【17ー8】通訳不在の悲劇
地下迷宮は等間隔で薄い明かりがついていたが、隠し扉を潜った先の洞窟は、当然照明なんて点いていない。
ウミネコがサッとポケットからスマートフォンのライトを点けると、洞窟の岩肌がぼんやりと浮かび上がる。
その岩や土の色に優花は見覚えがあった。以前、アリスやグリフォンと一緒に探検した洞窟だ。
「ここは声が反響しそうだから、話すなら小声でな」
ウミネコが小声で言い、歩きだす。グリフォンは少しだけ気遣うように優花を見ていたが、無言でウミネコの後に続いた。
優花は閉ざされた隠し扉をもう一度だけ見つめる。
唯一の照明を持っているウミネコが先頭を歩いているので、隠し扉まで明かりは届かず、優花の視線の先には暗い闇が広がるだけだ。
だが、この闇の向こう側でイーグルが戦っている……たった一人で。
唇を噛みしめていると、クロウが優花の手首を掴んだ。
「サンドリヨン」
優花が隠し扉の向こう側に戻ってしまうとでも思ったのか、繋ぎ止めるクロウの手は強い。
優花はゆるゆると首を横に振り、顔をあげた。
「……分かってる。大丈夫」
クロウの手が手首から離れると、優花は自身の頬をバシンと勢いよく叩いた。
そうして自分に喝を入れて、力強い足取りで歩きだす。
洞窟内は地下通路同様にひんやりと冷たく、土と苔のにおいに混じって、甘い腐敗臭と死臭が漂っていた。前に洞窟に来た時よりも、その不快なにおいは強くなっている。
やがて少し開けた場所にでると、道は三つに分かれた。
この場所に優花はうっすらと見覚えがある。初めて異形に遭遇し、イーグルに助けられた場所だ。
「ここは、確か……」
優花が呟くと、グリフォンが一度だけ頷いた。
「あぁ、間違いねぇ。ウミネコ。右斜め前方の壁を照らしてくれるか」
ウミネコが「はいよ」と岩壁を照らせば、そこだけ不自然に崩れていることが分かる。初めて異形と遭遇した時、グリフォンが叩きつけられた場所だ。
「うん? ……なんだこりゃ」
一つ一つの道を照らしていたウミネコが、少し屈んで地面から何かを拾い上げた。彼がつまみ上げたのは、紙でできたバッチだ。少し湿気っているが、サインペンで描かれた猫の絵柄は、まだ滲むことなく残っている。
グリフォンがハッとした顔で優花を見た。
「嬢ちゃん、これは」
「見せてください」
優花はウミネコから紙製のバッチを受け取り、描かれたイラストをよく眺める。
不機嫌そうな顔の灰色の猫のイラスト。それは、優花がアリスから貰ったバッチと酷似していた。
だが、よくよく観察すれば細かな部分が違う。つまり、これは優花が鞄に付けていた物ではないのだ。
「これ……アリス君が作ったもので、間違いないと思う」
優花の呟きに、ウミネコが「ふぅん」と相槌を打った。
「そんじゃ、怪しいのはバッチが落ちてた通路だな。ミスリードかどうかは分からないけど」
優花は以前この洞窟に来た時のことを思い出す。
森側の出口からここに至るまでは、ほぼ一本道だった。そうして、ここで道が三つに分かれていたのだ。
(あの時、異形が出てきたのは左側。実験施設があったのが中央)
調べなかった右側の道が、今優花達が歩いてきた地下迷宮の隠し扉へと繋がっている。そして、猫のバッチが落ちていたのは中央……実験室がある道のそばだ。
「バッチが落ちてた道の先には……実験室があります」
「決まりだな。行くぜ」
ウミネコが中央の道を照らしながら歩きだす。道は曲がりくねり、何箇所か分岐していたが、優花とグリフォンは、イーグルの足取りを思い出しながら、ウミネコを誘導した。
やがて辿り着いた行き止まり。グリフォンがウミネコに手元を照らしてもらいながら、壁の継ぎ目を指で探り当てる。
「……ここだな」
