【14ー2】自覚
サッカーボールが大きく弧を描いて、グラウンドの端から端へと飛んでいく。
如月草太は味方が回したパスの到着点に向かって走り、そのまま横目でフォワードの位置を確認した。悪くないポジションだ。
味方からのパスを受け、そのままフォワードにボールを回そうとしたところで、相手チームのディフェンスが張り付いた。草太はその横をすり抜けようとしたが、ディフェンダーはその体格の良さで強引に草太からボールを奪い取る。
あっ、畜生っ、と思った時にはボールは敵の方に回ってしまった。
草太は父親が大嫌いだが、こういう時、父の恵まれた体格が羨ましくなる。スポーツの世界において、フィジカルは絶対的で強大な壁だ。
何も父みたいに一九〇センチ超えのムキムキマッチョとまではいかなくても、もう少し……せめて、平均に届くぐらい身長が伸びてくれれば、跳躍力のある草太はヘディングで誰にも負けないのに。
「如月ぃっ! もっとグラウンド全体を見ろ!」
コートの外から監督が怒鳴る。
全体を見ろ、視野を広げろ、というのは草太が一番よく言われることだ。
草太のポジション、ミッドフィルダーは攻守の両方を担うものであり、その役割は多岐に渡る。
案外小器用な草太は、攻守のどちらにも対応することができたが、監督が言うには「全体を見てゲームメイクをする」という点が草太には、まだまだ足りないらしい。
ボールばかり見ないでコート全体を見ろ……とは常に言われているが、試合が始まると、どうしたって目がボールばかり追いかけてしまうのだ。
練習試合はどうにか辛勝したが、監督には散々ダメ出しをされた一日だった。
草太は部室で着替えながら、はぁとため息を吐く。
(視野を広く持つって、どうすりゃいいんだ)
日常生活においても、草太は割と視野が狭いという自覚はある。一つのことに集中してしまうと、他のことに意識が向かなくなってしまうのだ。この辺は姉の優花もよく似ている。
いつだったか、次姉の美花に言われたことがある。
『優花ねぇも、草太も、もっと色んなことに興味持たないと、みんなに置いていかれちゃうよ〜?』
その時は、草太も優花も、美花があっちこっちフラフラしているだけだろうと反発したものだ。だが、今になって少しだけ美花の言葉が胸に刺さる。
草太は今までサッカー一筋で、それ以外のことにはあまり興味を持たなかった……なんて言い訳だ。
本当は、いつだっていっぱいいっぱいで、他のものに興味を持つ余裕が無かったのだ。
そういう意味では、アンパン大使の元での短期アルバイトは、草太にとって結構な冒険だったし、新鮮な体験だった。
食品を管理することの大変さ、接客、お金の扱いに触れることで、姉が今までどんな苦労をしてきたのかを知ることができたし、新しい交流関係もできた。
「如月君、お疲れ様」
水道で汗を流していると、マネージャーの一之瀬ほたるが、草太から汚れたタオルを回収してくれた。草太は「サンキュ」と言って、洗濯籠に汚れたタオルを放り込み、素早く周囲を見回す。自分達の他に人はいない。チャンスだ。
「えーっと、今夜は、よろしくな」
「うん、楽しみにしてるね」
短く言葉を交わした草太は、こっそりガッツポーズをすると、そそくさと部室へ向かった。
可愛くて気の利く一之瀬ほたるは、サッカー部のアイドル的存在だ。もし、彼女と部活以外でも会っていることがばれたら、先輩達から大目玉をくらうのは必至。
サッカー部の人間はモテる、という説を、草太は同級生から何度も何度も力説されているのだが、自分の所属するサッカー部の部員達を見ていると、とてもモテるようには思えなかった。
特に先輩達は、選手としては非常にストイックで尊敬できるのだが、こと色恋沙汰においては、あまり尊敬はできない存在である。
以前、草太と同じ一年生のサッカー部員に、彼女ができたと発覚した時の先輩達の反応はすさまじかった。
ある者は呪詛を唱え、ある者はのたうち回り、ある者は壁にガンガンと頭を叩きつけて「羨ましくない羨ましくない」と血の涙を流した。その光景たるや、まさに阿鼻叫喚地獄絵図。
ちなみに彼女ができた同級生は今も彼女とラブラブらしい。どうぞ末長くお幸せに。
帰宅した草太はサッとシャワーを浴びると、パンツ一丁のまま洋服ダンスの前で腕組みをした。
とりあえず比較的小綺麗なジーンズやTシャツを畳の上に並べて、あーでもないこーでもないと服の上下を組み替えては、首をひねる。
