【16ー7】永眠を約束する味
決勝戦が行われた、一階ホールへと続く扉を開けた優花は言葉を失った。
広々としたホールはがらんどうで誰もいない。そして、イーグルとクロウが落ちた落とし穴は、元どおりに塞がってしまっている。
その床は美しいタイルが並ぶだけで、もう、どこが落とし穴の継ぎ目だったのかすら分からない。
「そん、な……」
優花は床に膝をついて、落とし穴のあった付近を拳で叩いた。だが、床はピクリとも動かない。
(これじゃあ、クロウとイーグルを追いかけられないじゃない!)
焦る優花の横で、サンヴェリーナがハッと顔を上げ、首を上に向けた。
「……っ!! お兄様ぁっ!!」
サンヴェリーナは優花と一緒に羽織っていたコートの下から飛び出し、二階ホールへと続く階段を駆け上る。
そうして、観客席と二階ホールを隔てるガラス窓に張り付き、悲痛な声で叫んだ。
「お兄様っ! お兄様ぁっ!!」
優花は慌ててサンヴェリーナを追いかけ、階段を駆け上り……そして、見た。
ガラス一枚隔てた観客席では、異形と化した燕は誰かと戦っている……相手は、ウミネコだ。
そこで繰り広げられる生々しい死闘に、優花は言葉を失った。
* * *
燕の口がヒュゥッと鋭い呼吸を吐き出す。鳥の翼が風を切るようなその音と同時に、右手の刀がありとあらゆる障害物を一刀両断にした。
目の前に立ち塞がる全てを切り裂く、凶悪な一撃。
それをウミネコは紙一重でかわして、燕に拳を振るう。だが、燕はウミネコの拳をかわすと、あろうことか左手でウミネコの頭を鷲掴み、そのまま足元に叩きつけた。
激しい破壊音を響かせ、ウミネコの体はソファの残骸に沈む。
ふらふらと立ち上がったウミネコの顔は左半分が血でべっとりと汚れていた。それなのに、口元の好戦的な笑みは消えない。寧ろ血を流すほど、その笑みは深くなる。
ウミネコは興奮を隠しきれない様子で、喉を震わせた。
「は、はは、は、はっ……あははははははははは!!」
口の端から鮮血混じりの唾液を垂れ流して、ウミネコは腹の底から笑う。
あの燕が! 常に研ぎ澄まされた技で敵を斬り伏せてきたこの男が! 力技で自分をねじ伏せるだなんて!
「ははっ! そうこなくっちゃ、なぁ!」
言葉の最後に力を込めて、ウミネコは燕の懐に潜り込む。刀の間合いより内側に入り、燕の機械化された右腕をウミネコは左腕だけで握った。ウミネコの手の中で、メキメキグシャグシャと鉄が軋み、潰れる音がする。
燕もまた、左の腕でウミネコの右腕を握った。バキボキという音は、確実に骨の折れた音だ。
それなのに、ウミネコは痛みも忘れて、右足を振り上げ、燕の腹の横に蹴りを叩き込む。
「よっ、と!」
燕の体は少しぐらついたが、さしてダメージにはなっていない。ウミネコはそこまで脚力が強くはないのだ。
「ははっ、これで、おあいこっ!」
ウミネコはケタケタと笑うが、おあいこなどでないのは、誰の目にも明らかだった。
機械の腕が潰れた燕と、生身の腕が折れたウミネコでは、痛みの度合いが違う。まして、今の燕は薬で全身を強化されているのだ。
それなのに、血塗れのバーサーカーは楽しくて楽しくて仕方がないとばかりに、唇についた血をベロリと舐め、まだ自由に動く左腕の指をパキポキと鳴らす。
「楽しいなぁー、楽しいなぁー……あー……今、すっげぇ生きてるって感じ」
その目は爛々と輝き、唇は凶悪に釣り上がっているのに、呟く声は朴訥な少年のようだった。
「……さぁ、次は何して遊ぼっか?」
* * *
「ウミネコ様っ、お兄様の左耳の後ろですっ! そこに、戦闘機能を全停止するスイッチが!」
サンヴェリーナが強化ガラスを叩きながら叫ぶが、ウミネコは聞こえていないのか、燕との殴り合いに夢中になっている。
優花は夢中で強化ガラスを叩いた。
「これって、声は届いてるのよね!? ウミネコさん! ウミネコさんってば!! あぁ、もうっ、このぉっ!!」
優花はガラス壁にタックルをしたが、肩がジンジンと痛むだけだった。
フリークス同士の戦いを、観客が安全に観戦するために用意されたガラス壁なのだ。フリークスの怪力による攻撃を想定した強度なだけあって、優花のタックルぐらいではビクともしない。
「ウミネコさんってば! こっち見て! 話聞いてっ!」
「ウミネコ様っ、やめてっ、やめてくださいっ……お兄様が……っ、お兄様が死んじゃう……っ!」
サンヴェリーナが悲痛な声で懇願しても、完全に暴走状態のウミネコには何一つ届かない。
