【17ー4】弱者
地下迷宮は等間隔で弱い明かりがついているので、懐中電灯の類が無くとも充分に歩けるが、それでも薄暗いことに変わりはない。
その空気は城の外よりも冷たく、外套無しの優花には震えるほど寒い。
少しでも血行を良くしようと、かじかむ指を握ったり開いたりしながら、優花は鼻をひくつかせた。
じっとりと湿ったカビ臭い空気に、ほのかに甘い腐敗臭が混じっている。
優花が言及せずとも、クロウ達も気づいたらしい。クロウが「止まれ」と片手を上げた。
通路の奥から響くのは、苦しげな呻き声。その声を優花は知っている。
「……っ、イーグル……」
駆け出しそうになる優花の腕をクロウが掴んで止めた。
「……分かってんだろ。決勝戦とは状況が違ぇ」
「…………」
決勝戦のイーグルは、優花に怪我をさせないよう細心の注意を払いながら戦っていた。
だが、今は違う。
「おやおや、ここにも憎き先天性フリークスが二人……」
コツコツと革靴を鳴らしながら姿を現したのは、シルクハットと白衣という組み合わせの老人……ハッター。
そして、その背後に控えるのは肉団子のようにキメラを寄せ集めた異形と、獣のような唸り声をあげるイーグルだった。
イーグルのきちんと整えられていた髪はぐしゃぐしゃに乱れ、崩れた前髪の下では殺気立った瞳が爛々と輝いている。それは、理性を失った獣の目だ。顔や首筋には不自然に血管が浮き上がり、不気味さに一層拍車をかけていた。
優花は駆け寄りたい気持ちをグッと堪え、ハッターを睨みつける。
「……あなたも〈クラークの後継者〉一味なの?」
「いかにも。まぁ、わしは永遠の命など興味はないがね」
ハッターは口髭を弄りながら、うっとりとした目で肉団子のような異形を見上げる。
……その目にあるのは、強い陶酔。
「私が欲したのは、クラーク殿の残したキメラ技術。見るがいい、この美しいキメラの姿を。本来なら死に行く肉体を機能的かつ芸術的に繋ぎ合わせたこの姿。先天性フリークスに劣らぬ高い戦闘能力を有しており……」
「黙れ」
鋭い声を発したのは、クロウだった。
彼は不快感を隠そうとせず、鼻の頭に皺を寄せて吐き捨てる。
「オレはその手のキメラ信者の言葉が死ぬほど嫌いなんだ。そんなにキメラが好きなら、てめぇの体を材料にしやがれ」
キメラとして体を弄られてきたクロウの言葉には、キメラ研究者への強い嫌悪が滲んでいた。
だが、そんなクロウの悪態にハッターはニタリと唇を歪めて笑う。
「無論、したとも」
ハッターが左手の手袋を外して掲げる。
その手は一本一本の指が違う生き物の指で出来ていた。親指はネコ科、人差し指はイヌ科、中指は鳥類、薬指は爬虫類、小指だけは人間。違う生き物の指をデタラメに繋ぎ合わせたそれは、悪趣味なオブジェのようですらあった。
一本一本形の異なる指は、手の甲で捻り合わせたかのように混ざり合い、そして枯れ木のような老人の手首へと繋がっている。
「なかなかに芸術的であろう? 種の異なる生き物の身体を繋ぎ合わせるには、バランスと美的センスが問われるのだよ。そこで私は苦心に苦心を重ね……」
「もういい」
クロウはハッターの言葉をバッサリと切り捨てて、槍を構え直す。
同様にグリフォンとウミネコも拳を握りしめた。
グリフォンはイーグルと肉団子型の異形を交互に見て、舌打ちをする。
「……ちっ、やりづらいな。おい、ウミネコ。お前はどっちがいい」
「ん〜、そんじゃあ肉団子。オレ、足故障中だから、イーグルの動きについていけないもん」
ウミネコが肉団子型の異形と向き合い、クロウとグリフォンがイーグルと対峙する。
クロウは油断なくイーグルを睨んだまま、優花に告げた。
「お前はワクチン握って待機してろ。イーグルの動きが止まったら、問答無用でワクチンを打て」
