【17ー13】アッシェンプッテル
〈女王〉はジャバウォックに連れてこられた時から、ソファに拘束されるまでの間、一度も口を開かなかった。ツヴァイが機械を操作している間も、ツヴァイが刺されて、エリサが己の復讐の理由を語る間も、〈女王〉は人形のようにソファに腰掛け、まっすぐに前を見つめていた。
その〈女王〉が、長い金色の睫毛をゆっくりと上下させて、憂いを帯びた息を吐く。
「……それは、どういうトリックかしら、クラークお兄様?」
〈女王〉が日本語でそう呟けば、ツヴァイは……否、ツヴァイの姿をしたソレは、彼女に合わせて日本語で応えた。
黒いワンピースの胸元に白い手を添え、我が子を誇るような淡い笑みを口元に浮かべて。
「この子がね、頑張ってくれたんだよ。メモリーディスクの中にある私の魂を、この機械経由で自身の中にインストールしたんだ」
よく見ると、ツヴァイの右手首からはコードが伸びて、機械と繋がっていた。
ジャバウォックに刺されたツヴァイは形勢逆転を悟り、咄嗟にメモリーディスクの中にあるクラークの魂を自分の中に移したのだ。
「この子の体は、人間としての脳とは別に記憶媒体を搭載しているからね。今の私の魂はそこにインストールされている。人間の脳はツヴァイが、機械の脳は私が使っている、という感じかな? ふふっ、二重人格みたいだね」
クラークはツヴァイの体を使ってクスクスと笑う。
すると、その顔からフッと表情が抜け落ち、また元の人形じみた表情に戻った。
「『……お父様、ごめんなさい。お父様のために用意した体を、使うつもりだったのに……』いいや、お前はよく頑張ったよ、ツヴァイ『……はい、お父様』」
それはまるで一人芝居を見ているかのようだった。
幼い少女の顔は、人形じみた無垢な少女の顔と、余裕に満ちた大人の笑みとが交互に入れ替わる。
語る声は少女のものなのに、そのトーンが違うだけで、まるで別人だ。
ツヴァイは……否、クラークは右手首と機械を繋ぐコードはそのままに、左手首から露出した銃だけを収納すると、敵意のない笑顔をエリサに向けた。
「やぁ、お嬢さん。君の事情は聞かせてもらったよ。君の大事なお姉さん達がフリークス・パーティで死んだのだったね。あぁ、可哀想に。もし、私の可愛いシャーロットが同じ目に遭ったらと思うと……想像するだけで胸が張り裂けそうだよ」
「……よくも、ぬけぬけと」
エリサは噛み殺した声で呻き、ポケットから拳銃を取り出して構える。
「私の姉達も…………っ、友達、も、奪って、おいてっ!」
少しだけ声のトーンが落ちた「友達」の一言は、ひどく頼りなさげに揺れていた。
もう、エリサには優花の友達を名乗る資格なんて無い。差し伸べられた手を振り払ったのはエリサ自身だ。
それでも、クラークが優花を傷つけたことは、間違いなくエリサの逆鱗に触れた。
エリサは躊躇無くクラークの頭に焦点を合わせる。だが、それと同時に海亀が天井を見上げて叫んだ。
「いけないっ」
海亀がエリサの上に覆いかぶさる。そこに間髪入れず銃弾の雨が降り注いだ。
「お嬢っ、海亀っ!」
ジャバウォックが飛び上がり、天井に仕掛けられた銃を剣で切り捨てる。
だが、天井の銃がゴトリと音を立てて床に落ちるより先に、穴だらけになった海亀の体が、力を失ってずるりと床に倒れた。
白い仮面がカラリと音を立ててはずれ、その下にある古傷だらけの醜い顔が露わになる。
目蓋が腫れ、額から顎にかけて何本もの切り傷が走り、鼻は骨が露出しかけている、誰もが目を背けたくなるような酷い顔だ。
だが、変形した唇には、どこか満足げな笑みが浮かんでいた。
「……あぁ、これ、で…………そっちに、いっても……ゆる、して…………ウェン、ディ」
海亀は最後に彼の姫の名を舌にのせ、そして沈黙する。
それが、己の姫を守れず、罪悪感に苛まれ続けた男の哀れな末路だった。
海亀は腹に鉄板を仕込んだ服を着ていたらしく、銃弾が貫通してエリサを傷つけることはなかった。だが、海亀の返り血に塗れたエリサは、呆けた様子で海亀の死体を見つめている。
「お嬢、立て!」
「おっと、動かないでくれるかな? この部屋には他にも銃が仕込んであるのだけれど……無駄撃ちして、跳弾でシャーロットを傷つけたくないんだ」
クラークは可憐な少女の声で、無謀な若者を諫めるようなことを言う。クラークにしてみれば、中年のジャバウォックとて、若造にすぎないのだ。
