【17-2】Rabenmutter
彼は幼い頃、母と祖母と三人でベルリン郊外にあるアルトバウ(古い作りのアパート)に住んでいた。
彼の父は日本人で、日本で会社経営をしている。母はそんな父を献身的に支えていたが、父の女遊びが原因で、息子である彼を連れて故郷ドイツの祖母の元に身を寄せていた。
彼が物心ついた時には、父は殆ど家にいなかったから、彼は父親のことを殆ど覚えていない。
彼は母を悲しませている父が嫌いだった。それでも、母は父のことを愛していた。
母は父がいつか心を入れ替えて、自分を迎えに来てくれると信じ、父からの連絡を健気に待ち続けていた。
母はいつか必要になるからと、彼に日本語を教えてくれたけれど、正直、彼は日本に興味なんてこれっぽっちもなかった。なぜ、大嫌いな父の国の言葉なんて覚えなくてはいけないのだろう、といつも密かに憤っていた。
それでも、父の故郷の言葉を使うと母が喜ぶから、彼は母の笑顔が見たくて、一生懸命、日本語の勉強をした。
母は優しくて美しい人だった。彼の淡い金色の髪と水色の瞳は母親譲りのもので、密かに彼の自慢だ。
厳しい祖母と優しい母、この二人がいれば、彼はそれだけで幸せだったし、それ以上の幸せなんて求めたこともなかった。
ある日、日本の父から母に手紙が届いた。
手紙の内容は、息子を後継者に据えたいから、日本に寄越してほしいというもの。
同封されていた航空券は一人分。
……父は、母を日本に呼ばず、息子だけを呼んだのだ。
こんなのふざけている、と思った。わざわざ父の呼び出しに応じてやる必要はない。
それでも、彼は母が封筒を手にした時、とても嬉しそうに微笑んだのを見てしまった。
愛しいものに触れるように大事に封筒を撫でて、丁寧に封を切って……そうして手紙を読んだ母は、少しだけ悲しそうに笑って、手紙の内容を彼に教えてくれた。
「……あの人は、私のことは必要ないみたい」
ポロリと落ちた雫が、便箋を濡らした。
だから、彼は母にすがりついて、こう言った。
「お母様、ボク、日本に行くよ。日本に行って、いっぱい勉強して、お父様の後を継いで……そうして、お母様を日本に呼んでほしいって、お父様を説得する。ボクが立派な後継者になれば、きっと、お父様もお母様を呼ぶことを許してくれるよ」
懸命に彼が言い募ると、母は涙の滲む目元を袖で拭って、儚く笑った。
「私はRabenmutterね……」
ラーベンムッター(カラスの母親)は、子育てを放棄した悪い母親を意味する言葉だ。
だけど、彼はちゃんと知っていた。母が愛情を込めて自分を育ててくれたことを。
だから、彼は母を安心させるように、めいいっぱい笑ってみせた。
「大丈夫だよ、お母様。ボクが行けば、きっとお父様も喜んでくれる。そのために、いっぱいいっぱい日本語を勉強したんだから」
彼は日本に行って、父の期待に応えれば、きっと全ては報われると信じて疑わなかった。
けれど、父は最初から彼に期待なんてしていなかったのだ。
日本に赴いた彼を待っていたのは、父と、そして白衣の女性……
「やぁ、はじめまして、ディートリヒ君。私は月島みのる、グロリアス・スター・カンパニーの研究者さ」
経営する会社が傾き、焦っていた父は、息子を日本に呼び寄せて、グロリアス・スター・カンパニーに売り払ったのだ。
その時になって、ようやく彼は思い知った。
父が自分の想いも、母の想いも、裏切ったことを。
* * *
カヒュッ、という呼吸がクロウの口から漏れた瞬間、全身の骨がミシミシと音を立てて軋んだ。
「……ぁ、がっぁあ、ぁ……っ、ぁあ……」
クロウの体にはモズの蛇の胴体が巻きつき、その動きを拘束していた。クロウの武器の槍は数メートル先の地面を転がっており、最早腕を伸ばしても届かない。
クロウはその鋭い爪をモズの体に突き立て、肉をかきむしった。だが、モズは既に痛みを感じなくなっているのだろう。クロウを締めつける力は緩まない……それどころか、モズ以外の異形がぞろぞろとクロウに群がり始めた。その数は三体。
ヒィ……とクロウが喉を引きつらせた次の瞬間、異形の一体がクロウの爪を食いちぎった。ぶづり、という音がして、クロウの黒く硬い爪が、指から剥がれる。
「ぎゃああああああああああっ!」
痛みに仰け反り叫んでいる間に、二本、三本と、爪が毟られていく。
「あ、ぅあっ、ぁ、ああっ、あああああっ!!」
痛みに泣き叫ぶクロウを見下ろし、モズはニタリとその口を笑みの形に歪める。涎を垂れ流す口からは、意味不明の呟きに混じって、クロウへの怨嗟の声が聞こえた。
