んん〜、花巻もフワフワ〜!」
豪快な食べっぷりの姉妹に、深海老人はご満悦の表情で紹興酒のグラスを傾ける。
「いやぁ、良い食べっぷりだのぅ。これだけ喜んでもらえると、ワシも嬉しいわい」
中国では満腹時は食べ残すのがマナーであると言われている。皿の上を完全に空にするのは、料理が足りないというサインになってしまうためだ。
だが、今回は深海老人が「気にせず好きなだけお食べ」と言ってくれたので、如月姉妹は心ゆくまで高級中華を満喫し、皿を空にした。
食事が一段落すると、スタッフが中国茶とマンゴープリンを運んでくる。どんなにお腹がいっぱいでも、当然デザートは別腹だ。
濃厚なマンゴープリンに舌鼓を打ち、良い香りのする中国茶を一口飲んで、優花がほぅっと息を吐くと、深海老人が「そういえば」とさりげない口調で切り出した。
「来月から、美花ちゃんがうちの本社の受付嬢をすることになったんじゃが、優花ちゃんも一緒にやらんかのう?」
「………………はい?」
優花は小さな茶器を持ったまま硬直し、ギギギとぎこちない動きで美花を見る。
「……初耳なんだけど?」
「だって、さっき決まったばかりだもーん。あのね、お給料も良いし、制服も可愛いんだよ。優花ねぇも一緒にやろ?」
美花はニコニコしているが、優花は即答することはできなかった。
深海財閥が経営する会社の本社ビルともなれば、当然に立派なものだろう。聞けば、都心の一等地に建つ立派なビルらしい。
つまり、実家を出て上京しなくてはいけないのだ。
「えっと、その……深海会長にはお世話になりっぱなしですし、そこまでお世話になるわけには……」
一番の理由は上京に抵抗があるからなのだが、優花は本音を建前で誤魔化して、申し訳なさそうに首を横に振る。すると、深海老人が口元の皺を深くするように笑った。
「わしもただの親切で言っているわけじゃないぞぃ、それがワシにとってのプラスになるから言っているんじゃ」
好好爺の笑顔の下には、老獪な経営者の顔がチラついていた。
優花は深海老人が自分を雇用することのメリットを考える……が、高卒でまともな資格も持っていない、語学に堪能なわけでもなければ、とびきり美人というわけでもない自分を雇うメリットがどうしても思いつかない。
「嬢ちゃんは、あのフリークス・パーティを生き抜いたじゃろう。しかも、レヴェリッジ家の現当主を始め、フリークス・パーティ関係者と交流がある」
優花には今一つピンとこないが、フリークス・パーティの事情を知っていて、かつ関係者と面識があるというのは、深海老人にとって「強み」と映るらしい。
「今回、レヴェリッジから利権関係を剥ぎ取ったが、クラーク・レヴェリッジの熱烈な支持者や、フリークス・パーティを支持するスポンサーは、それなりに残っておるのでな……そいつらを黙らせるために、今後もレヴェリッジ家との交流は欠かせんのじゃよ」
深海老人の言葉に、美花がデザートのライチの皮を剥きながらウンウンと頷く。
「つまりー、レヴェリッジ家の当主様と仲良しの美花と優花ねぇがいると、色々交渉しやすいってことでしょ?」
「美花ちゃんは賢いのぅ」
「や〜ん、褒められた〜」
美花は綺麗に皮を剥いたライチを、深海老人の口に運んだ。
はいあーん、と美花が甘ったるい声で囁けば、深海老人はライチを頬張り、デレデレと鼻の下を伸ばす。
「嬢ちゃん達を、レヴェリッジ家に対する人質にしようという意図は無いんじゃよ。ただ、交渉をするにあたって、緩衝材になってほしくてのぅ……レヴェリッジ家はなかなか交渉の場に出て来てくれんが、知り合いがいれば、向こうの空気も変わるかもしれんじゃろ?」
「……私、美花みたいに気の利いた接待はできませんよ」
優花が慎重に言葉を返せば、深海老人は白い眉毛の下で、目尻に皺を刻んでニンマリ笑う。
「嬢ちゃん達を受付嬢にするメリットはそれだけじゃないぞい。フリークス・パーティで起こったことを全て知っていて、かつ、危険人物……逃走したグロリアス・スター・カンパニーの月島、ジャバウォック、エリサ、笛吹……あの連中の顔を知っている人間は貴重じゃ。あいつらの顔を知っている人間が受付にいれば、何かあった時にすぐ対応できる」
フリークス・パーティは終了し、じきに新生〈修羅〉が幕を上げる。それにあたり〈クラークの後継者〉の残党が何かを仕掛けてくることを深海老人は警戒しているのだ。
「……そしてなにより」
「はい」
深海老人が居住まいを正して真剣な顔をしたので、優花もつられて背すじを伸ばす。
深海老人は重々しい口調で言った。
「きゃわいい双子姉妹が受付にいると、ワシのテンションが上がる。これが最重要事項じゃ」
