【14-9】カレーの夢
優花の幼馴染の翔君は酷く泣き虫だったけれど、自分のために泣くより、誰かのために泣くことの方が圧倒的に多い少年だった。
優花がちょっと擦りむいただけで「優花ちゃん痛そう、大丈夫?」と涙目になるくせに、自分が怪我をした時は「大丈夫だよ」とニッコリ笑う。優しくて、そして我慢強い少年だった。
彼がどんなに強い力を持っていたって、偉い社長になったって、やっぱり根っこの部分は変わらない。
優しくて、我慢強くて……だから、彼は死んだキメラ達の願いを無下にできなかった。
そうして、手を汚すことを選択した。
きっと彼は、宣言通り決勝戦でクロウを見せしめに殺すだろう。
残酷に、惨たらしく、圧倒的な力の差を見せつけて。
……これ以上、不幸なキメラを増やさないために。
優花の膝を枕代わりにして眠るイーグルを見下ろし、優花は唇をかみしめた。
彼はフリークス・パーティで、どんな思いでキメラを殺め続けたのだろう。
キメラなど生きる価値もない、存在自体が無意味だなどと口にして、余裕たっぷりの態度で無造作に殺して……でもそれは全て、キメラの存在を増やさぬためのパフォーマンスなのだ。
そこまで徹底している彼を説得する言葉が見つからない。
それでも、優花はクロウを死なせたくないのだ。
クロウがどれだけ生きることに執着しているかを、優花はすぐそばで見てきた。
本当は手を汚したくなくて、でも死ぬのが怖くて、ずっと一人で戦い続けてきたクロウを助けてあげたかった。
けれど、優花にはイーグルを説得する言葉も、クロウを救う方法も思いつかない。
自分の無力さが、歯がゆい。
「……おはよう、優花ちゃん」
膝の上に乗せられた頭がもぞもぞと動き、イーグルがまだ少しだけ眠気に微睡む顔で、優花を見上げた。そういうあどけない顔をされると、ますます翔君の面影が濃くなって、胸が痛い。
「……おはよ」
「昨日はごめんね、もしかして……一晩中起きてたのかい?」
優花は寝不足の顔で、むすっと翔を睨んだ。
「えぇ、そうよ。頑固な誰かさんをどうすれば説得できるかって、一晩中寝ないで考えてたのよ」
「何か思いついた?」
「……思いついたら、とっくに寝てるわ」
不貞腐れた顔で言えば、イーグルは身を起こして、隈の浮いた優花の目元を指先でなぞる。
浮かんだ表情は、穏やかで優しい好青年のそれだ。だが……
「無駄だよ」
落とされた言葉は、重く、冷たい。
「ヒナミねえさん達を手にかけたボクは、もう引き返せない。これは……力を持つ者が担うべき責務……『強者の義務』だよ」
イーグルの口調は、力のない優花にはどうにもできないのだと、優しく遠ざけているようでもあった。
仕方のないことだから、何もできない君は悪くない、と。
「……あたしは、キメラがどうとかじゃなくて、ただクロウを助けたいだけで……」
「君がどんなに頑張っても、クロウはグロリアス・スター・カンパニーに繋がれたキメラなんだ。会社を裏切れないし、従い続けるしか生き残る道はない」
そうだ。優花が何を言ったところで、クロウはグロリアス・スター・カンパニーに従わなくては、生命維持のための薬をもらえない。
「どんなに君が手を差し伸べても、彼は自由になんてなれないんだ。だったら……さっさと殺してあげる方が、彼のためだと思わないかい?」
「……思わないから、一晩中寝ないで悩んでたのよ」
顔をしかめて優花が呻くと、イーグルは口元に手を当てて、小さくふきだした。
「やっぱり、優花ちゃんは変わらないなぁ」
昔から変わらない優花の意固地さに、イーグルは嬉しそうな顔をする。
それでも、彼が自分の意志を曲げるつもりがないことは明白で、優花は無力さに歯を軋ませた。
* * *
身支度を整え、レンタルしたワンピースを返却した後で、イーグルは鷹羽コーポレーションの本社に向かった。
「一応社長だからね、やることは色々あるんだ」
そう言って彼は優花を社長室のソファに座らせると、自身はパソコンと向き合い、内線で部下にいくつかの指示を出す。
社長室には入れ替わり立ち代わり年配の役員が出入りし、イーグルと打ち合わせをしていた。
明日がフリークス・パーティの決勝戦だというのに、社長の彼は休む暇も無いらしい。
イーグルは優花と同じ二十一歳の筈だが、とてもそうは見えないぐらい立ち振る舞いは堂々としていた。年配の役員に対しては敬意を払いつつ、角の立たない言い回しで上手く自分の意見を伝え、話をまとめていく。