優花はコクリと頷き、ペン型の注射器をいつでも打てるように握りしめた。
イーグルが獣のような咆哮を上げながら、クロウに飛びかかる。湾曲した手はクロウの目玉を抉ろうと凄まじい速さで突き出された。それをクロウは槍の柄で受ける。だが、イーグルの勢いを殺しきれず、後ろによろめいてバランスを崩した。
「ちぃっ!」
クロウが態勢を立て直すより早く、イーグルが反対の手を振り上げる。その手がボコリと不自然に膨れ上がった。まともに受けたら、叩き潰される……そんな予感にクロウの皮膚が粟立つ。
「動くなよ、クロウ!」
グリフォンが横からイーグルに殴りかかった。
しかし、イーグルは回避をしない。横っ面を殴られた彼はゴロゴロと地面を転がったが、すぐに四つん這いになって起き上がり、唸る。その姿は完全に手負いの獣のそれだ。
「……みっともねぇなぁ。鷹の癖に、四つん這いかよ!」
クロウが槍でイーグルを狙うと、イーグルは身軽な猫のように飛び上がり、シャァッと鋭い声で鳴いた。
大きく開かれた口が、クロウの喉笛を食い千切ろうとする。とても紳士的なイーグルとは思えない戦いぶりだ。
今のイーグルは、彼本来の戦い方より、圧倒的に無駄が多い。そのくせ、ただでさえ高い身体能力が更に向上しているものだから始末に負えない。
今度はクロウが槍で牽制し、その隙にグリフォンが間合いを詰めて殴りかかるが、グリフォンよりも遥かに速いイーグルの拳がグリフォンの鳩尾を突く。
地面を転がったグリフォンはうずくまり、ゲェゲェと血を吐いた。
クロウがちらりと目を向ければ、グリフォンは血を吐きながら怒鳴る。
「オレに構うな! 攻撃を続けろっ!」
再びイーグルがクロウに襲いかかる。それをクロウは慎重に慎重に受け流す。
* * *
ウミネコは燕との戦闘で負傷した左手をプラプラと揺らしながら、肉団子と向かい合っていた。
複数のキメラを掛け合わせたその巨体は、高さが優に二メートル以上ある。もしかしたら、小柄なウミネコの二倍近くあるのかもしれない。
「うーん、この怪我がなけりゃ、お手玉できたんだけどなぁ」
左手の甲の傷をベロリと舐めて、ウミネコは目を細める。
肉団子は転がるように移動し、複数ある腕を一斉にウミネコへ伸ばした。一本一本の腕の力が強い。腕力特化型フリークスに匹敵するそのパワーは、一般人なら数秒でバラバラに引き裂かれていただろう。
ウミネコは自身の右腕に絡みつく異形の腕を振り払う。
単純な腕力はウミネコの方が上なのだが、相手は手数が多い。下の方から伸びてきた腕がウミネコの右足を引っ張った。
「わっ、たっ、たっ……」
ウミネコが超人的なのは腕力であって、脚力はそれほどでもない。また別の腕が伸びてきて、ウミネコの左足を掴んだ。そして掴んだ足を左右に裂くように引っ張る。
「ぎゃーーーーーーーーっ!! 股が裂けるーーーーーーーーーーっ!!」
流石にこれにはウミネコも焦って、異形の胴体に拳をめり込ませた。一発では大したダメージにならないが、二発、三発と叩き込めば、足を掴む異形の手が少しだけ緩む。
ウミネコは素早く足を引き抜いて、一度距離をとった。
「……こっわ……えー、まずいなー、これ……」
機動力の無いウミネコでは、複数の腕をかいくぐって本体を攻撃することができない。となれば、腕を一本ずつ潰していくしかないのだが、異形は叩き潰された腕を今も平気で動かしていた。痛みを感じていないのだ。
(オレもスノーホワイトちゃんに、林檎爆弾貰ってくれば良かったなぁ)
この異形との戦い、どうにもウミネコの心は踊らなかった。
燕との戦闘では気分が高揚して、脳内麻薬が大量に分泌されていた。だから、痛みもそれほど感じなくなっていたのだが、気が乗らない戦いになると、途端にテンションが下がってしまうのがウミネコの特徴だった。
今になってズキズキと傷が痛み出してくる。
