【16ー6】ヘイヤ、プロテインの必要性を説く
医務室のテレビ画面では、決勝戦の後に起こったことが、そのまま全て映し出されていた。
一階ホールから地下に落とされたクロウとイーグル。観客室に雪崩れ込んできた異形。
その様子を眺めながら、ヘイヤは紙コップのコーヒーを一口啜る。
「はぁ……ビル坊やもハッターも、アタシ一人に仕事を押しつけてサボりだなんて、良い度胸じゃないの」
ヘイヤは左手首の腕時計にちらりと視線を落とし、物憂げに溜息を吐く。
そうしてしばらく一人でコーヒーを飲んでいると、医務室の扉を激しく叩く音が響いた。どうやら、ホールに溢れていた異形の一体が、こちらに迷い込んできたらしい。
ヘイヤは舌打ちをして、白衣のポケットに手を突っ込む。
やがて、扉は破壊され、一体の異形が中に入ってきた。元は大型獣のキメラだったのだろう。太い手足は毛で覆われ、鋭い爪がはえている。
異形特有の甘ったるいにおいとは別の、鼻をつくような腐敗臭がした。おそらく、肉体はもう死んでいるのだ。それを薬の力で無理やり動かされている。
異形はヘイヤに狙いを定めると、ぐるぐると喉を鳴らして、肥大化した腕を振り上げた。その異様に膨れ上がった筋肉に、ヘイヤは顔をしかめる。
「薬でお手軽に筋肉増強だなんて……筋肉への愛が足りないんじゃなぁい?」
ヘイヤは白衣のポケットから、口紅でも取り出すような手つきで一丁の拳銃を取り出す。
理性を奪われた獣は、黒光りするその鉄の塊が、自身の命を脅やかす物だということを理解していない。
ヘイヤは照準を合わせると、無言で引き金を引いた。銃声は三発。放たれた銃弾は全て、異形の頭を撃ち抜く。
脳を破壊された異形はその巨体を大きく痙攣させていたが、やがて仰向きに引っ繰り返り動かなくなった。
ヘイヤは硝煙の匂い漂う銃口にふぅっと息を吹きかけ、冷たく笑う。
「薬漬けのマッスルで、アタシを抱けると思わないことね。プロテイン飲んで、出直してらっしゃい」
* * *
カーレンを先頭に細い通路を歩いていると、玄関ホールの方から怒声や悲鳴、断末魔の声が嫌でも聞こえてくる。優花の隣を歩くサンヴェリーナが、優花の腕をギュッと掴んだ。
「止まれ」
カーレンが小声で指示を出すのと同時に、誰かが通路に飛び込んできた。
「た、助けてくれ……っ!」
それはおそらく観戦客の一人なのだろう。立派なスーツを着た富豪らしき中年男性は、先頭にいるカーレンの元へ駆け寄ろうとした。
だが、その背後に大きな影が現れ、太い腕を富豪の背中に叩き込む。
「ほぐふぅっ!?」
背中を殴られた富豪は空気の塊を吐き出すような声をあげながら、真っ直ぐにこちらへ飛んできた。
カーレンは咄嗟に優花とサンヴェリーナの腕を掴んで、廊下の端に寄る。結果、避け損ねたイスカは、弾丸のように飛んできた中年オヤジと熱烈な抱擁をすることになった。
「ふぎゃっ!? ぐぇぇぇっ……絵面が地獄っ……抱きとめるなら、女の子が……良かっ、た……」
イスカの悲痛な声を無視して、カーレンが動いた。
カーレンは通路に侵入してきた異形の頭に回し蹴りを叩き込み、玄関ホールへ転がす。
玄関ホールは、惨状の一言に尽きた。
観戦客達で溢れかえり、そしてそんな観戦客を、異形のバケモノが襲っている。床には既にいくつもの犠牲者が転がっていた。
「開けてくれっ!! ここから出してくれっ!!」
「運営は何をやってるんだっ!!」
「いやぁぁぁぁぁっ!! 死にたくない死にたくないっ!!」
人々は悲鳴をあげて扉に群がっているが、扉はまるでビクともしない。そうして扉に群がる人々を、異形は無造作に手足を振るって叩き潰していく。
異形の数は全部で八体。そして、それらにたった一人で立ち向かっているのが、グリフォンだ。
既に二体は無力化したらしく、頭を潰された異形の体が二つほど床に転がっている……が、残り八体全てをまともに相手にできるはずがない。
グリフォンは見るからに満身創痍という有様で、顔の左半分は血に汚れ、左腕はぶらりと力なく垂れ下がっていた。
それでもグリフォンは、異形達を自分の方に誘導しようと声を張り上げる。
「おらぁっ! こっち来いや、バケモノどもがぁっ!」
異形の一体が腕を振るう。グリフォンはそれをギリギリでかわし、右の拳を異形の頭部に叩き込んだ。
異形の体が傾いた……かと思いきや、異形の手がグリフォンの体を鷲掴む。グリフォンの体がミシミシと嫌な音を立てて軋む。
「グリフォンさんっ……」
優花が思わず飛び出そうとすると、それをカーレンが片手で止めた。
