【17ー3】VSタヌキじじい
運営委員会の中でも、とりわけ頼りない白兎だったが、避難する人間への指揮はまぁまぁ的確だった。
自分の足で動ける人間は港の方へ誘導。移動困難な怪我人は、サンヴェリーナやグレーテルが応急処置を施し、ミミズクが軽トラックの荷台に乗せてやる。
パウダールームにいたピーコック達は、港周辺の安全確認と護衛。異形は外を徘徊していないとも限らないから、クリングベイル城から港までの安全確認は必須だった。
その様子を横目に眺めながら、美花は城の外に出ると、一目散にクリングベイル城別館へと向かう。
美花の役割は、イーグルの秘書、周防とコンタクトを取ることだ。
周防は港の方に避難したのでは、と言う者もいたが、美花の考えは違う。
周防はイーグルの信奉者だ。盲目的に彼のことを慕っている。そんな彼が、イーグルが生死不明の状態なのに、一人で島の外に逃げようとするとは思えない。
(それに……港は携帯の電波が良くないんだよね〜)
フリークス・パーティでは、録画による情報流出を避けるため、携帯電話の観戦室への持ち込みは厳しく制限されている……が、この島の中で携帯電話を使う分には、問題無いのだ。
ガラケーを鞄の底に放置している姉と違い、美花は暇さえあればスマートフォンを弄っているので、島の電波状況についても概ね把握している。
この島で一番、電波の状態が安定しているのはクリングベイル城別館だ。
別館の扉は解放されていて、中に人の気配は無い。中にいた人もほとんど港の方へ逃げたのだろう。
美花は念のため、姉から借りたモッズコートを頭からかぶり直した。
ワインの染みがベッタリとついたそのコートは、異形に襲われにくくなる効果があるらしい。
(とは言え、念には念を……だよね〜)
美花はなるべく足音を殺して、別館の階段を駆け上った。
もし、周防がいるとすれば、おそらくイーグルの客室だ。
四階まで階段を上ったところで、美花は廊下の奥から男性の声が聞こえることに気がついた。今、別館はほぼもぬけの殻になっているから、話し声はよく響く。
「……えぇ、ですから、社長とはまだ連絡が取れず……はい……」
ビンゴだ。美花はちろりと唇を舐めて、声の方に忍び足で近づく。
非常階段のそばで電話をしているのは、スーツを着た二十代の青年……イーグルの秘書、周防だ。
彼の足元には、頑丈そうなジェラルミンケースが一つ。電話を持つ手と反対の手はスーツの内側にあった。美花は知っている。周防はあそこに拳銃を隠し持っているのだ。
「現在、観戦客達は港の方へ向かっています。港はおそらく、混乱状態かと……えぇ、私も、助ける必要は無いかと思います。彼らはかつて『修羅』を裏切ったスポンサー達ですから。それよりも、待機中の部隊に、港の反対側から秘密裏に上陸してもらい、社長の救助及び、〈女王〉の確保をするべきかと」
むむむ〜、と美花は唇をへの字に曲げた。
会話の流れから察するに、周防は『修羅』の関係者と電話をしているのだろう。
おそらく彼らは観客達を見殺しにし、〈女王〉を拘束して、フリークス・パーティを乗っ取るつもりなのだ。
美花は思い切って廊下の影から飛び出し、周防の背後から手を伸ばして、スマートフォンを奪い取った。
「──っ!? お前は……っ!」
周防はギョッとした顔をしていたが、美花を認識すると忌々しげに顔をしかめる。
彼はスーツの内ポケットから拳銃を取り出すと、その銃口を美花の額に向けた。
「……社長を騙した女狐が、何故こんなところにいる」
「女狐だなんて、ドラマの中でしか言わなくな〜い? 超レア体験〜」
「スマホを返せ」
周防は美花の軽口には応じず、拳銃の安全装置を外した。
美花はちらりとスマートフォンの画面に目を走らせる。
画面に表示されている通話の相手の名前は「深海会長」……美花のお目当ての人物だ。
美花はにんまり笑ってスマートフォンを耳に当てる。
「初めまして〜。私ぃー、如月優花の妹の、如月美花って言いま〜す。お姉ちゃんがお世話になってま〜す」
電話の向こう側で、通話相手が息を飲む声が聞こえた。
美花がしばし待っていると、ゴホンという咳払いの声が聞こえる。
『声が優花ちゃんに、クリソツじゃのぅ?』
「あっ、分かる〜? 私達、双子なの〜。顔も声もめっちゃ似てるよ〜」
『ほぉう?』
「よろしくね、ジュウちゃん?」
その呼び方に、向こうの空気が少し変わる。おそらく、この電話の相手をそう呼ぶ人間は限られているのだろう。
美花は相手の呼び方一つで、自分が優花からのメッセンジャーであることを証明したのだ。
周防は「スマホを返せ」と硬い声で美花を脅す。
美花はウィンクをしながら人差し指を口元に当てて、「し〜」のジェスチャーを返した。