ジャバウォックは眠たげなまぶたの下で、部屋の中に仕込まれた銃の位置を油断なく確かめた。
機械か〈女王〉を盾にすれば、一度か二度は凌げるが、エリサを抱えて出口まで逃げきるのは難しいだろう。
だが、クラークが隙を見せれば、ジャバウォックが一度だけ盾になることで、エリサを出口まで逃がせるかもしれない。
「逃げようと思っているのかい? その子も君も、ここで死んだ方が幸せなのに?」
クラークがことりと首を傾ける。硬質な青い目に宿る感情は、どこか無邪気だ。中身は八十歳越えの老人だというのに。
「ここで死んだ方がいい? そりゃまた、どういう了見で?」
「仮面の彼も、彼女も、君も……死に場所を探している目をしている」
クラークは海亀の遺体、呆けているエリサ、ジャバウォックを順番に見て、そう言った。
あぁ、そうだ。確かにクラークの言うことは正しい。
海亀もジャバウォックもフリークス・パーティで死に損ない、それでも自ら命を絶つこともできず生きてきた。
エリサも復讐を終えたら、いつ死んでも構わないと考えていただろう。
だが、それでも……
「生憎だが、あんたにだけは、死に場所を決めてもらいたくないねぃ」
「そうなのかい? これでも私は、君達に同情しているんだ。あぁ、大事な人を失って、さぞ辛く苦しかっただろう。だからこそ、ここで楽にしてあげようね。もう、君達は苦しまなくていい」
告げる声は慈悲深く、それでいてその中身は残酷だ。
クラークが左手を持ち上げた。銃が照準を合わせ始める。
「クラーーーーーク!!」
部屋をビリビリと震わせるような声で怒鳴ったのは、アリスだった。
* * *
アリスは目も眩むような怒りに全身を支配されていた。
かつてエディを奪われた怒り、己がクラークのスペアとして造られたことに対する怒り、目の前で人を殺されたことに対する怒り……様々な怒りが幼い正義感と混ざり合い、アリスの胸を塗りつぶす。
「お前のっ、お前の勝手で、沢山、死んだ! ボクは、お前を許さないっ! 絶対絶対絶対に……っ!」
クラークはピタリと人形のように動きを止めると、ゆっくりとゆっくりとアリスの方を振り向いた。
その少女の顔に張り付いた笑みは、大人の余裕の下に明確な怒りを内包している。
「お前が、私を許さない? ……違うな、逆だ。私がお前を許さないのだよ、愚かなアリス。創造主に歯向かった罪は、死をもってしても償いきれるものではない」
少女の手がアリスの口を塞ぐ。ギチギチと顎の骨を砕かんばかりの強さで。
そうしてクラークは間近でアリスの顔を覗き込み、告げる。
「お前の体など、もう使う気もおきないよ、出来損ない。スペアの体はまた造ればいい……お前はエディに食い殺させよう」
クラークはそう言ってアリスから手を離すと、汚い物にでも触ったかのように、不快げに手をハンカチで拭いた。
「あぁ、そうだ。いつまでもツヴァイの体を占領しているわけにはいかないからね。早く新しい体を作らなくては……そしたら、あぁ、私の可愛いシャーロットと何をしよう?」
アリスの言葉に気分を害したクラークは、シャーロットの名を口にすると、途端に機嫌を持ち直した。
クラークは右手首と機械を繋ぐコードが外れぬよう気をつけつつ、弾む足取りで〈女王〉の椅子の前に立ち、彼女の顔を覗き込む。
「シャーロット、私と一緒にダンスはいかがかな? あぁ、旅行をするのも悪くない。そうだ、フリークス・パーティは気に入ってくれたかな? 〈修羅〉だなんて名前、お前に捧げる物語にしては美しくないだろう。少しでもお前が気に入るように、お前の好きな鳥と童話の要素を加えてみたんだ。物語の世界でも滅多に見られない、哀れな騎士と姫の悲劇の物語を存分に満喫できる、最高の催しだろう?」
少女人形の指先が〈女王〉の頬を愛しげに撫でる。それでも〈女王〉は無表情の仮面を貼り付けていた。
その形の良い唇が微かに動き、何かを告げようとした時、クラークの……ツヴァイの体がビクリと大きく跳ねる。
作り物の青い目が限界まで開かれ、その視線が右手首から伸びるコードを辿った。
本来なら機械に繋がれている側のプラグが、引き抜かれている。プラグをしっかりと握りしめるのは、擦り傷だらけの汚れた手。
「……イン、ストール、って……時間、かかるん、でしょ?」
床に這いつくばりながら、それでもプラグを握りしめて不敵に笑うのは、サンドリヨンだった。