「あー、参ったな、これ……つーか、足痛ぇ……あー、なんかやる気でない……楽しくない……」
* * *
「はは! ははは! いいぞ、いいぞ! あの忌まわしいNo.196が、ワシの言いなりになるとは、なんと愉快痛快!」
喉を仰け反らせて笑うハッターの背後から、華奢な腕がニュッと伸びる。その腕の持ち主……優花は、ハッターを後ろから地面に押し倒すと、老人の背中に容赦なく膝をねじ込んだ。
「ぐっ、なっ、お前は……サンドリヨン……っ!」
「なに傍観者みたいな顔してんのよ」
優花は低い声で吐き捨てて、鼻をひくつかせる。
ハッターからは甘ったるい腐敗臭……kf-09nのにおいがした。
このにおいを漂わせている者は襲われない、というカーレンの指摘はやはり正しかったのだ。
(……だったらきっと、においの元を持っているはず)
ハッターの白衣のポケットに手を突っ込めば、案の定それはすぐに見つかった。小さな布の小袋。それが強いにおいを放っている。
「やめろっ! 返せっ! おいっ、No.196! ワシを助けろっ!」
優花は喚き散らすハッターの胸ぐらを掴み、至近距離で老人の濁った目をギラリと睨む。
「翔君をその名で呼ぶな」
ビクリ、とハッターの動きが止まる。
優花はハッターを突き飛ばすと、奪い取った小袋をグリフォンに投げた。
グリフォンは驚いたような顔をしていたが、すぐにその使い道を察したらしい。
甘ったるにおいを漂わせる小袋を握りしめ、グリフォンは一度イーグルの視界から外れる。そうして大きく回り込み、イーグルの背後へと回った。
イーグルはグリフォンに反応しない。そのにおい故に、グリフォンを「敵」と認識していないのだ。
クロウが正面からイーグルの意識を引きつけている間に、グリフォンは後ろから飛びかかり、イーグルを羽交い締めにする。
「今だ! 嬢ちゃんっ!」
優花は注射器を取り出し、イーグルの元へ駆け寄る。
(このワクチンを首に刺せば……!)
だが、イーグルの元まであと僅か……というところで、横殴りの衝撃がきた。
「……っぐ、ぁ!?」
肉団子の異形が優花に突っ込んできたのだ。巨体に勢いよく体当たりされ、優花の体はゴロゴロと地面を転がる。その手から注射器が滑り落ちた。
クロウが怒鳴る。
「ウミネコぉっ!! てめぇ、何やってやがる!」
「ごめーん、しくったー」
ウミネコの体は半分近く肉塊に埋もれていた。ウミネコの両腕は、異形の複数の腕が一斉に押さえ込んでいる。ウミネコの腕一本を三本の腕が押さえ込んでいるのだ。流石にこれではウミネコも身動きがとれない。
更にイーグルを羽交い締めにしていたグリフォンも、ここまでが限界だった。
暴れるイーグルはグリフォンの腕を振り払い、雄叫びをあげながら、グリフォンに襲いかかる。一度攻撃を仕掛けた以上、匂い袋があっても敵と認識されてしまったのだろう。
慌ててクロウがフォローに入ったが、二人がかりでもなお、イーグルに押され気味だ。
優花は痛む体に鞭打って、地面に落ちた注射器に手を伸ばす。だが、注射器を握りしめた手をハッターの革靴が勢いよく踏みにじった。
「……あぅっ……ぐ、ぅぅぅっ」
「それが、鷹羽の開発したkf-09nのワクチンか……ふん、そんなもの!」
ハッターが足を振り上げる。優花は痛む両手でしっかりと注射器を覆うように握った。
これだけは、折られてなるものか。この注射器が壊されたら……イーグルを救えなくなってしまう。
「その手を離せ、小娘!」
「うるさいっ! うるさいっ! ……翔君は、報われなきゃ、いけないんだっ」
血の滲む手で優花は注射器をしっかりと握りしめ、叫ぶ。
イーグルはずっと心を殺して、その手を血で染めて、キメラ達の願いを叶えようとした。
そうやって一人で戦ってきた彼が、最後は理性を奪われて、異形に成り果てるなんて……そんな結末、優花は絶対に認めない。