目立たぬ出っ張りにグリフォンが指をかけて横に引けば、岩壁がスライドし、その下から金属製の扉が現れた。
「……開けるぞ」
グリフォンが声をかけ、慎重に扉を開ける。
扉の向こう側には、以前見たのと同じ、白い壁の広い空間が広がっていた。薬品棚、実験机、手術台なども以前見た時とそれほど大きな違いはない。
優花とグリフォンはこの研究室に入るのは二度目だが、初見のクロウとウミネコは驚いたように目を丸くしていた。
「……思った以上に本格的だな」
「随分広いのな。こりゃ金かかってるわー……あれ? なんか変な音しない?」
ウミネコの言う通り、どこからともなくシュゥゥゥというガス漏れのような音が聞こえる。鼻がその刺激臭を認識した途端、優花の視界がぐらりと揺れた。
「……ぇ、あ」
膝をついたのは優花だけじゃない。クロウ、ウミネコ、グリフォンもだ。
クロウは口と鼻を手で覆って、洞窟に戻る扉に手をかけた……が、どんなに横に引いても扉が開かない。
「くそっ、閉じ込め、られ……」
真っ先に倒れたのはウミネコだった。目を閉じて横たわっている彼からは、スヤァという平和な寝息が聞こえる。どうやら、この部屋に流し込まれているのは、睡眠ガスの類らしい。
優花はハッターのポケットから手に入れた鍵の存在を思い出した。
(イーグルは、この部屋の薬品棚の後ろに隠し扉があるって言ってた)
薬品扉に目を走らせれば、なるほど床にレールのような溝がある。あの薬品棚は横にスライドして動かせるのだ。
(隠し扉の向こう側まで、逃げれば……)
だが思考と裏腹に、頭が重くなり、目の前が真っ暗になる。
ウミネコに続いて優花、グリフォンも床に倒れ、そして一番毒物に耐性のあるクロウも、やがて力尽きて床に崩れ落ちた。
* * *
「周防さん、はーやーくぅー! こっちこっちー!」
「ちょっ、引っ張ら、ないで、くださいっ!」
「周防さんめっちゃ息あがってるね。運動不足じゃない? 年取るとメタボるよー?」
「余計な、お世話、ですっ!」
イーグルの部下、周防を見つけた美花は、周防を半ば引きずるようにしてクリングベイル城本館玄関に連れていった。
玄関ホール付近には怪我人が集められていて、特に怪我の酷い者から順番に、軽トラックで港へと運ばれている。
ただ、この中で最も重傷なのに、まだ運び込まれていない者がいた。燕である。
異形化の薬を投与された彼は、麻酔をして拘束しているが、いつ麻酔が切れて暴れだすか分からないので、港に連れて行く訳にはいかなかったのだ。
美花は、燕の様子を見ているサンヴェリーナに駆け寄りながら、ぶんぶんと手を振った。
「おっまたせー! ワクチン持ってきたよー!」
「ちょっ、勝手に使わないでくださいっ。数が限られているんですよっ!?」
周防はワクチンの入ったジェラルミンケースを両手でヒシと抱きしめたが、美花が周防の背後に周り、彼の脇腹をこちょこちょとくすぐった。
「ひょあぁっ!?」
周防の手からポロリと落ちたジェラルミンケースを、駆け寄ったグレーテルがさっと受け止めて、蓋を開ける。
「わぁっ、お注射がいっぱーい!」
ジェラルミンケースの中に収められているワクチンは三十本。観戦室のワインで異形化した数人の騎士と燕に使うのなら、充分に足りるだろう。
「これがあれば、お兄様が助かる……」
早速サンヴェリーナがワクチンを手にとり、キャップを外す。そして燕の首に刺そうとした……が、彼女の手は酷く手が震えていた。おまけに持ち方がおかしい。何故、注射器を両手でしっかりと握りしめて持っているのか。
「……いざ……まいりますっ!」
キリッとした顔で注射器を振り上げるサンヴェリーナに、美花は横から声をかけた。
「ねぇねぇ、その持ち方、ドラマで包丁持って首刺す時の持ち方じゃない?」