止めないで、と叫ぼうとする優花の唇に、カーレンはぴとりと人差し指を当てる。鋭い目が間近で優花を射抜いた。
優花が口をつぐむと、カーレンはイスカをちらりと見て言う。
「イスカ、パウダールームに戻って、この惨状を他の連中に伝えろ。助けに来るか来ないかは、各自の判断に任せる」
「お前はどーすんのよ」
カーレンはイスカの言葉を無視し、優花に視線を戻した。
優花の唇を塞いでいた人差し指が離れ、優花の額をトンと突く。
「お前にはやるべきことがあるんだろう……道は切り開いてやる。走れ」
カーレンは立ち上がると、赤いブーツのつま先で軽く床を蹴った。
「行くぞ」
次の瞬間、カーレンは最初からトップスピードで駆け出した。
彼女は一直線にグリフォンを掴んでいた異形に駆け寄り、その頭に蹴りを叩き込む。その勢いたるや、異形の頭蓋骨が凹み、首がぐるりと半回転するほどだ。
異形の手がグリフォンを解放し、床に落とす。それを見届けて、カーレンは強く、強く、床を蹴る。
「……ぁあああああああっ!!」
裂帛の気合とともに放たれた回し蹴りは、異形の体を吹き飛ばした。ちょうど、一階ホールの扉に向かって、真っ直ぐに。
「走れっ!」
カーレンが怒鳴る。優花はサンヴェリーナの手を掴むと、コートを頭からかぶって、真っ直ぐに扉に向かって走った。
玄関ホールは異形だけでなく、逃げ惑う観戦客で溢れかえっていたが、カーレンが蹴飛ばした異形のおかげで、逃げ惑う人の群れは海を割ったかのように二つに割れていた。
そこを優花とサンヴェリーナは走る。借りたコートのおかげか、異形は優花達には見向きもしない。寧ろ、カーレンを新たな脅威と見なしたのか、次々とカーレンの元へ群がり始める。
(……ありがとう、カーレン)
優花は一階ホールへ続く扉を開け、サンヴェリーナと共に中に滑り込んだ。
* * *
一人廊下に取り残されたイスカは、前髪をかきあげて溜息を吐く。
「あーあ、やんなっちゃうなぁ、まったくさぁー……」
カーレンはイスカに、パウダールームに戻れと言った。戻って、この状況をピーコック達に伝えろと。
それは正しい選択だ。イスカは戦闘能力がそれほど高くないから、この状況では伝達係に徹するのが一番理に適っている。なにより、今からパウダールームに戻れば、増援が見込める。
……だが。
「オレがお前の言うことに、従うわけないだろ、ぶぁーーーーか」
イスカはべぇっと舌を出し、足元で震えている中年男性の肩を叩く。
バケモノに背中を殴られ、イスカと熱い抱擁を交わした中年男性は「背中が痛い」とヒィヒィ泣きながら、カタカタ震えていた。
「ねぇ、おじさん。ちょっとこの先にパウダールームがあるからさ、そこまでひとっ走りして、この状況を伝えてくんない?」
「な、なんで私が、そんなこと……っ」
「その方が、ここにいるより安全だって。強いやついっぱいいるし、きっと守ってくれるよん」
イスカが軽い口調でそう言えば、中年男性は希望を見出したような顔で、中年太りの体をボテボテと揺らし、パウダールームの方へ走り出す。
これでよし、と呟き、イスカは戦場へ走り出す。
手始めにカーレンに後ろから飛びかかろうとしていた異形にタックルをすると、イスカに気づいたカーレンが眉を釣り上げて怒鳴った。
「なんでここにいやがる、クソイスカっ!!」
「オレがお前の命令なんて、きくわけないだろ、ばーかばーか!」
「役立たず!」
「あれあれ〜? その役立たずに助けられたのは、どこの誰ですか〜?」
「お前がいなくても避けられた!」
言い争いをしている間も、異形は次から次へと群がってゆく。だが、不思議と口論を繰り返す度に、カーレンの動きはキレを増していった。
イスカはニヤリと笑うと、ここぞとばかりにカーレンにとっての「禁句」を口にする。
とびっきり嫌味ったらしく、恩着せがましく。
「お前は昔から、オレがいないとダメだからなぁ〜。あーあー、世話の焼けるカーレンちゃんでちゅね〜」
ぶづり、という音が聞こえた。
最初はカーレンの堪忍袋の緒が切れた音かと思ったが、違う。目の前の異形の首がカーレンの蹴りでネジ切れた音だ。
流石に頰を引きつらせて固まるイスカに、カーレンはギラギラと底光りする眼差しを向けて一言。
「……今のが、お前の末路と思え」
「は、はははは……ヤレルモンナラ、ヤッテミナー」
あ、やべっ、ちょっと足がガクガクしてきた……という本音を隠し、イスカは異形達の撹乱に集中する。
ブチ切れスイッチが入ったカーレンは、それはもう、滅法強いのだ。
(……オレの命が保証されないのが、最大の難点なんだけどねぇぇぇ!!)