「これ以上、翔君から、奪うなぁぁぁっ!」
優花が叫んだ瞬間、その声に反応したのか、肉塊の腕の一本が優花めがけて伸びてきた。
あぁ、ワクチンを奪われてしまう……と優花が絶望した時。
ぐちゅり、という音がして、生暖かい物が優花の顔を濡らす。
はひ、というハッターの声がすぐそばで聞こえた。
恐る恐る顔を上げれば、異形の腕はハッターの胸を貫いている。ハッターは目を剥き、血を吐きながら、信じられないような顔で異形を見上げていた。
「おま、え……ちが……わた、しは…………あ、あ……」
異形が腕を引き抜けば、ハッターの体は糸の切れた人形のようにずるりとその場に崩れ落ちた。
次は自分が狙われるのか、と優花が身構えると、異形はゆっくりと体の向きを変える。
異形の腕がウミネコを解放し、床に放り捨てた。ウミネコは「いてて」と掴まれていた腕を撫でながら、不思議そうに異形を見る。
「……どゆこと?」
異形がゴロゴロと転がるような勢いで突進していったのは、クロウでもグリフォンでもない……イーグルだ。
その巨体がイーグルの体を押し潰し、何本もの手足がイーグルを拘束する。これには、クロウとグリフォンも呆気に取られて、動きを止めた。
「なんで、同士討ちを……」
違う、と優花は気がついた。
肉団子のような異形は、イーグルを攻撃しているわけじゃない。ただ、取り押さえているだけだ。
肉塊に埋もれていた顔の一つ……幼い少女の瞼が持ち上がり、何かを訴えるように優花とワクチンを見る。
(…………あぁ)
優花は血の滲む手で、ワクチンを握りしめ、駆け寄った。
異形は優花を攻撃したりしない。イーグルの拘束に全ての力を注いでいる。
優花は跪き、獣のように呻くイーグルの頭を抱きしめた。
「……今、助けるから」
尚も抵抗しようとするイーグルの頭をしっかりと抱きかかえて、その首に注射器の針を押し込む。
イーグルの体がビクリと大きく痙攣すると、獣のような唸り声がピタリと止まった。
「大丈夫、大丈夫、助かる、助かる……絶対、助かる」
自分に言い聞かせるように優花が呟くと、優花の腕の中で掠れた声が聞こえた。
「……ゆう……か、ちゃん……」
イーグルの目に理性が戻ったのを確認し、優花はほぅっと息を吐く。
イーグルが言葉を発すると、イーグルを拘束していた異形の腕がするすると離れていき、のしかかっていた巨体もイーグルの上から退いた。
ようやく正気に戻ったばかりのイーグルはぐったりとしていたが、それでもゆっくりと立ち上がり、キメラを寄せ集めた異形と向き合う。
イーグルが見ているのは、異形の肉塊の中に複数ある顔の一つ……まだ幼い少女の顔。
イーグルは少女の頰を撫で、間近でその顔を覗き込んだ。
「あぁ、やっぱり……君が、助けてくれたんだね……イオナ」
少女の唇が微かに震えた。その唇が声を発することはない。ただ、その唇にはあどけない笑みが浮かんでいる。
イーグルはちらりとクロウを見て、右手を差し出した。
「……カラス君、君の槍を貸してくれないか?」
「トドメぐらい、オレが……」
イーグルは無言で首を横に振る。
クロウは思うところがあったのか、ぶっきらぼうに槍を差し出した。
「……ありがとう」
イーグルは弱々しく笑い、槍をギュッと握りしめる。
「……イオナ、助けてあげられなくて……ごめん」
イーグルが槍を構える。その切っ先を真っ直ぐに少女の顔に定めて。
少女の顔が儚く笑う。その笑顔に、イーグルは槍の切っ先を叩き込んだ。
少女の頭部が破壊されると同時に、キメラの寄せ集めだった肉塊は動きを止める。少女の頭がキメラ達の核だったのだ。
イーグルは槍を振って血を払うと、ポツリと呟く。
「……君達を助けられなかった僕は、やっぱり弱者だったんだね」
呟く声は、震えていた。