「草太にぃ、早く着替えないと風邪ひいちゃうよ?」
弟の若葉は、眉を八の字にして心配そうな顔をしている。
草太は右手と左手に一枚ずつTシャツ持って、自分の体にあてがった。
「なぁ、若葉。どれがいいと思う?」
「うーん、ぼくも初めてだから、よく分からないよ」
こういう時、美花ねぇがいてくれたら……と二人は頭を抱えた。
時計を見れば、午後三時半。四時前には迎えが来るから、もうあまり時間がない。
* * *
ある日の放課後、部活帰りの草太の横に見覚えのあるスポーツカーが停まった。
車窓から顔をのぞかせて「はぁい」と片手を振っているのは、ほたるの知人の藤咲だ。洒落たライダースにスヌードを引っ掛けた彼は、サングラスを持ち上げてウィンクをしている。
藤咲とは、最近一緒に食事をしたという、ただそれだけの関係だ。だが、ご飯をくれた人にはどうにも頭が上がらないのが如月家の人間であった。
「こんにちは、藤咲さん」
草太が礼儀正しく頭を下げると、藤咲はチョイチョイと草太を手招きする。
「送ってあげるから、乗りなよ」
「いえ、大丈夫です。家、そんな遠くないんで」
草太が首を横に振ると、藤咲はパチンと両手を合わせて、草太を見上げた。
「実はねぇ、君を見込んで頼みがあるんだよ。ねっ、このとーり」
以前、とびきり美味しいイタリアンをご馳走してもらった手前、無下にもできず、草太は「はぁ」と曖昧に頷く。
知らない人の車に乗るなんて不用心も良いところだが、あのほたるが信用している相手なら、まぁ問題ないだろう。
草太は藤咲のことはあまりよく知らないが、ほたるの人柄は知っている。
一之瀬ほたるは、おっとりして優しくて気が利いて……それでいて案外、人を見る目が鋭いのだ。
草太が助手席に座ってシートベルトをすると、藤咲は車を発進させ、早速話を切り出した。
「頼みっていうのはねぇ、オレとほたるちゃんと一緒にライブに行ってほしいんだよ」
「……ライブって、もしかして、一之瀬のお姉さんの?」
「そう、かなめの」
ほたるの姉、一之瀬かなめがインディーズバンドのボーカルだということは、以前ほたるから聞いたことがある。
もしかして、チケットが余っているから大量に買ってほしいとか、知人に売りさばいてほしいとか、そういう頼みだろうか?
「あの……チケット代って、いくらぐらいするんですか?」
草太が身構えていると、藤咲はカラカラと笑った。
「あー、いーのいーの、チケット代はオレがもつし、なんだったらドリンクとその日のご飯も奢っちゃう」
「……へっ? いや、でも、流石にそこまでしてもらうわけには……」
この間もご飯を奢ってもらったばかりなのに、流石にそれは申し訳なさすぎる。
草太が恐縮すると、藤咲はにんまりと唇を持ち上げて笑った。
「下心があるんだよん」
「…………はぁ」
草太をライブに連れて行くことで、藤咲にどんな得があるというのか。まるで見当がつかない。
草太が首を捻っていると、藤咲は前方に目を向けたまま語りだした。
「前にオレがかなめのライブに行ったらさぁ、あのくそアマ、舞台の上からオレに飛び蹴りかまして、しれっとそのままライブ続けやがったのよ。マジで顔色一つ変えずに歌い続けんのよ? 観客もそういう演出かと思ったらしくて、大盛り上がり」
「…………」
「で、ライブの後に文句をつけたら、なんて言ったと思う? 『二度と来んなボケ』だよ? ひどくない? 腹が立ったから、それからもライブにしつこく顔だしてたら、とうとう入り口であいつに蹴り出されてさぁ」
「…………」
「そこで、オレは考えたわけよ。ほたるちゃんの保護者としてライブに同伴した、ってことにすれば、あいつも強く出られないだろうって。そしたら、あの腐れシスコン女……『死ね、ほたるのストーカー』ってギターケースで殴りかかってきやがった」
それはむしろ、ほたるではなく、その姉のストーカーなのではないだろうか。
思えば初対面の時も、藤咲とほたるの姉は喧嘩腰だった。あの時が、たまたまた険悪な雰囲気だった……のではなく、寧ろ喧嘩腰が彼らの標準らしい。
「そこで、草太君に協力してもらいたいんだよ。君がかなめのバンドに興味を持って、ほたるちゃんと一緒にライブに行くことになった。オレは若いカップルを見守る保護者としてついていく。これならあいつも文句は言えないでしょ」
