【16-1】イスカ、絶叫する
時刻は決勝戦開始の少し前に遡る。
イスカは、やけにピリピリした様子のカーレンを横目に眺めながら、軽食をつまんでいた。選手用観戦室にはソファが複数用意されているので、イスカはその一つに優雅に腰かけ、カナッペを口に運ぶ。
「なぁ、お前も何か食べたらぁ?」
ソファの近くにじっと立っているカーレンは、イスカが話しかけても返事はおろか視線の一つも寄越さない。
カーレンは集中力の偏りが酷く、作曲に集中してしまうと、他の音が一切耳に入らなくなってしまうという悪癖があった。
だが、今のカーレンの様子は、作曲中の集中状態とは違う。これは、何かを警戒している時のそれだ。下手に近づくと回し蹴りを食らいそうな気がしたので、イスカはそれ以上ちょっかいを出すのをやめた。
その時、扉が開いて、タキシード姿のスタッフがカートで何かを運び込んできた。カートに乗せられているのは大きな樽だ。どうやら中身はワインらしく、樽の下の方には蛇口がついている。
「まもなく試合開始ですが、その前にワインは如何でしょうか?」
スタッフが声をかければ、何人かの観戦者が樽の前に群がる。
イスカはカーレンをちらりと見て、声をかけた。
「ワインだってさ。お前、飲む?」
「いらない」
「あっそ。そんじゃ、オレはもらってこよーっと」
イスカはソファから立ち上がり、ワイン樽の前にできた列に並んだ。イスカの前にはもう数人が並んでいて、ワインを注いだグラスを受け取っては、口に含んでその味わいを楽しんでいる。
やがて、イスカの番が来た時、背後でカーレンが叫んだ。
「イスカ!」
「なに? やっぱお前も欲しくなっちゃった?」
イスカは意地悪く笑って、スタッフから受け取ったグラスを口元に近づける。カーレンの目の前で、これ見よがしに飲んでみせようと思ったのだ。
だが、イスカがワインを口にするより早く、イスカの手の中のワイングラスが宙を舞う。
イスカに駆け寄ったカーレンが、イスカの手の中のワイングラスを蹴ったのだ。ワイングラスは空中で木っ端微塵になり、赤いワインは絨毯の上にビチャビチャと散る。
流石にこれにはイスカも怒鳴った。
「お前なっ!? 危ないだろ! 急に何すんだよ!」
「全員、ワインを捨てろ!」
「お前ね、悪ふざけにも程が……」
周囲の者はカーレンのことを、無作法者を見るような目で見ている。よりにもよって、この場にいるのは戦闘能力に特化したフリークスの騎士達なのだ。そんな連中に刺すような目で見られ、イスカは愛想笑いを貼り付けながら、周囲にへこへこと頭を下げた。
「いやー、すみませんねー。こいつってば、ちょっと酔ってるみたいで。いやほんと酒癖が悪くて困っちゃ……」
イスカが必死に場の空気を和ませようとしているのに、カーレンはもうイスカのことを見ていなかった。
カーレンは軽く床を蹴って飛び上がると、後ろ回し蹴りでワイン樽を蹴りぬく。ワイン樽が砕け、溢れ出したワインがカーレンのモッズコートをグショグショに濡らした。
「お、おおおおお前なぁぁぁぁっ!? やっていいことと悪いことが……っ」
「……ねぇ、ちょっと良いかい?」
静かな声で割って入ったのは、長い金髪に整った顔立ちの青年だった。周囲の何人かが「ピーコックだ……」とヒソヒソ囁き合う。
ピーコックと呼ばれた青年は、手にワイングラスを持っていた。だが、口はつけていないらしく、中身は並々と残っている。
彼はワイングラスを自身の顔の前で軽く回し、中のワインを揺らした。
「ボク、ワインにはうるさくてね、飲む前に必ず香りを楽しむようにしているのだけど……このワイン、痛んでなぁい? 腐った果物みたいな、甘ったるいにおいがするよ」