「あのね〜、周防さんに電話変わってもらったのは〜。ジュウちゃんにお願いがあるからなの〜」
『ほっほぅ? なんじゃなんじゃ?』
「うん、この島の周りに船を待機させてるんでしょ? その船で、港にいる人達を保護してほしいの〜」
周防が「はぁっ!?」と声を荒げて、腕を伸ばす。そうして、彼は無理やり美花からスマートフォンを奪い取ろうとした。
美花はそれをひらりとかわし、通話を続ける。
「美花、超困ってるの〜。ジュウちゃん、お願ぁ〜い」
『おぉう、それは可哀想に……うんうん、よしよし、もうすぐ島に特殊部隊が着くからのぅ。優花ちゃんと美花ちゃんを保護するようにワシから言っておこう』
それは、優花と美花は保護してくれるが、港にいる観戦客は見殺しにするということだ。
美花としては、自分さえ助かれば他の観戦客はどうでもいいのだが……それだと、姉は絶対に納得してくれない。
「他の人達も助けてあげたら、いっぱい恩を着せられると思うな〜」
『ほっほっほ、悪くない考えじゃがな……わしらには、他に優先することがあるんじゃよ』
「〈女王〉様と交渉したいんでしょ? おっけ〜、美花が取り持ってあげる。美花、〈女王〉様と友達だから」
美花からスマートフォンを取り返そうとしていた周防が、無言で目を剥いた。
彼の動きが止まったのを確認して、美花は畳み掛ける。
「〈女王〉様、優しいから、人助けしておいた方が交渉しやすいと思うよ〜?」
『……ふむ』
深海会長は考え込むように黙りこむ。
(考える余地があるのなら、あともう一押しかなー……)
交わした言葉は僅かだが、深海会長なる人物に感じたのは成功者特有の自信と余裕。この人物には余裕がある。
そういう成功者を上手に持ち上げておねだりするのは美花の得意分野だ。
「あのね、優花ねぇから伝言があるのー『ジュウちゃん、お願い、みんなを助けて。助けてくれたら……優花がデートしてあ・げ・る』だって〜」
なお、姉の言葉を正確に再現するなら「ジュウちゃんお願いっ、デートでも何でもするから、みんなを助けて!」である。
交渉をする上で、多少の脚色は必要なのだから仕方がない。
美花が返事を待っていると、深海会長はいかにもか弱い老人ぶった声で言った。
『……ちなみに、美花ちゃんは?』
「うん?」
『美花ちゃんは、ジジイとデートしてくれないんかのぅ?』
「美味しい物食べられる〜?」
『回らない寿司でも、高級フレンチでも、老舗のすき焼き屋でも連れていってあげるぞい』
「やったぁ〜、行く行く〜!」
はしゃいだ声をあげながら、美花は周防にVサインをしてみせる。
周防は財閥会長と砕けた態度でやりとりしている美花に、ただただ唖然としていた。
これで優花ねぇに怒られずにすむかな、と美花が密かに考えていると、深海会長が受話器の向こう側でオホンと咳払いをする。
『但し、じゃ……観客どもを助けてやるのには、条件が一つあるぞい』
「なになに〜? 膝枕のオプションつける〜?」
『イーグルの生存。それが絶対条件じゃ…………膝枕はお小遣いあげるから、別オプションでお願いしたいのぅ』
なるほどねぇ、と美花は人差し指を口元に当てて考える。
深海会長の言っていた「観客の救助より優先すること」とは、イーグルの救助のことのようだ。
どうやら美花が思っていた以上に、彼らにとってイーグルは重要人物らしい。
『イーグルは新生・修羅の旗印じゃてな。アレの代わりが務まる傑物はそうはおらん……失うわけには、いかんのじゃよ』
深海会長の声には、確かにイーグルの身を案じる響きがあった。
美花は唇に不敵な笑みを乗せて、ニヤリと笑う。
そういう笑い方をする美花は、驚くほど姉によく似ていた。
「だいじょーぶだよ、ジュウちゃん。イーグルは、お姉ちゃんが助けに行ったんだもの」
『……ほう?』
「お姉ちゃんが助けるって言ったんなら、絶対大丈夫って昔っから決まってるの! 美花が保証したげる!」
* * *
フリークス・パーティの試合で、イーグルはステッキを手放したことが殆どない。
試合中に相手を素手で殴るのは紳士的ではないから、というのも理由の一つだが、何より大きな理由はコンタクトレンズを落とした時の歩行補助のためだ。彼は眼鏡やコンタクトレンズが無いと、自分の手元すら見えないほど視力が悪い。
その彼が、今はステッキを手放して、やや前屈み気味の構えをとっていた。
それは武道の構えによるものではない。彼の体はもうピンと背筋を伸ばして立つのが困難なほど、薬に蝕まれていた。
「……ぅ、ぐ……」
肉塊のようになった異形のキメラが、巨体に見合わぬ速さで距離を詰め、四本の腕を振り下ろす。
人間の腕、獅子の腕が一本ずつと、熊の腕が二本。
