【17-11】お兄ちゃん
クロウはヒューヒューと頼りない呼吸を繰り返しながら、首の周りを掻き毟った。首から肩にかけて、羽の生えた部分がむず痒くて仕方がない。あぁ、この煩わしい羽を全部毟ってしまえたら、どんなに楽だろう!
「クロちゃん、避けろっ!」
ウミネコの声にハッと顔を上げれば、目の前に灰色の毛並みに覆われた手が迫っていた。
咄嗟に腕を持ち上げてガードをするが、いつもより手足に力が入らない。
「……く、ぁっ!?」
腕にかかる圧力に感じた恐怖は、ウミネコと対峙した時のそれに似ていた。
まともに食らったら、粉々になる。
クロウは己の直感に従い、自ら後ろへ飛んで勢いを殺した。体勢を崩したせいで受け身が取れないまま、壁に叩きつけられる。そこに更にエディが追撃。振り下ろされた拳を、クロウは床を転がってかわす。床はエディの拳の形に窪んでいた。
エディがクロウを狙っている隙に抜け目のないウミネコが、エディの背後に回った。
まずグリフォンが先に横から攻撃を仕掛けて、エディの気をひく。その隙に、背後に回ったウミネコがエディの首輪に手を伸ばした。
三人とも満身創痍の身だ。無理に正面からぶつからずとも、エディの首輪の鍵さえ手に入れれば脱出できる。
だが、エディはまるで背中に目が生えているのではないかというぐらい正確に、背後のウミネコの首根っこを掴む。まるで、虫でもつまむかのように。
「ぎょえっ!?」
奇声をあげて手足をばたつかせるウミネコを、エディはグリフォン目掛けて思い切り叩きつけた。
ウミネコの頭を腹で受け止めたグリフォンは「おぇっ!」と呻いて、激しく咳き込む。
「グッさん、ごめーん……やばいわ、こいつ。多分、オレより力が強い」
「んなっ!?」
絶句するグリフォンに、更にエディが追撃を仕掛ける。巨体とは思えないぐらいに、その動きは早い。
フリークス・パーティでもトップクラスのパワーとスピード、その両方をこの異形は兼ね備えていた。
グリフォンはウミネコに匹敵する凶悪な攻撃を、ふらつきながらも必死にかわす。
その隙に、ウミネコはクロウの元へ駆け寄った。
「クロちゃん、戦える?」
「…………」
クロウは返事の代わりに、荒い息を吐きながら立ち上がる。
痒みはどんどん広がっていき、次第に腕や手の甲まで痒くなってきた。無意識に引っ掻くと、鱗や羽がボロボロと剥がれて床に落ちる。体の崩壊が始まっているのだ。
(死にたくない)
漠然とした恐怖とは違い、体の異変は明確に迫り来る死を教えてくれる。
もう、死はクロウの足元まで迫ってきていた。
(死にたくない)
槍を握り直すと、まるで骨から無理やり肉を引き剥がそうとしているかのような激痛にみまわれる。
背筋を伸ばすだけで体が軋み、関節という関節が痛む。一歩歩くだけで全身がバラバラになりそうだ。
(オレは、まだ、死にたくない)
だが、賢い彼は理解していた。
月島はこの地下研究所にはいない。恐らく、この島にすらいないのだろう。
スピーカーから聞こえた月島の声の背後に、微かに車の走る音などの生活音が聞こえた。
月島は安全な場所から高みの見物を決め込んでいる。死に向かって転げ落ちていくクロウの無様な姿を、ニヤニヤと見下して。
延命のための薬は、もうない。唯一の希望は月島を見つけ出し、脅すことだったが、その月島もこの島にはいない。
どうしたって、クロウは助からないのだ。
絶望に打ちひしがれるクロウの顔を、ウミネコがじぃっと丸い目で見つめる。
「なぁ、クロちゃんは、どうしたい?」
クロウは前にも、ウミネコに同じことを問われたことがある。
あぁ、そうだ。その問いの答えは今も変わらない。
「…………オレ、は……」
目を閉じれば、そこに浮かぶのは、初めてクロウに手を伸ばしてくれた姫。
「……サンドリヨンに、会いたい」
その答えにウミネコは満足そうに笑い、クロウの手から槍を取り上げる。
「んじゃ、今はそのことだけ、考えてなよ」
ウミネコは小器用に槍を手の中でクルリと回した。
「どーしよーもない状況を、どーにかしよーと頑張ってるガキがいるんなら、手ぇ貸してやんのが兄貴分の務めじゃん?」
ウミネコはパチンとウィンクをすると、エディに向かって駆け出した。
グリフォンは既に数発の攻撃をくらっているらしく、足がふらついている。
ウミネコは棒高跳びの要領で槍を使って高く跳び上がり、エディの横っ面に蹴りを叩き込んだ。
「おらぁっ!」
裂帛の蹴りは普通のフリークスだったら首の骨ぐらい折れそうなものだったが、エディは傾いた首をゆっくりと元の位置に戻し、金色の目でウミネコを睨む。
エディの鋭い爪がウミネコを狙い始めたが、ウミネコは構うことなくエディの肩を力強く踏み、更なる高さへ跳躍した。