左腕一本で殴り合いをしていたウミネコと燕は、やがて取っ組み合いになり、ゴロゴロと上下を入れ替わりながら、滅茶苦茶に殴り合う。
理性を失った燕が、ウミネコの首筋を食いちぎる。ウミネコが燕の目の赤外線センサーを握り潰す。
それは、とても人間同士の争いには見えない、獣同士の命の奪い合いだった。
「やめて……お兄様…………お兄様ぁ……」
泣き崩れるサンヴェリーナの背後で、ぐるぐると獣の呻き声がした。優花はハッと背後を振り返る。
そこには、涎を垂らす異形の姿があった。どうやら、玄関ホールからこちらに入ってきたらしい。皮膚に鱗が生えているから、元は爬虫類のキメラといったところか。
異形は優花ではなく、サンヴェリーナだけを真っ直ぐに見ていた。
優花はカーレンから借りたコートを羽織っているが、サンヴェリーナはコートの外に出てしまっている。
「サンヴェリーナちゃんっ、こっち!」
優花はサンヴェリーナの手を掴み、コートの中に引きずり込んだ。そうして二人でコートを被ってじっと様子を伺う。
異形は、最初の内は困惑したように動きを止めて、鼻をひくつかせながら優花とサンヴェリーナを見ていた……が、やがて、ゆっくりとゆっくりとこちらに近づいてくる。その太い腕を伸ばしながら。
(……このままだと、二人とも狙われるっ)
考えるより早く、優花の体は動いた。優花はサンヴェリーナの頭に深々とコートをかぶせ、自身はコートの外に飛び出す。
「こっちよ!」
案の定、異形は優花の方に狙いを定め、腕を振り下ろした。
優花は頭を低くし、スライディングの要領で異形の横をすり抜ける。裸足の足が擦れて痛いが、泣き言など言っていられない。
(私の方に注意を向けて……サンヴェリーナちゃんから引き離さないとっ)
異形が再び腕を伸ばしてきた。優花は横に飛んでゴロゴロと絨毯の上を転がり、再び体勢を立て直そうとした。だが、優花に伸ばされた異形の腕は、まるで関節が外れたように、ずるりと十数センチほど伸びる。その腕が、本来届かない位置にあった優花のドレスの裾を掴んだ。
「きゃ、あっ……!」
ドレスの裾が大きく捲れあがり、優花は床に引きずり倒された。そのまま異形がスカートを引っ張れば、優花はずるずると異形の方に引き寄せられる。
掴まれたドレスをナイフで裂こうと思ったが、引きずられた拍子に鞄からナイフが落ちて、床をころがった。
優花は必死でナイフに手を伸ばしたが、あと少しというところで異形にドレスを手繰り寄せられ、ナイフから指が遠ざかる。
(だったら……)
優花は引きずられつつ、鞄からヘアスプレーとライターを取り出した。
異形が大きく口を開いて優花の喉笛に食らいつこうとしたその瞬間、優花はライターの火をつけ、ヘアスプレーを噴射する。
ボゥッと大きく膨れ上がった火は、異形の頭全体を包みこんだ。優花に食らいつこうと大きく開かれていた口腔もまた、火で炙られて爛れていく。
……だが、痛みを感じることを忘れた異形にとって、肌の表面を焼く程度の火など脅威では無いらしい。
異形は、まるで抱擁でもするかのように優花を両腕で抱きしめた。強い力で圧迫され、優花の背骨が軋み、内臓が悲鳴をあげる。
「……っ、ぁ、がぁああああああっ……」
優花は必死で身を捩ってもがいたが、異形の腕はびくともしない。
異形の腕に力が篭る。優花の悲鳴が次第に小さくなり、瞳から光が失われていく。
* * *
コートを被って震えていたサンヴェリーナは、サンドリヨンを助けるべく動き出そうとし、その場に転倒した。足が震えて、上手く歩けない。
(サンドリヨンさんを、たす、助けないとっ)
わがままを言ってついてきたのは自分なのに、カーレンもサンドリヨンも、サンヴェリーナを庇ってくれた……何もできない、一番無力なサンヴェリーナを。
サンヴェリーナは震える手で絨毯を搔きむしり、立ち上がる。
ただそれだけのことなのに、全身から汗が吹き出し、視界がグラグラと揺れた。怖い。
(でも、でも……何か、しないと……助け、ないと……っ)
視界の端にチラついたのは、床に落ちたナイフだ。おそらく、サンドリヨンの鞄から転がり落ちたのだろう。
サンヴェリーナはふらつく足を懸命に動かしてナイフを拾い上げる。
フリークス・パーティ歴の長い彼女は、しかし、一度も武器の類を手にしたことがない。いつだって、燕が守ってくれたから。
(今度は、わたしが……)