異形化した者は本来、知性も理性も失われる筈なのだが、それでもなお、クロウへの憎悪はモズの頭にこびりついていたらしい。
恐ろしいほどの執念に突き動かされたモズの体は、クロウを一息で楽にしたりはせず、じわりじわりといたぶっていく。異形の爪が、クロウの左手の甲を深々と刺した。手の甲を串刺しにされたまま、爪を剥がれるという恐ろしい責め苦に、クロウは泣き叫ぶことしか許されない。
モズの蛇の胴体は、クロウの体を骨が軋むほど締め上げると思えば、少しだけ拘束を緩め、今度は首を絞め上げる。気道が圧迫される苦しみにもがき、意識が遠のきかけたと思いきや、拘束が緩まり、今度は爪を剥がれる。
「ひぃっ……ぃ……ぁ……」
意識を失うことすら許されず、延々と拷問じみた責め苦が続く中、それでもクロウは、死んで楽になりたいとは思わなかった。
(死にたくない)
苦しい思いをしたのは、これが初めてじゃない。
沢山沢山薬を打たれて、体にメスを入れられて、鳥の羽を移植されて、激痛にのたうちまわった日もあった。移植手術の後は後遺症でしばらくまともに眠れなかった。
食事を与えてもらえず、生ゴミを餌として与えられたこともあった。月島が作った研究獣の死骸を食わされたこともある。初めて生ゴミをぶちまけられた時は、屈辱で頭がどうにかなりそうだった。でも、それでも死にたくなかった、生き延びたかった。
その髪の色はカラスにふさわしくないね、と言われて、変な薬を打たれた。いつのまにか、母譲りの金色の髪はカラスのように真っ黒になっていた。
……お前はカラスだと、月島は言った。屍肉を漁りながら、ずる賢く生きるカラスだと。
(死にたくない)
フリークス・パーティには色々な奴がいる。
信念を持って戦う者、単純に戦うのが好きな者、そのどちらでもないクロウは、ただ死にたくないから戦うだけの弱者だった。
なりふり構わず、手段を選ばず、戦って戦って、そうしてクロウは初めてペアバトルで優勝した。
月島は沢山褒めてくれたし、クロウの境遇は劇的に改善されたけれど、クロウは喜びも誇らしさも感じなかった。
だって、自分はか弱い姫を殺して生き延びただけだ。
そうするのが一番確実だったから。リスクが少なかったから。安全だったから。
自分は「騎士」なんて高潔なものじゃない。
(……まして、誰かの「王子様」になんて、なれるはずがない)
だらりと首を垂らした拍子に、金色に染めた髪が揺れて、視界の端に映った。
染料の関係で随分と明るい黄色になってしまったけれど、本当はもっと優しい色合いの、綺麗な金色だったのだ……母と同じように。
──私はRabenmutterね……
幼い頃の母の言葉が、悲しげな顔が、唐突に頭を過ぎった。
あぁ、どうかそんな悲しい顔をしないでほしい。オレはカラスの子でも全然構わなかったんだ。だって、あなたがオレを大事に育ててくれたことをオレは知っている。
母が今の自分を見たら、どんな顔をするだろうか。
バケモノの体にされて、フリークス・パーティで何人も殺めてきた自分の姿を見たら……きっと、悲しむだろう。
もう、あの懐かしいアルトバウには帰れない。
(……それでも)
カラスのクロウを、受け入れてくれた人がいる。
変形した気味の悪い手を握り返してくれる。忌まわしい羽を手触りが良いのだと撫でてくれる。一緒に食事をしてくれる。力になりたいと言ってくれる……一緒に、戦ってくれる。
(だから、オレは……)
今までのクロウは、ただ漠然と「死」が怖くて戦ってきた。
今は違う。クロウは「生きたい」
(……サンドリヨン、と一緒に)
クロウは自身を拘束する蛇の胴体に牙を食い込ませた。クロウの顎の力は、普通の人間よりも遥かに強い。ぬめぬめとした蛇の肉を食いちぎり、残った爪を突き立てて肉を毟れば、拘束する力が僅かに緩んだ。
「っぁああああああああ!!」
クロウはモズの胴体の肉の裂けた部分に爪を突き立て、一気に切り裂いた。完全に真っ二つとまではいかないが、それでも骨に届くほどの攻撃に、クロウはようやく拘束状態から解放される。
地面を転がったクロウは、口の中に溜まった血を吐き捨てて、軋む体でなんとか立ち上がった。
モズは白く濁った目をギョロリと回して、クロウを見下ろしている。
「あ、あぁ、クロ……ころ、ころ、ころすすすす、サンドリヨン、かたきかたきかたき……」
理性を失ってもなお、モズは嘆き続けている。
……彼の姫の死を。
「……お前と、オレと、何が違ったんだろうな」
多分きっと、何も違わなかった。
自分だって、モズと同じ末路を辿る未来は大いにあり得たのだ。
クロウは残った力を振り絞って走り、槍を手に取る。