「……え?」
イスカはカーレンのコートに染みついたワインのにおいをクンクンと嗅いだ。言われてみれば確かに、ワインのにおいに混ざって、何か甘ったるいにおいがするような気がする。
なるほど、鼻の良いカーレンは、ワインが痛んでいることに気づいて、みんなを止めようとしたわけか。とイスカは納得した。
だが、それにしたって、他にやりようがあったのではないだろうか。
イスカがカーレンを嗜めようとすると、カーレンはズカズカと大股でワインを配っていたスタッフに詰め寄る。
「このワインを用意したのは、誰だ?」
「ふ、笛吹さんから、差し入れで持っていくようにと……」
スタッフがしどろもどろに答えたその時……ガチャンと何かを施錠する音が入り口の方で聞こえた。振り向けば、解放されていた観戦室の扉が、いつのまにか閉まっている。
扉の近くにいた何人かが扉のノブに手をかけたが、ガチャガチャと音を立てるだけで、扉は開かない。
「閉じ込められた!!」
扉に手をかけていた者が叫べば、ワインを配っていたスタッフが真っ青になって首を横に振る。
「わ、私は何も知らないんです。ただ、ワインを配るようにと……」
観戦室に静かに動揺のざわめきが広がっていく。
だが、騒ぎはこれだけでは終わらない。ワイン樽のそばにいた数人が、突然呻き声をあげて、その場にうずくまりだしたのだ。
イスカは慌てて、デキャンタの水を手に取った。
「もしかして、腐ったワインでお腹壊した? 水飲む?」
イスカが近くにいた男に、グラスに注いだ水を差し出すと、男は痙攣する手を伸ばし……グラスではなく、イスカの首を掴んだ。
「…………へっ? ……ぎゃぁっ!?」
次の瞬間、イスカは男の手で床に叩きつけられた。後頭部を強かに打ち付けられたイスカの目の前を、星がチカチカと舞う。
イスカを叩きつけた男は、獣のような唸り声をあげながら、また別の者に襲いかかろうとしていた。
「なになに、何が起こってんの!?」
イスカが打ち付けた頭を押さえながら立ち上がった時には、ワインを飲んだ者達は次々と暴れ出していた。イスカはわたわたと四つん這いになりながら、机の下に避難する。
この観戦室にいる者は、全員、フリークス・パーティの選手だ。誰もが高い戦闘能力を有している。賭けても良いが、一番弱い騎士がイスカだろう。
そんな強者が揃っているのだから、悪酔いした選手を取り押さえるのなんて、造作もないはず……とイスカは思っていた。
だが、ワインを飲んで暴れている者の様子がおかしい。ギョロリと見開かれた目は焦点が合っておらず、咆哮をあげる口からはダラダラと涎が垂れている。
「がっぁあああああああああああああああ!!」
ワインを飲んだ男の一人が、雄叫びをあげて腕を振り回す。その腕はボコボコと異様に膨れ上がり、近くにいた他の選手を軽々と薙ぎ倒した。
(なにあれ、こっわっ!? えっ、えっ、なんなの!? あのワイン、もしかして、滅茶苦茶ヤバイモンが入ってたんじゃ……)
観戦室には三十人強の騎士がいる。暴れているのは、その内の五人。数だけ見れば、取り押さえるのは容易な筈なのだが、暴れている騎士の強さが尋常じゃない。
(あっ、暴れてる奴の一人、見覚えがある! 二回戦でカーレンに蹴り倒されたやつじゃん!)
カモメというその大男は、石を握りつぶして粉々にするような怪力の持ち主だった。まぁ、その攻撃は一発もカーレンに当たらぬまま、赤い靴に後頭部を蹴り飛ばされて倒されたのだけど。
そのカモメが、今は巨躯に似合わぬ俊敏な動きで、他の騎士達を圧倒している。
(あいつ、あんな俊敏に動けたっけ?)