(……すごいなぁ)
もう住む世界が違う人なのだと、こういう時に思い知らされる。
年配の役員達は、社長室のソファに所在無さげに座っている優花を訝しげに見ていたが、誰も優花について言及したりはしなかった。
多分、彼らはフリークス・パーティのことを知っていて、優花がイーグルの姫だと分かっているのだ。
丁度時計が昼過ぎになったところで、イーグルは社長椅子から立ち上がって伸びをした。
「待たせてごめんね、優花ちゃん。とりあえず急ぎの仕事は片付けたから、ご飯を食べに行こう」
イーグルがそう言った時、内線の音がした。イーグルは「ちょっとごめんね」と一言断って受話器を持ち上げる。
「……深海会長が? ……そう、中に通してくれ」
イーグルは受話器を置くと、優花に少しだけ申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんね優花ちゃん。もう少しだけ待っててもらえる?」
「私に気を遣わなくていいわよ」
素っ気なく言って、優花はあふぅと欠伸をした。昨晩一睡もしていなかったせいで、ひどく眠い。
多分これから社長室に来るのは、偉い人なのだろう。ならば、少しでもしゃんとしていなくては。
自分にそう言い聞かせて、背筋をピンと伸ばしていると、扉がノックされた。
「深海財閥の深海会長がお見えになりました」
「通してくれ」
女性秘書が扉を開け、来客を中に案内する。
ブラウンのスーツを身につけ、頭に洒落たハットを被ったその老人の顔に、優花は見覚えがあった。
「ほっほっほ、昨日ぶりじゃの、ゆうかちゃん♡」
「あ、え、えーっと……」
優花が口ごもると、老人は名前で呼んで欲しそうに期待の目で優花を見る。
そのジジイの、少年のようにキラキラとした眼差しに負けて、優花は口を開いた。
「……ジュ、ジュウ、ちゃん?」
「おぉう、覚えててもらえて、嬉しいのぅ、嬉しいのぅ……と、こ、ろ、で」
ジュウちゃん改め深海会長は、素早く優花に近づくと、にんまり笑って耳打ちする。
「昨晩は熱ーい夜を過ごせたかのぅ? 鷹羽の坊主は粗相をせんかったか? ん?」
「…………」
どうやら、あのスイートルームに手を加えたのは、この老人だったらしい。
優花が言葉に詰まっていると、イーグルがそっと割って入った。
「昨晩は色々とありがとうございました、深海会長」
「いやいや、なぁに、年寄りからのささやかな餞別というやつじゃよ……で、何回シたんじゃ?」
そもそも、あの薔薇の花を散りばめられたベッド自体使っていないのだが、イーグルはにっこり笑って黙殺する。
「深海会長、優花ちゃんが困っているので……そろそろ本題に入りましょう?」
「なにおぅ、こっちが本題じゃ。クリングベイル城を包囲するための人員の手配なんて、ついでじゃ、ついで」
どう考えても、そっちの方が重要な本題である。
優花は深海会長の言葉に、ピクリと肩を震わせた。
(……クリングベイル城を包囲する? ……つまり、本気でレヴェリッジ家を制圧しようとしてるのね)
昨晩の宴会で、岩槻源治という男は『修羅』を取り戻すと言っていた。
そのために、フリークス・パーティの決勝戦で何かを企んでいるらしい。
恐らくは、レヴェリッジ家の関係者を武力制圧するつもりなのだろう。
「あぁ、そうだ。決勝戦の観客の中にも、ワシの配下を何人か紛れ込ませておくから、必要に応じて使っとくれ」
「ご配慮、ありがとうございます」
イーグルが丁重に頭を下げると、深海会長は拗ねた子どものように唇を尖らせた。
「礼を言うなら、ワシ渾身のラブラブルームに礼を言わんかい」
「はははは」
深海会長の言葉を笑って受け流すイーグルの姿は、面倒な老人の扱いに慣れている若者のそれだった。
* * *
昼過ぎに鷹羽コーポレーションを出た優花は、イーグルと共に近くのうどん屋で昼食を食べた。
大盛りの天ぷらうどんを幸せそうに食べるイーグルを見て、優花はようやく気づく。
彼はきっと、こういうことがしたかったのだ。
十代の時間を鷹羽芦舟に奪われた彼は、こうやって外で友人と外食をする自由もなかったのだろう。
社長に就任した彼は、年上の役員や、財閥の会長達を前にしてもソツなく振る舞っていた。酌をされるのにも慣れていたし、社長としての振る舞いが板についていた。
でも、それは全部彼が望んで手にしたものじゃない。
きっと本当は、公園でテニスをしたり、ラーメンを食べたり……そういうものに憧れていたのだ。