「………………」
優花がチャイナドレスの肩をカクリと傾けると、茶器におかわりの茶を注いでいたスタッフが、よく通る声で言った。
「それはずるいな、深海会長」
聞き覚えのある声に、優花はギョッと目を剥いて振り向く。
スタッフの制服を着て、ニッコリ微笑んでいるのはイーグルだ。制服姿で、髪もオールバックにしているので気づかなかったが、よくよく見れば、ハーフフレームの眼鏡は以前会った時に彼がかけていた物と全く同じである。
「なんじゃ、聞いとったんか。鷹羽の」
「本日は、我が鷹羽コーポレーションの船をご利用いただき、誠にありがとうございます」
イーグルがニコリと微笑んで優雅に一礼をしてみせれば、深海老人はまるで子どものように頬を膨らませる。
「ジジイの楽しい楽しいデートタイムを邪魔しおって」
「それに関しては、一言、二言申し上げたいことがあるんですけどね。とりあえず、優花ちゃんをお借りします」
イーグルは有無を言わさず、優花の手を取って立たせる。
優花が困ったようにイーグルと深海老人を交互に見れば、深海老人はやれやれと息を吐いた。
「家に帰るまでがデートじゃからな。話が済んだら、返しとくれ」
「えぇ、勿論。彼女を家に送るところまで、ご一緒しますよ」
「お前は本当に可愛くないのぅ!」
大袈裟に嘆く深海老人にぺこりと頭を下げて、イーグルは優花の手を取り歩き出した。
* * *
イーグルが優花をエスコートしたのは、食事をしたのとは別の客室だった。
食事をした部屋に比べるとこじんまりとしているが、内装が美しいことにかわりはないし、何より窓が大きいので景色がよく見える。
「本当は甲板に出た方が夜景が綺麗なんだけどね、十二月の夜は流石に冷えるから」
そう言ってイーグルは、オールバックに固めていた前髪を少しだけ指の先で崩す。いつも大人びている彼だけど、前髪が額にかかると年相応の若者らしく見えた。
イーグルは優花をソファに促すと、自身はその向かいに座る。
「優花ちゃん、今日はとびきり綺麗だね。その翡翠色のドレス、すごく似合ってる」
「あぁ、うん、ありがとう。でも、あの、なんで翔君が、そのぅ……ここに……?」
チャイナドレスを褒められたことはさらりと流して、優花が訊ねれば、彼は軽く肩を竦めてみせた。
「このクルージングはうちの会社が企画したものだからね。深海老人が予約した時点で、きっとこうなるだろうなって思っていたんだ……あの人は君達姉妹を気に入っているから」
「うーん、その気に入ってるっていうのは、いまいちピンとこないけど……」
座り心地の良いフカフカのソファに座ると、腰が沈んでその分チャイナドレスのスリットがパックリ割れる。スリットの上にハンドバッグを置いてモジモジしていると、イーグルはサッと立ち上がり、近くのクローゼットからブランケットを取り出して、優花の膝にサッとかけた。
「気が利かなくてごめんね。部屋は寒くないかい?」
「あ、えっと、大丈夫よ。ありがとう」
イーグルは「どういたしまして」と小さく笑って、優花の向かいに再び座った。
実に紳士的な振る舞いである。
「深海会長からの提案だけど、無理に受ける必要はないと思う。あの人は、僕に対する牽制になるのが分かってて、優花ちゃんを味方につけようとしているんだ」
「翔君に対する牽制? なんで?」
新生〈修羅〉の関係者と、イーグルは協力関係にあった筈だ。それなのに、何を牽制する必要があるのか?
優花が首を傾げると、イーグルは眼鏡の蔓に指を添え、少しだけ苦い顔をした。
「僕が〈修羅〉の闘技者になることを辞退したからね。あの人達は、僕を闘技者にするのをまだ諦めていないんだ」
新生〈修羅〉にとって、イーグルは旗印のような存在だ。当然、闘技者としての参戦もほぼ決まっていたという。
だが、イーグルは視力の低下を理由にそれを辞退した。
だから、深海老人はイーグルと親しい優花を手元に置き、イーグルとの交渉材料にしようとしているのだとイーグルは言う。
「……翔君、あのね、私……ずっと聞きたかったの」
優花は膝の上で指をモジモジと捏ねくり回していたが、やがて覚悟を決めた顔ですっくと立ち上がる。
そうしてイーグルの前に立つと、彼の顔から眼鏡を抜き取り、自身の顔の前にかざした。
……レンズ越しに見える世界は変わらない。つまり、度が入っていない。
「やっぱり目が悪くなったって嘘だったのね!?」
「……あれ、バレてた?」
優花はニコリと微笑み、イーグルの額に渾身の頭突きをぶちかました。
Q「イーグルさんは、自分が優花ちゃんを雇えば良いのでは?」
イーグル「僕は優花ちゃんの雇用主になりたいんじゃなくて、王子様になりたいんだよ」