【15ー5】奈落
クロウが槍の穂先をイーグルの喉からずらしても、イーグルは仰向けに倒れたまま、シャンデリアを見上げていた。
審判の声が、周囲の歓声が、やけに遠く聞こえる。
のろのろと手を持ち上げて額に手を当てれば、瘤にはなっていないが、ずくずくと熱を持って疼くように痛んだ。
頭突きが優花の得意技なのは覚えていたのに、それが自分に向けられる日が来るなんて、思いもしなかった。
(……あぁ、僕は…………負けたのか)
キメラであるクロウを優勝させれば、キメラは強いのだと誤解する連中が出てくる。そうなれば、キメラ研究者達を増長させかねない。
(……だから、僕は勝たなくてはいけなかったのに)
ふと、ペタペタと素足の足音が聞こえた。
ゆっくりと首を動かせば、自分のすぐそばに裸足の足が……優花が立っているのが見える。
優花は唇をギュッとへの字に曲げて、眉根を寄せて、怒っているような顔でイーグルを見下ろしていた。
「私の勝ちね」
「……うん、そうだね」
「これで分かったでしょ。あんたなんて、これっぽっちも強くない。強くなんか、ないんだから……」
優花はイーグルのそばに膝をついた。水色がかった白いドレスがふわりと床に広がり、そこに小さな涙の雫がぽとり、ぽとりと落ちる。
「『強者の義務』だなんて言って、一人で抱え込まないでよ」
あぁ、やっぱり変わってないな。とイーグルは静かに思う。
彼の好きな女の子は、いつだって不器用で、真っ直ぐで、直球の力技でしか解決できなくて……
「助けて、って言いなさいよ……ばかぁ」
……そして、いつだって彼に手を差し伸べてくれる。
イーグルはゆっくり上半身を起こすと、優花に手を伸ばそうとし、引っ込めた。
優花の背後ではクロウが無言でイーグルを睨んでいる。
サンドリヨンの騎士は、クロウなのだ。敗者であるイーグルは彼女の手を取ることなど許されない。
「悔しいな……もう、君の手を取ることも叶わないなんて」
引っ込めた手を軽く握りしめると、優花はサッと手を伸ばしてイーグルの手を掴んだ。
「手ぐらい、いくらでも貸すわよ……友達なんだから」
優花は唇を尖らせながら、イーグルの手を引いて立たせた。
そんなことを言われては、もう苦笑するしかない。
「……友達かぁ」
「そうよ。一番の友達」
優花の後ろに立つクロウの眉が、ピクピクと動いた。
イーグルはそれを横目で眺めつつ、優花にニコリと笑いかける。
「……うん、僕も優花ちゃんが一番好きだよ」
クロウが眉だけでなく顔中を引きつらせて「おいっ!」と割って入った。
しかし、クロウが何かを言うより早く、階段を駆け下りてきた美花が声を上げる。
「お疲れさまぁ〜。イーグル負けちゃったね〜。てゆーか、啖呵切ってるお姉ちゃん、パパみたいだったね。超ウケる〜」
「は、はぁっ!? ちょっと、やめてよっ、私のどこがあいつと……」
「『使えるモンは、なんでも使うのが喧嘩の流儀じゃー』とか『不意打ちで、どデカイのかましたれー』とか」
「や、やめてぇぇぇぇ」
美花の言葉に優花が頭を抱えてのたうちまわっていると、審判の海亀が「失礼」と割って入った。
白い仮面のせいで表情は分からないが、声が少し困惑している。
「これを」
そう言って海亀は、手にしていた花菖蒲をクロウに手渡した。
クロウは受け取った花をポカンと見下ろしていたが、ようやく思い出したような顔でボソリと言う。
「……そうだ、宣誓したんだった」
ここにきて、クロウと優花は二人仲良く「しまった」という顔をした。
クロウが宣誓したのは、イーグルの姫の「オデット」に対してである。試合に勝利したクロウは、イーグルから「オデット」を貰い受けることになる……つまり、美花をだ。
美花が嫌そうに顔をしかめた。
「……それって、つまりぃ……私が、クロウのモノになるってことぉ〜?」
「いらんわ。おい、審判。宣誓は取り消す。無しだ、無し」
美花とクロウが海亀に詰め寄るが、海亀は首を横に振ってキッパリと言った。
「規定です。できません」
それでも美花とクロウが「無理」「なんとかしろ」とゴネていると、イーグルが美花に向かって爽やかに手を振る。
「オデット、お幸せに」
清々しい笑顔に、クロウが舌打ちをした。
* * *
クロウと美花はしばらくブーブーと文句を言っていたが、規定に従わねば、閉会式もままならない。
優花は二人をなだめて、海亀に指示を仰いだ。
「えーっと、この後はどうすればいいの?」
「姫は二階へ。騎士は一階に残ってください」
そう言って海亀は、優花と美花を階段の方へ促す。
何か演出のようなことでも行うのだろうか?