天井すれすれの高さまで跳んだウミネコは、槍を横薙ぎに振るって、天井のカメラを全て破壊する。
パラパラと砕け散ったカメラの破片とともに床に着地したウミネコは、ぐるりと室内を見回し、他にカメラが無いことを確認すると、エディを見た。
エディもまた動きを止めて、じっとウミネコを見下ろしている。
突然攻撃を止めたエディに、クロウもグリフォンも困惑を隠せない。
「……どういうことだ?」
グリフォンが傷口を押さえながら呻くと、ウミネコはカメラの残骸をブーツの爪先で蹴りながら笑った。
「お前は、正気なんだろ? エディ・レヴェリッジ」
エディの目はどろりと淀んでいて、とても正気が残っているようには見えない。
だが、確かにおかしな点はあったのだ。
イーグルやハヤブサに勝るとも劣らないほどの力を持ちつつ、エディは明らかに手加減をしていた。
エディが本気なら、最初の攻撃で全員殺されている。
「まぁ、完全に正気とは言い難い感じか? でも、どんなに正気を失ったって、弟のことは忘れないよな……だって、お前はアリスのお兄ちゃんだもん」
「……あ、あぁ、あ、ありす、ありす、ありす、を……あああああ」
kf-09nを投与された者は等しく理性を失い、戦うだけの兵器になる。あのイーグルですらそうだった。
……だが、ごく稀に例外がいる。
例えばクロウと戦ったモズ。彼は正気とは言い難い有様だったが、それでもクロウのことを認識していた。
そして今、目の前にいるエディもまた……
エディの爪が己の首輪を千切る。そうして彼は鋭い爪の先に首輪をプラプラとぶら下げて、ウミネコへ差し出した。
頑丈そうな赤い革の首輪には、ドッグタグ代わりに小さな鍵がついている。
「……ああああありす、ありす、ありすのネコは…………ありす、ありすを、たすけたい……」
「いいよ、行こうぜ。おにーちゃんは弟を助けるもんだからな」
ウミネコが鍵を受け取ると、エディはユラユラとした足取りで、扉へ向かい歩き出した。
クロウはグリフォンの肩を借りて立ち上がり、苦しげにかすれる声で呟く。
「……よく、気づいたな。あいつに、理性が残ってるって……」
ウミネコはくるりと丸い目を回してクロウを見る。
童顔に浮かぶ笑みは、妙に透明な笑顔だった。
「そりゃ分かるさ。オレも、おにーちゃんだもん」
* * *
『いつまで寝てるんだよ、馬鹿アリス!』
懐かしい声に叱られたような気がして、アリスはゆっくりとまぶたを持ち上げる。
ふかふかの二段ベッドで目を覚ませば、いつだってエディが上の段から頭を逆さまにして、アリスを呆れたような目で見ているのだ。
「……おはよう、エディ」
むにゃむにゃと呟けば、開いた目に強い光が刺さった。
子供部屋の柔らかな光とは違う強い光は、手術台を照らすライトのそれだ。
「…………え?」
そこに至って、ようやくアリスは、自分が一人がけのソファに座った状態で、肘掛けに手首を拘束されていることに気がついた。
アリスの体は普通の人間よりも身体能力が高く作られているが、それでも金属製の拘束具を外すほどの力は無い。
「これ、は……っ」
「おや、お目覚めですかい」
それは気怠げな中年男の声だった。
レヴェリッジ家のリビングルームよりもなお広いその部屋は、半分近くがゴチャゴチャとした大きな機械で埋め尽くされている。その中には、とても一個人では手に入らないような、天文学的な金額の機械も並んでいた。
機械の前で何かを操作しているのは、黒いワンピースを身につけた短い銀髪の少女。
そして、壁際で手持ち無沙汰にしている中年男性、こちらはすぐに名前を思い出せた。フリークス・パーティ運営委員の一員、ジャバウォック……〈女王〉を裏切った男。
アリスのすぐ横には、同じような一人がけのソファが設置され、アリスと同じように〈女王〉が手首を拘束された状態で座っていた。
彼女は青い目を開いて、静かに正面を見据えている。まるで、よくできた人形のように。
恐らく、自分と〈女王〉はジャバウォックの手でここまで連れてこられたのだ。だが、ここは一体どこなのだろう? 白い壁の室内には窓一つ無く、あるのは頑丈そうな扉が一つだけ。
他にこの場所を理解する手がかりは無いかとアリスが部屋を見回していると、ジャバウォックが首をコキコキ鳴らしながら言った。
「あんまり暴れないでくれるかぃ。おっさん、一仕事したばかりでクタクタなんだわ」
ジャバウォックの声に銀髪の少女が反応し、人形じみた動きで首を回してジャバウォックを見た。
「……侵入者、は」