異形の数はモズを含めて四体。四体とも理性を失っているが、身体能力はクロウよりも圧倒的に高い。
(あいつらは図体がデカイから、狭い通路に誘い込んで、一体ずつ仕留めるのがベター……)
問題は、狭い通路に誘い込むだけの体力が、クロウに残されていないということだ。
決勝戦でイーグルと戦った時点で、クロウは既に疲弊している。その上、モズに肋を折られ、左手の甲と爪を負傷しているのだ。
「それでも、やってやる……オレは、しぶといカラスだからなぁっ!」
クロウは細い通路を目指して走った。一歩進むごとに肋がズキズキと痛む。
その時、前方の曲がり角から別の異形が姿を現した。
「っ、くそがぁっ!」
前方の異形の攻撃をかわし、脳天に槍をねじ込む。だが、その異形は頭を貫かれる直前に、クロウの槍の柄を両手で強く握りしめた。
「しまっ……」
槍が抜けない。クロウは僅かな逡巡の末に槍を手放し、横に飛んだ。そこに追いかけてきた異形が拳を叩き込む。
槍を手放すのが、あと少し遅かったら、背骨をぐしゃぐしゃにされていただろう。
(……頭を、潰さ、ないと……)
「クゥゥゥゥゥゥウロゥゥゥゥゥゥゥ!!」
地を滑るように移動したモズが、鋭い爪をクロウに振り上げる。クロウが知るモズのスピードよりも、遥かに速い。
クロウは床に転がり回避を試みたが、モズの爪はクロウの左肩を深々と切り裂いた。
「……っ、ぐっ……ちく、しょ……」
失血の多さに目が霞む。それでも、クロウはまだ諦めない。
「っらぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!」
クロウはモズの蛇の足の先端を強く踏み砕き、そのまま蛇の胴体を踏み台にして跳躍した。
モズと目が合う。
白濁した目の奥に残るのは強い憎悪。そして、亡き姫への哀悼。
それを全て目に焼き付けて、クロウは右手を振るった。
鋭い鳥の爪がモズの目を抉る。もっと、深く、もっと奥へとクロウは爪を押し込んだ。
眼球を潰すプチュリという感触、ブチブチと繊維を千切り、そして頭蓋の奥にある脳を穿つ。
モズの口から怨嗟の声がピタリと止まり、そしてゆっくりと崩れ落ちた。
「クロウーーーーーーーーーーっ!!」
モズの背後からクロウを呼ぶ声がする。
(あぁ、いつかと逆だな)
あの時は、モズに攫われたサンドリヨンをクロウが助けに行った。
そして、今は……
ウミネコの拳が、グリフォンの蹴りが、異形の頭を叩き割る。
そして、勇ましく異形に突っ込んでいったサンドリヨンが、異形の口に何かをねじ込んだ。
「全員、伏せて!!」
ドォン! と景気の良い音がして、異形の頭は木っ端微塵に吹き飛んだ。
クロウは流石にこれは予想外だぞ、と顔を引きつらせる。
「クロウ? 無事っ!?」
クロウに駆け寄ってきたサンドリヨンは、クロウの左手を見て痛そうに顔をしかめた。彼女はすぐにドレスの裾を裂いて、クロウの怪我を覆うようにきつく縛る。
手当を受けながら、クロウはボソリと呟いた。
「……お前は、傭兵にでもなるつもりか?」
「あ、あの爆弾は一個だけ! スノーホワイトちゃんに貰ったの!」
どういう状況だ、とクロウが顔をしかめていると、異形にきっちりトドメを刺したグリフォンとウミネコがこちらに近づいてきた。
グリフォンもウミネコも、クロウに負けじと満身創痍の酷い有様だ。特にウミネコの方は足を引きずっているから、機動力は期待できない。
「よっ、クロちゃん。男前になったじゃん」
「……お前もな。状況はどうなってる?」
「まぁまぁヤバめ。援軍は来たけど、〈クラークの後継者〉一味は、誰も捕まってないんだよね」
クロウにとって重要なのは、援軍の有無よりも、〈クラークの後継者〉が一人も捕まっていないということだ。それ即ち……
「……月島もか」
「うん」
月島を捕まえて、延命のための薬を手に入れないと、クロウは生き延びることができない。
だが、クロウは薄々察し始めていた。あの性格の悪い女は、きっとクロウを見限った時点で、延命処置に必要な薬の類を処分している。
「クロウ、立てる?」
「……あぁ」
サンドリヨンの肩を借りて立ち上がりながら、クロウは漠然と考える。
薬がないと維持できない自分の体は、ゆっくりと死に向かっているも同然だ。
きっと、そう遠くない未来、自分は地獄に堕ちるのだろう。
(それでも……)
クロウは自分のすぐ真横にあるサンドリヨンの横顔を見つめる。
自分と一緒に戦うと言ってくれた、そして、見捨てず助けに来てくれた、彼の姫。
(……一分でも、一秒でも長く、こいつと一緒にいたいんだ)