イーグルはその腕を力技で振り払い、へし折り、そして異形の複数ある頭の一つを拳で叩き潰す。中年男性に似たその顔はグチャリと潰れたが、それでも肉塊の動きは止まらなかった。
本来、kf-09nを投与された者は、頭を叩き潰せば活動を停止するはずだ。だが、キメラ達を寄せ集めたその異形は、頭だけで複数個ある。
そのいずれか一つを壊せば動きが止まるのか、或いは全てを壊す必要があるのか……そこまで考えたところで、横から衝撃。異形の五本目の腕がイーグルを殴り飛ばしたのだ。
本調子なら受け止めることなど造作もなかったが、今のイーグルは思うように腕が上がらず、異形に横殴りにされ、地面を転がった。
視界が酷く霞む。コンタクトレンズが外れた訳でもないのに視界に異常をきたしているのは、恐らく海亀に打たれた薬……kf-09nが、脳に何らかの影響を与えているからだ。
イーグルの視力の低さは眼球の異常によるものではなく、脳に問題があるのだと、以前医師から言われている。
(……目が見えなくなるのは、困るな)
やっと優花と再会できたのに。まだ、やりたいことがたくさんあるのに。
kf-09nのワクチンは現在三十本ほど作ることに成功し、ジェラルミンケースに入れて周防に託している。優花に譲ったのはその内の一本だ。
周防はまだこの島にいるだろうか。周防と合流すれば、ワクチンを投与してもらえる。
(……だが)
異形がゴロゴロと転がるように移動してイーグルを壁に押し潰す。カハッと息の塊が口から漏れて、骨がミシミシと軋んだ。
巨体を押し返そうと腕に力をこめると、不自然に腕の血管が浮き上がる。
kf-09nを投与され、異形化が進むことで、イーグルの力は彼本来の力よりも向上していた。しかし、その力を振るおうとすると、瞼の裏がチカチカと白く点滅し、意識が朦朧としてくる。
「……ぁ……が、ぐぁ……」
思考がうまく定まらない。強い破壊衝動と理性がギリギリのところでせめぎあっているが、徐々に破壊衝動が強くなり、理性を跡形もなく塗り潰そうとしている。
「ぁあああああああああっ!!」
イーグルは獣のような咆哮をあげ、腕を振るう。血管が浮かび上がった彼の腕は、異形の腕を軽々とへし折った。
「っぐ、ぅがぁっ!!」
イーグルは右足で異形の胴体を蹴る。異形の身体が傾いたところで、今度は容赦なく拳を叩き込む。
イーグルの拳は肉塊を潰し、抉り、穿ったが、痛みを忘れた異形は負けじとイーグルの首を絞めあげた。
イーグルは己の首を絞める腕をグチャグチャになるまで握り潰す。手の中で潰れた肉は毛皮の感触がする。熊の毛皮の、感触。
(熊は、熊のキメラは……あぁ……誰、だったっけ……)
思考がまとまらず、短い単語だけが頭を過ぎる。
ボロボロになったイーグルに、ハッターが高笑いをした。
「ははははは! いいぞ! いいぞ! もっとやれ! お前達の力を高慢なその男に知らしめるのだ!!」
今のイーグルには、ハッターが言っている言葉の意味が理解できない。
彼はもう、意味のある言葉を発することすらできない。言語能力が低下し始めているのだ。
魚のヒレの生えた手がイーグルの顔を狙う。ヒレは刃物のように鋭く、イーグルの頰に赤い筋を付けた。その手に意識を向けている間に、足元から伸びた白い蛇の尾がイーグルの足に絡みつく。
イーグルの動きが止まると、すかさず熊の腕がイーグルの首を絞めあげた。
(……魚、さかな、何のさかな……あゆ、さけ……ちがう、フナだ……ああ、この鋭いヒレは、フナのそれとは違うけど。でもこれはフナだ。白い蛇は誰だっけ、ぼくが殺したんだ。頭をつぶして……)
熊の腕がイーグルの体を持ち上げ、壁に叩きつけた。
イーグルは後頭部を強かに打ち付け、ずるずると地面に崩れ落ちる。垂れてきた血が目に入り、ますます視界が悪くなった。
意識が朦朧とし、強い破壊衝動が全身を蝕んでいく。
(……キメラ、キメラは殺さないと。だって……あぁ、なんでだっけ? なんで、ボクは、キメラを殺してたんだっけ?)
誰かと何かを約束をした気がするのに思い出せない。
頭の中にいくつもの影が浮かんでは消えていく。忘れていく。
熊のキメラ、犬のキメラ、魚のキメラ、白蛇のキメラ……
(誰のため? なんのため? 分からない、分からないけど、殺さないと、殺して、殺して、殺して、殺して……………………何を?)
kf-09nは、理性も記憶も蝕み、破壊衝動だけを植え付ける。
イーグルをイーグルたらしめる、信念が、約束が、砂の城のように崩れ落ちていく。
そして彼が自我を失う瞬間、最後に思ったことは……
(ゆうかちゃんにあいたい)
そう願うと同時に、彼の意識は闇に沈んでいった。