藤咲はずる賢い大人の顔で、限りなくしょうもない作戦を提案した。本当にビックリするほどしょうもない。
呆れつつ、草太は早口でツッコミを入れる。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ、オレと一之瀬は、つ、つ、付き合っては……いないというか、普通に友達というか……」
段々と恥ずかしくなってトーンダウンする草太に、藤咲は「いいのいいの」と鷹揚に笑う。
「実際に付き合ってるかどうかは、関係ないの。若い男女を見守る大人。その構図が欲しいわけよ」
つまり、草太はカモフラージュというわけだ。なるほど、分かりやすい下心である。
だが、草太にはまだ懸念材料があった。
「ライブって、夜からですよね……その、小学生の弟がいるんで、流石に一人で留守番させるのはちょっと……」
「ちょうどいいや! だったら、弟さんも連れておいでよ! 開演が十七時だから、遅くても二十時には終わるし、ちゃーんとオレが車で送迎もしてあげる。はい、決まり!」
流されやすい性格の草太がもごもご口ごもっている間に、藤咲は強引に決定事項にしてしまった。
いいのかなぁという気持ちはあったが、人生初のライブに少しドキドキしているのも、また事実。
それに、学校外でほたると会えるのは素直に嬉しい。
「……それじゃ、えっと……お願いします」
素直にぺこりと頭を下げると、藤咲は「良い子、良い子」とご機嫌に頷く。
ふと、草太は疑問に思って訊ねた。
「そういえば、藤咲さんと一之瀬のお姉さんって……付き合ってるんですか?」
途端に、ご機嫌だった藤咲の顔がグシャグシャに歪んだ。ちょっとそれはモデルとしてどうなんだ、と言いたくなるような酷い顔である。
「無理無理、ないない。誰があの暴力コミュ症女と」
「……じゃあ、なんで、毎回ライブに顔出してるんですか」
草太の指摘に、藤咲は遠くを見るような目をして肩を竦めた。
苦く笑うような、困ったような、なんとも複雑そうな顔で。
「あいつの歌を聴けば分かるよ」
* * *
かくして、人生初のライブに行くことになった草太は、ライブハウスのドレスコードに頭を悩ませていた。パンツ一丁で。
「草太にぃ、バンドってどんなバンドなの? パンクとか、ロックとか、メタルとか……色々あるよね?」
「藤咲さんはロックバンドって言ってたけど……」
若葉の疑問の声に草太は口ごもる。
音楽に疎い草太は、パンクとロックとメタルの違いがよく分かっていなかった。
パンクもロックもメタルも、ギターをギュインギュインさせて、ドラムをドコドコ鳴らして、ボーカルがシャウトするという、大変貧相なイメージしかない。
「ロックって、お洋服がビリビリだよね?」
「ビリビリなのか?」
真剣な顔で言う若葉に、草太もまた大真面目に返す。
言われてみれば、テレビで見たバンドのお兄さんは、あっちこっち破けたTシャツとジーンズを着ていた気がする。
「Tシャツをちょっと破ってお腹出したら、ロックじゃないかな?」
「馬鹿、若葉! そんな勿体ないことしたら、優花ねぇに怒られるぞ!」
「私がなんですって?」
草太と若葉は二人仲良く動きを止めて、勢いよく振り向く。
部屋の前に佇んで草太と若葉を見下ろしているのは、まごうことなく姉の優花だった。
「「優花ねぇ!?」」
長姉はしばらく美花の代理として、都会で仕事をすることになった筈だ。
仕事はもうしばらくかかると聞いていたので、草太も若葉も仰天した……が、もちろん、姉が帰ってきてくれて嬉しくないはずがない。
「優花ねぇ、お帰り!」
「優花ねぇ、優花ねぇ、お仕事終わったの? もう帰ってきて大丈夫なの?」
若葉が足にしがみつくと、姉は小さく笑って若葉の頭を撫でた。
「仕事はね、まだ残ってるの。今日はたまたま近くを通ったから、二人の顔が見たくって」
相変わらず心配性な姉に、草太はなんだか申し訳ない気持ちになった。
姉はまだ仕事が残っていて忙しいのに、弟達の顔を見るためだけに家に立ち寄ってくれたのだ。
それなのに、自分は遊びに行こうとしていたのだと思うと、ひどく後ろめたい。
「……優花ねぇ、ごめん」
「突然何よ? あと、服着なさいってば」
「……オレ、これから夜遊びに行こうとしてたんだ」
ポカンとしている姉に、草太は正直に話した。
学校の友人と、その知り合いの人と一緒にライブに行くことになったことを。
「……優花ねぇが、仕事で頑張ってる時に、ごめん。ほんとごめん」