どうやら美花の声はサンヴェリーナの耳には届いていないらしい。
サンヴェリーナはふぅふぅと荒い息を吐き、白い頬に玉のような汗を浮かべ、鬼気迫る顔で注射器を燕の首に近づけた。だが、手がガタガタ震えているせいで、注射器の針の先端がブレてしまい、なかなか皮膚に刺せない。その様子は、完全にサスペンスドラマの犯人である。
見かねた美花はサンヴェリーナの手から注射器を抜き取ると、燕の首にプスリと刺した。
「えい」
「あっ!」
サンヴェリーナは大きく目を見開いて美花を見ていたが、燕の全身に浮いていた血管が少しずつ元に戻っていくと、ほっと胸を撫で下ろす。
「……お兄様……良かった」
苦しげな呻き声も、今は穏やかな寝息へと変わっていた。
サンヴェリーナは華奢な指先で、乱れた目元の包帯をそっと直した……が、不器用なのか、包帯がますますグチャグチャに乱れていく。
包帯に悪戦苦闘しているサンヴェリーナを眺めつつ、美花はワクチンの入ったジェラルミンケースを持って立ち上がった。
「他に薬が必要な人は、どこにいるんだっけ〜?」
キョロキョロと辺りを見回せば、イスカが片手を持ち上げながら美花に歩み寄る。
「奥の観戦室で拘束してるよん。オレが案内したげる」
「わーい、ありがとー。ところで、その人は手当てしなくていいのー?」
その人、と言って美花が指さしたのは、玄関ホールの壁にもたれて寝ているカーレンである。
イスカはカーレンをちらりと見ると、「いーのいーの」と肩をすくめた。
「そいつ、限界まで暴れて電池切れになると、よっぽどの危険が迫りでもしない限り、起きないから」
そう言ってイスカは美花を伴い、観戦室へと歩き出す。
玄関ホールからイスカの姿が見えなくなってしばらくした頃、カーレンの長い睫毛が震え、ゆっくりと持ち上がった。
眠気にとろりと微睡む目が、足元の絨毯を……否、更にその下をじぃっと見つめる。
「………………地下?」
* * *
ドロシーは不機嫌そうな顔で猫耳をヒクヒクと動かすと、前方にある廊下の角を指差した。
「そこに、一体!」
ドロシーの声に、オウルが糸を手繰り寄せる。丁度廊下の角から姿を見せた異形は、オウルの糸に絡め取られ、動きを止めた。
そこにライチョウが素早く手元の拳銃を撃ち込む。
熊でも殺せそうな大口径の銃から放たれた銃弾は、異形の眉間に頭を開けるどころか、目から上の部分を木っ端微塵に吹き飛ばした。
「クリア」
ライチョウがそう呟くと、近くの部屋をチェックしていたスノーホワイトが顔を出す。
「ライ君、ライ君、こっちのお部屋も空です」
スノーホワイトの報告に、ドロシーは「あーもう!」と苛立たしげに頭をかき、地団駄を踏んだ。
「全っ然、見つかんないじゃないの! ジャバウォックも〈女王〉も!」
「このフロアで全て確認を終えたことになる」
「要救助者もトラックに乗せたし、ここは撤収でいいわよ! それよりアタシは地下に落ちたクロウを探しに……」
言いかけてドロシーは窓の外に目をやった。港に怪我人を送り届けた軽トラックが戻ってきたのだ。運転席に座っているのは、相変わらず鳥のマスクを被ったままの女、インゲル。
ドロシー、オウル、ライチョウ、スノーホワイトが玄関まで降りると、インゲルが軽トラックの運転席から下りて、鳥頭を傾げた。
「あれ、ハヤブサとチビメイドはいないのか?」
「知らないわよ。別行動中だもの。ねぇ、それより、城の中のバケモノどもは片付けたんだから、アタシも地下に行っていいでしょ?」
ウミネコ、グリフォン、ついでにおまけのサンドリヨンが地下に落ちたクロウとイーグルを助けに行ってから、もうだいぶ時間が過ぎていた。