サンヴェリーナはぎこちなくナイフを握り、異形に駆け寄る。そして、サンドリヨンを束縛する腕に思い切りナイフを振り下ろした。
「やぁーーーーっ!」
ナイフは爬虫類の鱗の表面をつるりと滑っただけだった。サンヴェリーナは両手でしっかりを柄を握り直し、何度も何度もナイフを振り下ろす。その度に、石を削ったような感触がして、手首が痛んだ。
「サンドリヨンさんをっ、離してっ! 離してっ!!」
今までコートを被っていたから、サンヴェリーナを敵と認識していなかった異形が、目玉をぐるりと動かしてサンヴェリーナを見た。
その口から、フシュゥと威嚇するような吐息が漏れる。
拘束され、喘いでいたサンドリヨンが、途切れ途切れに言った。
「サン、ヴェ……リ……ちゃ…………逃げ……」
「嫌ですっ! 絶対に嫌ぁっ!」
何をやってもダメな娘と嘲笑われた。人並みのことすらできない、男に媚びを売るだけの娘だと後ろ指をさされた。いつだって、誰からも必要とされない、無力な人間だった。
サンドリヨンは、そんな無力なサンヴェリーナに手を差し伸べてくれた。
燕は、嘘を重ねた弱くて狡いサンヴェリーナを許してくれた。
燕とサンドリヨンは、サンヴェリーナの救いだ。
サンヴェリーナは、この二人を失うことが何より恐ろしい。
(……また、自分のため)
自分を助けてくれる人達を失うのが怖いから、だから、サンヴェリーナはここまで来た。
(……それの、何がいけないの)
サンヴェリーナが今、ここにいるのは、誰かのためじゃない。
自分を愛してくれる人を失いたくないという、サンヴェリーナのエゴだ。
(……だって、わたしは愛されたい! わたしを愛してくれる人を失いたくない!!)
燕が死んでしまったら、サンドリヨンが死んでしまったら、誰が自分を愛してくれるというのだろう……こんな、弱くて狡い自分を。
誰よりも自己中心的な願いのために、サンヴェリーナは髪を振り乱してナイフを振るう。
「離してっ! 離しなさいっ! サンドリヨンさんに…………わたしの、友達に触るなぁっ!!」
異形はグッタリとしているサンドリヨンをポイと床に投げ捨てて、サンヴェリーナを見下ろす。
サンドリヨンはぐったりとして動かなかった。どうやら、昏倒しているらしい。
異形はサンドリヨンを弄ぶより、チクチクと腕を刺してくるサンヴェリーナを先に仕留めようと思ったのだろう。
異形はその太く長い腕をサンヴェリーナに振り下ろした。横殴りの強い衝撃に、サンヴェリーナの手からナイフが吹き飛び、華奢な体はゴロゴロと床を転がる。
「あうっ! ……うっ、うぅぅ……」
左の肩と頰がズキズキと痛んで、目がチカチカとした。痛い。この痛みをサンヴェリーナはもう随分と忘れていた。今までは、ずっと燕が守ってくれていたから。
異形はまるで石ころでも蹴るみたいに無造作に、サンヴェリーナを足蹴にした。たったそれだけのことで、サンヴェリーナの体は冗談みたいに軽々と吹き飛び、壁に叩きつけられる。
口の中を切ったのか、血の味がした。痛みと恐怖にボロボロと涙が溢れ出す。
あぁ、なんてみっともない。もっと恐ろしい目にあったサンドリヨンは、一度だって泣いたりしなかったのに。
「……えぅっ……ぅぅっ……ぅー……」
誰かのため、という綺麗な理由で戦えない自分が恥ずかしい。
何もできないまま、いたぶられるだけの無力な自分が恨めしい。
サンヴェリーナに近づいた異形は、ゆっくりとその足を持ち上げる。サンヴェリーナの頭を踏み潰すために。
……あぁ、とサンヴェリーナは短く吐息を零す。
死ぬ前に、もっと、もっと、愛されたかった。
溢れるぐらいの愛情に満たされてみたかった。
……愛されるような人間に、なりたかった。
死の直前まで、欲望に忠実な自分にサンヴェリーナは力なく苦笑する。
「血のように赤い、林檎はいかが?」
異形の背後からするりと伸びた白い繊手が、異形の口に赤い何かをそっと押し込む。
異形がそれを噛み砕いた瞬間……その頭が内側から破裂した。
飛び散る異形の血と肉片を浴びながら、サンヴェリーナは異形の背後に佇む人物を見上げ、目を見開く。
「…………あな、たは……」
そこに佇むのは、黒檀のような黒髪と雪白の肌の姫。
その手の籠に詰めこまれているのは、真っ赤な林檎。
彼女はその一つをつまみあげ、血のように赤い唇で口付ける。
「仮初めの死なんて生温い。永遠の眠りを約束してくれる味でしょう?」
そう言って、フリークス・パーティ最凶の姫、スノーホワイトは、とびきり美しく微笑んだ。