「あぁ、グリフォン達がここを嗅ぎつけてきたんですけどねぃ。ガスで眠らせて、全員処刑室に放り込んどきましたわ。いやぁ、それにしても力仕事はしんどいねぇ。こういう時、年を取ったって実感するわ」
ジャバウォックは、グリフォン達と言った。つまり、他にも何人かがこの付近に来ているのだ。
(……グリフォンのおじさん)
ジャバウォックは「処刑室」と言っていた。その部屋名の不吉な響きに、アリスは背筋を震わせる。
「ところで小さいお嬢さん、準備はどんなモンですかぃ?」
「セッティングは完了。まもなく処置を開始する」
銀髪の少女は淡々と言って、機械のダイヤルを幾つか同時に操作する。機械音のリズムが少し変化し、幾つものランプが忙しなく明滅を繰り返した。
銀髪の少女は静かな足取りでアリスの前に立つと、アリスとよく似た青い目で、アリスの顔を覗きこむ。
「……久しぶり、お父様殺しのフィーア(四番目)」
少女はアリスのことを、四番目と呼んだ。
あぁ、そうだ。少女の顔はアリスの知るものとだいぶ変わっていたが、今なら分かる。
彼女はかつて、クラークを庇ってアリスの前に立ち塞がったクラークの二番目の娘。
「……やっぱりキミが〈クラークの後継者〉だったんだね、ツヴァイ(二番目)」
ツヴァイの人形じみた無表情は変わらない。ただ、澄んだ青い目の奥には、確かにアリスに対する強い感情が見て取れた。
その感情は、優秀なアリスの頭脳をもってしても正確に理解することはできない。
ツヴァイにとって、アリスは大事な「お父様」を殺した憎き仇である。だが、クラークのクローンでもあるアリスは、あまりにもツヴァイの慕う「お父様」に似すぎていた。
クラークの面影を持つ、クラークを殺した少年を、ツヴァイはどんな思いで見据えているのだろう。
ツヴァイはアリスからふいっと視線を逸らすと、今度は分かりやすく忌々しげに〈女王〉を見た。
「……ツヴァイは、シャーロットまで連れて来いとは言わなかった」
「はぁ、すみませんねぇ。クラークの旦那を蘇らせるんなら、最愛の妹も連れてきた方が喜ばれるかと思ったんですが」
「………………」
ジャバウォックの言葉にツヴァイは言葉を返さなかった。だが、僅かに寄せられた細い眉毛が、彼女の葛藤を物語っている。
クラークがその人生の全てを捧げた最愛の妹、シャーロット・レヴェリッジ。彼女がいる限り、ツヴァイはクラークの一番にはなれない。
どんなにツヴァイが心を込めて尽くしても、クラークにとっての最愛はいつだって妹だった。
じりじりと足元から炙られるような静かな嫉妬心を向けられても、〈女王〉は無表情と無反応を貫いている。それが更にツヴァイの嫉妬を煽っているのは明白だ。
ツヴァイはしばし無言で葛藤していたが、やがて機械の前に立ち、メモリーディスクをセットする。
「……本当は、こんなドタバタした状況で、お父様の復活の儀式をしたくはなかった。けれど、機材の持ち出しが難しい以上、今、ここでやるしかない」
「あとは、何をすりゃ良いんですかい?」
「このコードをアリスと繋げて。そうしてアリスの人格を完全に破壊し、空っぽにしたら、このメモリーディスクに残されたお父様の魂の記録で上書きする」
ツヴァイの指示に、ジャバウォックは「なるほどなるほど」と相槌を打つ。そうして、ツヴァイからコードを受け取りながら、ごくごく自然な動作で腰から下げている剣を抜き、ツヴァイの胸を貫いた。
「…………え」
ツヴァイが青い目を見開き、ゆっくりと己の体を貫く剣を見下ろす。
やがてその体が力を失い、ずるりと地面に崩れ落ちて剣が抜けた。
ジャバウォックは機械油で汚れた剣を見て「あぁ、機械なんでしたっけ」と思い出したかのように呟く。
(……どういう、こと?)
アリスもまた、何が起こったのか分からず、目の前の光景に言葉を失った。
突然の凶行に及んだジャバウォックは剣を鞘に収めて、顎をするりと撫でる。
「すいませんねぇ、俺の目的は最初っから、こっちだったんですわ」
ジャバウォックは機械をトントンと指で叩いて、部屋の扉に目を向けた。
「片付きましたぜ、お嬢」
扉がゆっくりと開き、誰かが部屋の中に入ってくる。
修道服を着た赤毛の少女と、白いマスクを被った男。フリークス・パーティを見学していたアリスは、彼女達の名前を知っていた。
「……エリサと、海亀?」
エリサは暗く重たい修道服の裾を揺らして、楚々とした足取りで部屋の中を進んでいく。
そうしてアリスと〈女王〉の前で足を止めると、スカートの裾を摘んで一礼した。
「初めまして、〈十二番目の娘〉エリサです。今日はとても良いお天気ですね」
不気味なほど朗らかな笑みを浮かべ、彼女は告げる。
ウキウキと弾む声で。
「絶好の処刑日和です」