* * *
「おねーさんっ! サンドリヨンおねーさんっ!」
椅子に拘束されたアリスが手足をばたつかせて叫ぶ。
今にも泣き出しそうな顔の彼に「大丈夫よ」と笑いかけてやりたいが、今の優花にはそこまでの余裕は残されていなかった。
銃で腹を撃たれた優花は、途切れそうになる意識を、こみ上げてくる怒りだけでなんとか繋ぎ止め、床を這ってここまで移動したのだ。そのせいで床のいたる所に血痕の擦れた跡が残ってしまったが、会話に夢中のクラークは気付いていなかったらしい。
優花は機械に詳しいわけではないが、一応家に古いノートパソコンがあるから分かる。データのインストールというのは、とかく時間がかかるのだ。まして、そのデータが大きくなればなるほどに。
稀代の天才と呼ばれた男の脳の中身を、数分かそこらで完璧に移し替えることなど、できるはずがない。
(最低限動いて喋ることは、できるみたいだけど……)
それでも、まだ完全なインストールが終わっていないからこそ、クラークはわざわざコードを繋いだままにしていたのだろう。
機械との接続が断たれた途端、少女人形の体は動きがぎこちなくなった。
今までは人間と変わりない滑らかさで動いていた体が、途端に油の切れたブリキの人形じみたものに変わる。
「が……がが、ぁが……『言語機能にエラー発生、お父様、ツヴァイの言語機能中枢に一時的アクセスを』……あぁ、あぁ、すまないね、ツヴァイ。ありがとう」
硬質な青い目は明滅を繰り返すランプのように、チカチカと輝きを変えた。ツヴァイの機体の中でなんらかのエラーが起こっているのだ。
やがてクラークは、ゆっくりとゆっくりと、その目を優花に向ける。浮かんだ顔に笑みはない。それはツヴァイの無表情ではなく、クラークの怒りに満ちた無表情だ。
「……やってくれたね? フロイライン? あぁ、キミはサンドリヨンと呼ばれていたね……死に損ないの灰かぶり。おかげでデータの一部が破損してしまったじゃないか。キミ如きでは想像もできないだろうがね、これは世界中の研究者が喉から手が出るほど欲しがっている貴重な研究データで……」
「あたしが死に損ないなら、あんたはなんなの!? くたばり損ないのクソジジイ!!」
優花は腹の痛みも忘れて怒鳴り、力の限りに手の中のコードを引っ張った。
もう立つことはできないから、床に這いつくばったまま。絶対に離すものかとコードを手に巻きつけて。
そうして、血を吐きながら優花は叫ぶ。
「人の命を粗末にする奴が……モノの価値を語るんじゃないっ!!」
コードを引っ張られ、バランスを崩したツヴァイの体が横転する。
優花は咄嗟にエリサの方に目を走らせた。どうか、今の内に逃げてほしい。
だが、ジャバウォックに助け起こされたエリサは、真っ青な顔で優花に手を伸ばして叫んだ。
「サンドリヨンさんっ、逃げて…………っ!」
横転したツヴァイの左腕がスライドして開き、黒光りする銃口が現れる。
あぁ、そうか。天井の銃を使うと機械に当たってしまうから……と、どこか冷静に考えている優花の額に、ツヴァイが照準を合わせた。二人の距離は二メートルもないから、まず外すことはないだろう。
「さようなら。王子様のいない、哀れなアッシェンプッテル」
そうしてツヴァイの銃が、優花の眉間に穴を開けようとしたその時、ドゴンと派手な音を立てて、何かが扉を破壊した。破壊したのは灰色の毛むくじゃらな手だ。
飛び込んできたのは、全身を灰色の毛に覆われた異形。アリスが目を見開いて叫ぶ。
「エディ!」
その一言にツヴァイの中のクラークが反応した。優花の眉間を撃とうとした手が一瞬止まる。
そして……
「そら行け、クロちゃん! 飛んでけー!」
ウミネコが力任せに、クロウの服を掴んでツヴァイ目掛けてぶん投げた。
クロウはまるで獲物に襲いかかるカラスのように、真っ直ぐにツヴァイに向かって飛ぶ。破れた服の合間から、血に汚れた羽をパラパラと落としながら。
そうして、獲物を嘴で貫くように、クロウはツヴァイの後頭部を槍で穿った。
優花は床を這いつくばったまま、その光景を目に焼き付ける。
血に汚れてもなお鮮やかな金色の髪を、舞い散る漆黒の羽を、自分を守るように立つ広い背中を。
クロウは槍を引き抜くと、少女人形の残骸に告げた。
「知ってるか。フリークス・パーティのサンドリヨンには……王子はいないが、騎士がついているんだぜ」