一階にはクロウとイーグルの二人が残されている。優花はクロウが一方的にイーグルに喧嘩を売らないか心配で、ちらりと背後を振り返り……そして、見た。
(…………え?)
クロウとイーグルの背後に立つ海亀が、ポケットから何かを取り出す。ボールペンのようなそれに、優花は見覚えがあった。あれはペン型の注射器だ。
海亀はそれをクロウの首筋に近づける。
クロウとイーグルは、まだ気づいていない。
「クロウ! 逃げてっ!」
叫びながら優花は階段を飛び降り、海亀の腕にしがみつく。
海亀は舌打ちをし、優花を引き剥がそうとした。優花は離すものかと、必死で海亀の腕にしがみつく。
「離せっ!」
注射器を握った腕を海亀が振り上げた。その先端が優花の首筋を狙う。
「サンドリヨン!」
「優花ちゃんっ!」
クロウとイーグルが叫んで、同時に手を伸ばす。
振り下ろされた注射器は、優花の首筋に刺さる前に、間に差し込まれた腕にブスリと刺さった。
その腕の主は……
「……イー、グル?」
次の瞬間、誰よりも俊敏に動いたのは海亀だった。
海亀は優花の腕を無理やり掴んで、階段の方へと走る。
少し遅れて、クロウとイーグルが海亀を追おうとしたが、海亀と優花が階段の一段目に足をかけた瞬間、機械音と同時に一階の床が傾いた。
一階ホールの床は中心から真っ二つに線が入り、ダストボックスの蓋のように、内向きに開いた。クロウとイーグルは赤い絨毯ごと底の見えぬ穴の底へと落ちていく。
「クロウっ、イーグルっ!!」
優花は二人を追って穴へ飛び込もうとしたが、海亀に押さえられているせいで、それも叶わない。
「離してっ! 離しなさいよっ!!」
「じっとしていてください。貴女に怪我をさせるつもりはありません」
海亀は優花を押さえたまま、その耳元で囁く。すぐ横にある仮面は白くのっぺりとしていて、その下の表情は読めない。
一体、何がどうなっているのだろう。
海亀がクロウに何かを注射器で打とうとした。それを優花が阻止しようとしたら、優花を庇ってイーグルが注射器を打たれた。
この状況で、注射器と言われて思い浮かぶのはただ一つ。
(……まさか、あの薬……っ!?)
確かめたいが、イーグルはクロウ共々奈落の底に落ちてしまった。
なんとか海亀の隙をついて自分も飛び込めないだろうか。
優花が隙をうかがっていると、トントンとマイクを叩く音がスピーカーから響いた。
『御機嫌よう、品性下劣な紳士淑女の皆々様。さぁ、ここからが、本当のフリークス・パーティの始まりでございます』
響いたのは若い女性の声だった。
一体これはどういう演出なのかと、ざわつく観客達を、スピーカーの声は嘲笑う。
『私は〈十二番目の娘〉……安全な場所で惨劇を眺め、誰かの死を笑ったあなた方に、ガラス越しでは味わえない、本物の恐怖をプレゼントして差し上げましょう』
次の瞬間、この異常事態にざわめいていた観客席から悲鳴が響き渡った。
何事かと目を向ければ、観客席の人々は悲鳴をあげながら何かから逃げ惑っている。
観戦室の扉のそばに見えるのは、巨体のキメラのようだった。その顔は理性を失い、ダラダラとヨダレを垂らしている。そのキメラが片手を振り下ろすと、観客の何人かが吹き飛んで床や壁に叩きつけられた。
(あれは……地下で見た……)
暴れる異形の姿は、Kf-09nを摂取させられた不死者と酷似していた。同じような不死者が、他にも数体、観客席を徘徊し、目に付いた人間を襲っている。
「……一体、何が起こってるの?」
混乱する優花に答える者はいない。
スピーカーから響く声は、高らかに歌うように宣言する。
『愚かな騎士に制裁を、哀れな姫に救済を……さぁ、惨劇を始めましょう』