地下迷宮はどうしたって探索に時間がかかるから、人手は少しでも多い方が良いに決まっている。
なにより、助けに行ったのが既にボロボロのウミネコと、ボロボロのグリフォンと、役立たずのサンドリヨンなのだ。ここは自分が颯爽と助けてやらねば、とドロシーが意気込んでいると……
「……やめた方がいい」
ボソリと言ったのは、今まで壁にもたれて寝ていたカーレンだ。
「なによあんた、さっきまでグースカ寝てた癖に、アタシに意見する気?」
ドロシーが腰に手を当てて、カーレンを見下すように睨むと、カーレンはゆるゆると頭を左右に振る。
「……地下は、ダメ」
「だから、なんでダメなのか言いなさいよ!」
「……なんか、嫌な感じがするから」
「はぁっ!?」
ドロシーは瞳孔の細い目を爛々と輝かせ、大股でカーレンに詰め寄った。
そうして至近距離でカーレンの顔を睨みつける。
「なんか嫌な感じって何よ?」
「……なんか嫌な感じ」
「あんた喧嘩売ってんの!?」
「……喧嘩は、売るより買う派」
噛み合わない会話に、ドロシーが額に青筋を浮かべたその時、少し離れた場所でサンヴェリーナが「お兄様!」と声をあげた。
見れば、サンヴェリーナに膝枕をされていた燕が、口をハクハクと動かして何かを訴えようとしている。
サンヴェリーナは涙ぐみながら、燕の頬に手を添えた。
「お兄様、無理に喋らないでください。酷い怪我なんです」
「火急の、事態だ……」
燕は血に汚れた唇を動かして、掠れた声で言う。
「地下から、嫌な気配がする……城を、離れ……可能なら、島を、出ろ」
燕の言葉にドロシーは鼻の頭に皺を寄せた。
カーレンと、フリークス・パーティ屈指の実力者である燕とでは、やはり言葉の重さが違う。
とは言え「嫌な気配」の一言では、どういった危険が迫っているのかが分からない。
ドロシーが唸っていると、オウルが生真面目に挙手をして発言した。
「質問、『嫌な感じ』『嫌な気配』とは?」
カーレンと燕はしばし考え込み、交互に答える。
「……なんか、背中がゾワゾワする感じ」
「非常に悍しく邪悪な、他者に害なす者の気配だ」
「理解不能。具体的な説明を要求する」
頭に馬鹿がつくほど真面目なオウルの言葉に、カーレンと燕もまた、律儀に言葉を返した。
「……じわじわ水が滲み出て、ぶわっとなるみたいな……今はまだ、前奏。サビになったら、手遅れ……」
「先程から不吉な律動を地の底より感じるのだ。その奥で悪意がとぐろのように渦巻き、あらゆる者を引きずり込もうとしている」
オウルはきっちり三秒考え込むと、助けを求めるようにドロシーを見た。
いつもと変わらぬ無表情だが、そこはかとなく途方に暮れているのがドロシーにはよく分かる。
「ドロシーは、理解できたか?」
「できるわけないでしょうが! ちょっと!? こいつらの通訳はいないの!?」
感覚器官特化型の先天性フリークスどもは、どうにも表現が独特すぎるのだ。
ドロシーも聴覚を強化されているが、彼らの言う「気配」というものは今ひとつよく分からない。
(……ただ、言われてみれば確かに、尻尾の生えていた辺りの古傷が、ウズウズするような気はするのよね)
だが「尻尾の生えてたところがウズウズするから、ここは危険」だなんて頭の悪いこと、死んでも口にしたくない。
ドロシーが猫耳をヒクヒク震わせながら苛々していると、鳥頭のインゲルがスマートフォンを弄りながら言った。
「つまり、地下がなんかヤバいってことだろ。だったら早めに撤収だ。奥にいる奴が戻ってきたら、軽トラに乗せて、港まで移動しよう」
「あの、ですが、地下に行かれたサンドリヨンさん達は……」
不安そうなサンヴェリーナに、インゲルは落ち着いた様子でスマートフォンをタップする。
「大丈夫だ。そっちには、最強の男が向かってる」