【14ー1】リッチでお洒落な大人の休日
クリングベイル城の客室は、空調がしっかり効いているし、布団もふかふかで温かかったけれど、それでも寒がりな優花は寝ていると、温かい物を抱きこみたくなる。
家にいたころは湯たんぽを愛用していたけれど、クロウの姫になってからは、すっかりクロウが湯たんぽがわりになっていた。彼は体温が高くて温かいのだ。特にシャツの襟からはみ出している羽は、ふわふわと手触りが良くて、撫でているだけで心が安らぐ。
「…………んぅ…………ふわふわしてない」
指に触れる布地を辿っていき、襟から覗く首筋を撫でるが、至福のふわふわ触感はなく、すべすべとした肌の感覚があるだけだ。
おかしいなぁ、と夢うつつに手を動かしていると、ふふっと笑い混じりの吐息が優花の髪を揺らした。
「くすぐったいよ、優花ちゃん」
「………………」
甘く穏やかな声に、優花は手を伸ばした態勢のまま動きを止める。
ゆっくりと視線をずらしていけば、ニコリと微笑むイーグルと目があった。
「おはよう、優花ちゃん」
「………………」
そこで優花はようやく思い出した。ここはクロウの部屋じゃない。イーグルの部屋だ。
昨日はソファに座ったまま、ポツリポツリと昔話をしていたら、そのままソファの上で寝落ちしてしまったのである。おそらく、イーグルがベッドまで運んでくれたのだろう。
この部屋はセミダブルのベッド一つしかないし、優花だってクロウと同じベッドで寝ていたから、この状況はまぁ理解できる。
だが、イーグルの襟元からのぞく首を撫で回していたと思うと、妙に気恥ずかしくなり、優花は口をパクパクさせた。
「今のは、その、ちょっと、寝ぼけてて……」
「小鳥の世話をする夢でも見てたの?」
「……あー、うん、そんな感じ……カナー」
クロウの首の羽をポワポワもふもふしているつもりだったなんて、口が裂けても言えず、優花は目をそらした。どうにも気まずい。
イーグルが幼馴染のあの少年だと思うと、どういう態度で接すれば良いのかが分からない。
あの頃は、寒ければ「寒い寒い」と言いながら普通にひっついて、彼のコートに潜り込んだりもしたのに(そのまま二人羽織をするのが、当時の優花のマイブームだった)
内気でおどおどして、いつも困ったように笑っていた少年が、今は大人の余裕に満ちた穏やかな笑顔で自分を見ている。
ぎこちなさを隠せないまま優花はベッドから起き上がった。着ているのは昨日、風呂上がりに借りたバスローブだ。どうりで寒いわけだと納得しつつ、優花は着替えを探す。
昨日着ていた服は、きちんと洗って乾燥機にかけた状態でハンガーにかけられていた。きっと彼の部下がやってくれたのだろう。ありがたく脱衣所にこもり、身支度を整える。
鏡に写る自分は、青白く憔悴した顔をしていた。無理やり笑顔を作ってみようとしたが、頰がピクピク引きつっただけで、ちっとも上手に笑えていない。
(……酷い顔)
ハハッと自嘲し、優花は服に袖を通した。
優花が脱衣所から出てくると、テーブルの上には朝食が用意されていた。どうやら、ルームサービスで頼んでくれたらしい。
テーブルの中央にドンと置かれているのは、白粥を炊いた大きな土鍋だ。横に並べられた小鉢は梅干し、温泉卵、佃煮などなど。好きな物をトッピングができるようになっている。
「消化に良くて温まる物の方が良いかな、って思って」
そう言って、イーグルは椀に粥をよそって優花の前に置いた。
気を遣われている。そのことが今の優花には少し心苦しい。
「……ありがとう」
ボソボソと礼を言い、梅干しを乗せただけの粥を啜る。
気持ちが向上したわけではないけれど、それでも温かい物を腹に入れると、少しだけ元気が湧いてくる気がした。どんなに落ち込んでいたって、体はちゃんと生きようとしている証拠だ。
(……クロウは、ちゃんと朝ごはん食べてるかな)
優花と違い低燃費なクロウは、戦場など過酷な現場での活動を想定されているので、一週間程度なら食事をしなくても生き延びられるよう作られているらしい。そのせいか、彼は食べることに関して執着が薄いのだ。優花が食事を用意しないと、栄養補助食品やインスタント食品だけで済ませてしまう。