(でも、それは……クロウだって、同じだわ)
クロウは自分の過去を多くは語らなかったけれど、その半生の殆どをフリークス・パーティに費やしているのは分かる。
優花が作った質素な食事を黙々と……だが、残さず食べていた姿が忘れられない。
彼は「カレーがまた食べたい」とボソボソ言っていた。
優花はまだ、特売の牛すじで作った、とびきり美味しい牛すじカレーをクロウに作っていない。
大盛りの天ぷらうどんを腹に収めた優花は、車の助手席に戻ると欠伸をした。満腹になったせいで、ひどく眠い。
シートベルトを留めた優花は、微睡みながら考える。
(……そうだ、目標を作ろう)
どんなにくだらないことでもいい。目標があれば、立ち止まらずに済むから。
「優花ちゃん、あとはクリングベイル城に戻るだけだから、寝てていいよ」
イーグルがカーナビを操作するのをぼんやり眺めながら、優花はむにゃむにゃ呟いた。
「……カレーパーティ」
「うん?」
「……みんなで、カレーパーティするの。特売の牛すじで、カレーを作って……」
夢うつつの優花の頭に浮かんだのは、大きな鍋をみんなで囲うビジョン。
クロウがいて、ウミネコとエリサと燕とサンヴェリーナがいて、美花とイーグルもいて。
「……それは素敵だね」
囁く声をどこか遠くに聞きながら、優花は深い眠りに落ちた。
* * *
ベッドに拘束具で固定されたトキは、器具を鳴らしながらフゥフゥと荒い息をしていた。
念のため、口にも拘束具をつけているので、雄叫びをあげることはないが、それでもたまに獣のような唸り声をあげている。
変わり果てた姿のトキに、ビルは苦労しながら点滴の針を刺すと、ふぅと息を吐いた。
「……俄かに信じがたいのですが、確かにこの状態は異常です。脳に変異が起きている可能性も高いですし、精密検査を行わないと対応のしようがありません」
クロウが連れて帰ったトキを見て、〈女王〉はすぐに空き部屋を一つ用意し、そこにトキを拘束した。
〈女王〉の事情を知る人間は、運営委員会ではヤマネ、白兎、ジャバウォック、グリフォンだけ……つまり、医療行為に詳しい者がいない。
口が固く信頼できる医者はいないのかとクロウが訊ねたところ、〈女王〉が指名したのがビルだった。
なんでも彼は医務室の中で唯一〈女王〉がスカウトした人材らしい。過去の経歴から、クラークとも鷹羽コーポレーションとも繋がりがないことは確実で、一番信用できるというのが〈女王〉の言だった。
かくして呼び出されたビルは、クラークの後継者の件や、鷹羽コーポレーションとの対立を何も説明されぬまま、トキと対面させられたのである。
込み入った事情を説明するには、時間がかかりすぎる。
まずはトキの容体を診て、治療が可能かどうかを検証してもらいたかったのだ。
病室にいるのはトキとビル、そしてそれを見守るグリフォン、クロウ、ウミネコ、それと興味本位で付いてきた美花だ。
大勢に見守られたビルは居心地悪そうにしつつ、大まかな症状をカルテにまとめた。
クロウは険しい顔でトキを見下ろし、口を開く。
「……やはり、治療は難しいか?」
「精密検査をするための道具が足りないんです。なにより、この手のことは俺の専門ではないので、ヘイヤさんかハッターさんに協力してもらった方がいい」
医務室勤務のスタッフの中でも、ビルは機械工学知識が専門という変わり者だ。
彼が担当するのは、燕やライチョウのように体を機械化された後天性フリークスである。最低限の医学知識はあるが、専門に学んだ訳ではないし、医師免許も持っていない。
ヘイヤは腕の良い外科医で、ハッターはキメラに関するスペシャリスト。確かに、この状況下ならヘイヤとハッターを味方につけることができれば、この上なく心強い。
だが〈女王〉がそれを許可しなかったのは、信用の問題だ。
ヘイヤは医務室勤めをして十年以上のベテランだ。クラークと個人的に親交があったという噂もある。それ故、クラークの後継者と繋がっている可能性が最も高い危険人物だ。
ハッターが医務室勤めになったのは、クラークの死後。それゆえ、クラークの後継者との繋がっている線は薄いが、彼は元鷹羽コーポレーションの研究者である。ハッターはイーグルを憎むような発言をしているが、裏でまだ鷹羽コーポレーションと繋がっている可能性は捨てきれない。
そういった事情があるので、〈女王〉陣営が頼れるのは、現時点ではビルしかいないのである。
「じゃあ、ワクチンを作ったりとかも、無理なのー?」