カモメを気絶させようとした騎士の一人が、カモメの鳩尾に拳を叩き込む……が、カモメはピクリともせず、肥大化した右手を振るった。果敢に挑んだ騎士は、まるでコマのようにクルクルと回りながら吹き飛んで壁に叩きつけられる。
「ひぇぇ……やばっ、えぇっ、ヤバイじゃん……っ」
思わず声を漏らすと、カモメの太い首がゆっくりと回ってイスカを見た。
「……あ、ど、どーも?」
ヘラッと笑ってみせると、カモメは雄叫びをあげながらイスカが潜り込んでいる机に拳を叩きつけた。イスカはゴキブリの如き素早さで、間一髪、机の下から這い出て逃げ出す……が、カモメは獲物に狙いを定めた野生動物のように、しつこくイスカを追いかけてきた。
「ぎゃーーーーーーーっ、やだやだやだーーーーーー!!」
恥も外聞もかなぐり捨てて逃げ回っていると、背後で声がした。
「しゃがめ」
イスカはその声にしたがって、その場にしゃがみこむ。その頭を踏み台にして、カーレンが跳んだ。
ふぎゃっ、と悲鳴をあげるイスカになど目もくれず、カーレンは天井すれすれまで跳び、カモメの脳天に踵落としを叩き込む。
頭部への攻撃はそれなりに効いたのか、カモメの動きが鈍くなった……が、まだ倒れない。
「ぁおぉぉぉおぉおおおおおおおんんんんん!!」
カモメは叫びながら真正面にいるイスカに拳を振り下ろす。それをイスカはゴロンゴロンと床を転げ回って、なんとかかわした。
「だからなんでオレなんだよぉぉぉぉぉ!? 踵落とししたのは、こいつ! こいつです!」
イスカはギャーギャーと喚きながら逃げ回る。この場で最も最弱なのが彼なら、最も逃げ足が早いのもまた、彼であった。
その隙をついてカーレンが蹴りを叩き込むが、カモメはなかなか倒れない。
というか、何故、カーレンを狙わない。攻撃してるの全部カーレンなのに!
「カーレンンンンン、なんでお前狙われないのっ!? あと、お前オレの頭踏み台にしたろ!? あとで絶対泣かす、クソアマっ……」
イスカが泣きわめくと、カーレンは一度攻撃を止めて、カモメの動きを観察しだした。
「……右膝の関節を壊した。のに、動いている」
「はぁっ!?」
「……力が強くなっている。俊敏さも……だが、攻撃に知性はない……痛みを感じていないのか? 頭部への攻撃なら有効? ……攻撃対象はランダム? だが、何故……」
「考察モード入るのやめて!? オレのこと助けてっ!?」
ブツブツと呟いていたカーレンに泣きつけば、カーレンは考察を止めて、無表情にイスカを見る。
「お前、囮」
「死ねクソブスっ!!」
叫びながらイスカは心に誓った。
なにがどうして、こんなB級パニックホラーみたいな展開になったかは知らないが、絶対に生き延びてやる。生き延びて、カーレンが死ぬほど嫌がりそうなフリフリの服を押し付けて、無理やりラブリーキュートな甘々メイクしてやる!
丁度この時、室内前方に設置されたスクリーンに、決勝戦の様子が映しだされていたのだが、それを観ている余裕のある者は誰もいなかった。
* * *
選手専用観戦室に鍵をかけた犯人……笛吹は、見るからにウキウキとした様子で、扉の向こう側の悲鳴に耳を傾けた。
「思ったより悲鳴が小さいなぁ。ワインを飲んだ奴が、思ったより少なかったのかな? まぁ、いいや。〈兵士〉はまだまだいっぱい用意してあるんだし」
笛吹はクスクスと楽しそうに笑いながら、軽やかな足取りでロビーへ向かった。
決勝戦がもう始まっているので、客は皆、観戦席に着席している。さっきまで大勢の人で賑わっていたロビーはがらんどうで、今は警備のグリフォンが一人、巡回しているだけだった。
「やぁ、グリフォン。警備ご苦労様。現場に戻れて良かったねぇ」
「……笛吹、お前は選手の接待係だろうがよ。こんなところで、なにしてやがる」
運営委員会における笛吹の主な仕事は、選手の勧誘と管理。
今日は、観戦室で観戦している選手達の接待が仕事だ。確かに、ロビーにいるのは不自然だろう。
笛吹はあらかじめ用意しておいた言い訳を口にする。
「実は、ワインを差し入れしたんだけど、あっという間に樽が空になっちゃってさ。追加のお酒は別館の厨房にあるから、今から取りに行きたいんだけど」
「あぁ、なんだ。そういうことか」
グリフォンはあっさり納得して引き下がる。単細胞を騙すのは楽でいい。
笛吹はグリフォンの横をあっさりすり抜けて、装飾の施された両開きの扉を開ける。受付中は開放されていた扉も、試合中は念のためにと閉ざされていた。
笛吹は外に出ると、庭に隠しておいたチェーンと南京錠を取り出し、両開きの扉のノブにチェーンを巻きつけ、南京錠で固定する。
これで、内側から扉を開けることは不可能だ。仮に外から誰かが駆けつけたとしても、南京錠の鍵は笛吹が持っているから、開けることはできない。
笛吹は閉ざされた扉に向かって優雅に一礼をし、嘲笑を浮かべた。
「さぁ、最後までお楽しみあれ。欲にまみれたバケモノどもの血の宴を」