姉は黙って草太の顔をじっと見ていたが、やがてふぅっと細く長く息を吐く。
怒鳴られることを覚悟して、草太が拳を握りしめると、姉は「あ〜〜〜〜……」となんだか気の抜ける声を漏らした。
「そっかぁ……草太が夜遊びかぁ……もう高校生だものね」
噛みしめるように呟く姉は、なにかを吹っ切ったような顔をしていた。
「あんた、いつもサッカー一筋で、他のことに目を向けようとしないから、ちょっと心配してたのよ……そっか。ライブかぁ……あんたを、そういうのに誘ってくれる人がいるのね」
実際は、藤咲にダシに使われたようなものなのだが、姉は草太が友人に誘われたのだと思っているらしい。とりあえず姉が感動しているようなので、訂正はせずそのままにしておく。
「……あの、優花ねぇ、怒ってないの?」
「怒るわけないでしょ。あんたはまだ高校生なんだから、いっぱい色んな経験をするべきだわ」
そう言って姉は、小さく自嘲するように笑った。
「……私も最近になって、身にしみて分かったの。色んなことに目を向けた方が、行き詰まった時に突破口を見つけやすいって。もっと、色んなことを体験しておくべきだった、って」
姉は学生時代、ずっとバイトに打ち込んでいた。高校を卒業してからも、ずっと、ずっと。脇目も振らず、弟達を養うことだけを考えて。
草太達が何を言っても「私はこれでいいの」と頑固に言い張っていた姉だが、この一ヶ月の間に、なんらかの心境の変化があったらしい。
「草太、若葉、いっぱい楽しんでらっしゃい」
姉は勢いよく弟達の背中を叩いた。若葉はともかく、草太は裸だったものだから、バシーンと景気の良い音がする。
「いっぱい、いっぱい、楽しい思い出を作るのよ。それはいつか、あんた達の力になる」
* * *
弟達の顔を見た優花は、十分とせずアパートを出た。
アパート裏の駐車場に車を停めて待っていたイーグルは、少し驚いたように瞬きをする。
「早かったね。もういいのかい?」
「……いいの。弟達、これから出かけるみたいだったし……なんか、ずるずる長居したくなっちゃうから」
優花が助手席に座り、シートベルトを留めると、イーグルはカーナビを操作して地図を表示した。
イーグルはこの後、都内で誰かと会う約束があるらしい。その前に、少しだけ実家に寄らせてほしいと優花が頼んだら、彼は快く了承し、こうして優花を連れてきてくれたのだ。
(……草太と若葉に会えて良かった)
自分がいない間に、弟達がやつれていたらどうしようかと不安だったのだが、久しぶりに会った弟達は、とても活き活きとしていた。
優花の庇護が無くとも、弟達は自分ができることをして、できないことは周りに頼って、そして上手に息抜きをする方法も、ちゃんと見つけている。
今まで、弟達は優花の目を気にして、色々なものを我慢していた。
優花が弟達に我慢させていたのだ。
(……子どもは大人の背中を見て育つものだけど……草太達の視野を狭めていたのは、私だったんだわ)
弟達には、もう自分がいなくても大丈夫なのだ。
胸を塞いでいた懸念材料が一つ溶けて消えれば、迷いも少しずつ晴れていく。
優花はようやく、自分がすべきことが見えてきた気がした。
(……そのためには、私は知らなくちゃいけない)
イーグルの語っていない過去──彼が、キメラ殺しに固執する理由を。
恐らく、その鍵を握っている人物が、これから会いに行く人なのだ。
「すっかり、日が落ちるのが早くなったね、優花ちゃん」
「…………えぇ」
秋の夕焼けが、見慣れた街を赤く染めていく。
ふと、優花は前方に立派な柿の木を見つけた。
あれは、家政婦の仕事で派遣された倉田の家の柿の木だ。最後に見た時は、まだ柿の実は青く、葉もそれほど落ちていなかったのだが、今はすっかり実はオレンジ色に色づき、落ち葉が地面を埋め尽くしていた。
『実が成ったら持ってけ。わしは甘いモンは好かん』
一年前、あの無愛想な老人はそう言って、優花に袋いっぱいの柿を持たせてくれたのだ。
また、落ち葉掃きを頼まれる日がくるのだろうか。
……この街に、帰ってくることはできるのだろうか。
一ヶ月前、クロウに無理やり連れ去られた優花は、何が何でも生きて帰ってやると強く誓っていた。
(……それが一番の願いだったのに)
夕焼けに照らされる故郷を眺めながら、優花は自分の中の「一番の願い」が変わってしまったことを静かに自覚した。