美花が口を挟むと、ビルはボサボサの前髪の下で申し訳なさそうに視線を左右に彷徨わせた。
「サンドリヨンさんの期待に応えられず……すみません」
ビルはサンドリヨンとオデットの入れ替わりのことを知らされていない。それゆえ、美花のことをサンドリヨンと勘違いしているようだった。
純朴そうな青年がチラチラと自分を見ていることに気づいた美花は「あー、はいはい、なるほどねー」と何かを察したような顔をする。
そして美花はビルの白衣の裾をちょこんとつまみ、上目遣いに彼を見上げた。
「……私、この子を助けてあげたいんです。お願いです、ビルさん……力を貸してください。他に頼れる人がいないんです」
いつもの語尾を伸ばした喋り方を封印すれば、その喋り方は姉そっくりである。クロウですら、本物かと一瞬我が目を疑った。
ウミネコが「うわ、すげっ」と小声で呟き、一度これに騙されたグリフォンは沈痛な顔で額に手を当てる。
ビルは顔を耳まで赤くしていたが、やがてコクコクと頷いた。
「やれるだけのことは、やってみます」
「……っ、ありがとうございます」
礼を述べる前に少し感極まったように言葉を詰まらせるあたり、非常に芸が細かい。
ウミネコが、悟りを開いた大仏のような顔でしみじみと呟いた。
「女の子ってコワイネー」
「……あのアホ女が例外なだけだろ」
クロウが鼻の頭に皺を寄せて呻くと、ウミネコはフッと鼻から息を吐いて肩をすくめる。
「本当のアホに、ああいう芸当はできないんだぜ、クロちゃん」
「…………」
クロウが返す言葉に詰まっていると、扉がノック無しに開いた。飛び込んできたのは白兎である。
「大変大変大変ですよぅーー! あっ、全然非常事態ってわけじゃないんですけどね、イーグルさんが島に戻られましたー! これで決勝戦ができる! あー、良かったぁ!」
こいつは、登場するたびに「大変大変」と騒がなければ生きていけない病にでもかかっているのだろうか。
そんなことを考えつつ、クロウはちらりと窓の外に目を向ける。
窓の外には、クリングベイル城別館へと歩く人影が見えた。
見覚えのある焦げ茶の髪……イーグルだ。だが、隣にサンドリヨンの姿がない。
眉をひそめて目をこらせば、その理由はすぐに分かった。イーグルはサンドリヨンを横抱きにして抱えているのだ。
考えるより早く、クロウは窓を開けて、庭へ飛び降りた。背後で白兎が「ここ五階ーっ!」と叫んでいるが知ったことじゃない。
クロウはイーグルの背中を追うと「おい」と低い声で呼びかけた。
サンドリヨンを横抱きにしていたイーグルは「うん?」と呟き、足を止めて振り向く。
イーグルに抱きかかえられたサンドリヨンは、すぅすぅと寝息を立てていた。どうやら熟睡しているらしい。
「……サンドリヨンは、どうした」
「あぁ、移動中に寝てしまったんだ……昨晩は、無理をさせてしまったから」
ピキンと音を立ててクロウは凍りついた。
その内容が「徹夜の膝枕」だと知らないクロウは、全身をわなわなと震わせ、頰を引きつらせる。
「へぇぇぇぇぇぇぇ、そうかよ」
「彼女をベッドで休ませてあげたいから、もう行ってもいいかい?」
「…………」
クロウの返事も待たず、イーグルは歩き出す。
その背中にクロウは低い声で告げた。
「……明日は、オレが勝つ」
「できもしないことを大声で囀ると、恥をかくよ、カラス君?」
「……てめっ!」
激昂したクロウが摑みかかろうとしたその時、
「こら、クロウっ!」
サンドリヨンが怒鳴った。
反射的に動きを止めたのはクロウだけじゃない。イーグルまで、驚いたような顔で腕の中の姫を見下ろしている。
サンドリヨンは目を閉じたまま「うー、むぅぅ」と呻いていた。どうやら寝言だったらしい。
「食事中に喧嘩しないの……ウミネコさんもクロウを煽らないで……エリサちゃん……らっきょうを独占しちゃダメよ……んん、牛すじはね、下ごしらえが大変だけど……そりゃもう、美味しいんだから……」
夢うつつに牛すじの素晴らしさを力説する彼女に、クロウとイーグルの毒気が抜ける。
イーグルはクスクスと喉を鳴らして笑った。
「君は夢の中でも彼女に叱られているらしい」
「……ほっとけ」
「いいや、羨ましいよ」
呟き、イーグルは歩き出す。
クロウはその背中を無言で睨み続けた。
勝つための策は、まだない。
生命維持のための薬も、残りわずか。
それでも、絶対に生き延びてみせる。そして……
(あいつの作った飯を、また食うんだ)