(……美花が一緒なら、何かしら食べさせてると思うけど)
クロウと美花のことを気にしているせいか、思うように匙が進まず、なかなか粥は減らない。
向かいの席のイーグルは、優花が一杯目を食べ終えるより早く、二回もおかわりをしている。そういえば、彼も優花に負けず劣らず燃費の悪い少年だった。
放課後になると二人はいつも腹ペコで、おやつにおにぎりやさつまいもを頬張っていたものだ。
粥の上でニコニコと塩鮭をほぐしているイーグルに、鮭おにぎりを頬張っている少年の面影がチラつく。
「……鮭、今も好きなの?」
「うん。一番好きだよ」
イーグルは、優花から話しかけただけで嬉しそうに微笑んだ。
今の彼は立派なスーツを着た、どこから見ても立派な紳士である。トーストにベーコンエッグ、それにフルーツと紅茶を添えたお洒落な朝食がとてもよく似合う(これが優花の考えるお洒落な朝食なのだ)
だが、イーグルはご機嫌で四杯目の粥を椀によそっていた。食べ方こそお上品だが、食べる量は優花と変わらないのが、なんだかおかしい。
イーグルは温泉卵の小鉢を手に取ると、それを優花の前に置いた。
「『温泉卵を考えた人は偉大だわ』……だっけ?」
「そうよ、人類で初めて温泉卵を発見した人はノーベル賞ものね」
幼少期、おやつのゆで卵をかじりながら力説したものである。
固茹で卵も美味しいし、お弁当には最適だけど、優花が一番好きなのは、やわやわの温泉卵なのだ。あれがあるだけで、ご飯がモリモリ食べられる。ひとつまみの鰹節と、ほんの数滴の醤油があれば完璧だ。
そんな優花の考えを察したみたいに、イーグルは優花の方に鰹節の小鉢と、醤油差しを置いた。
優花はむぅっと唇を曲げてイーグルを睨んだが、彼は邪気のない顔でニコニコしている。
なんだか負けた気分になりつつ、優花は粥の上に温泉卵をポトリと落とし、鰹節と醤油を垂らした。程よい硬さの黄身を崩して粥と一緒に頬張れば、どうしたって顔が緩む。
ダシの効いた優しい味の粥が、しっかりとトッピングの味を受け止め、包み込んでくれる。それはまさしく至福の瞬間。
「……やっぱり、お米は偉大だわ」
「ノーベル賞もの?」
しみじみ呟く優花に、イーグルがクスクス笑いながら言う。
優花は頰を赤くして視線を彷徨わせた。幼い日の優花は、何かに感動する度に「これはノーベル賞ものの発見だわ」と力説する子どもだったのである。
しかし、もう大人になった優花はなんでもかんでもノーベル賞ノーベル賞と騒ぐような子どもではないのだ。さっき口走ったばかりだけど。
優花は知的な大人の顔を作り、大真面目に言った。
「お米の偉大さは、文部科学大臣賞ものよ」
「どっちかというと、農林水産大臣賞じゃないかな?」
「おかわり! もらうわね!」
ガツガツと椀に粥をよそう優花に、イーグルはやけに楽しそうにクスクス笑う。
「優花ちゃん、それを食べ終わったら一緒にでかけよう」
「……どこに?」
部屋の外を出歩いて、クロウや美花と遭遇したら非常にきまずい。
(あぁ、でも今のこの状況をグリフォンさんやアリス君に話すべき? ……でも、あの薬のことが原因でクロウに捨てられたって知ったら、アリス君が気にするだろうし……)
それに一番気がかりなのは、クロウのことだ。
彼が持っていたあの危険な薬を優花は持ち出したけれど、もし、クロウが予備を持っていたら? グロリアス・スター・カンパニーが追加で彼に薬を渡したら?
優花が不安に思っていると、イーグルは急須の茶を湯飲みに注ぎながら言った。
「クロウのことは心配いらないよ。彼があの薬を摂取して変異の兆候が出たら、すぐにワクチンを打てるよう、部下に見張らせてる」
イーグルは優花の前に湯呑みをおくと、自身も番茶を啜る。そうして、ふぅと息を吐いて、窓の外に目を向けた。
一晩中降り続けた雨はすっかりやんで、今は気持ちの良い秋晴れの空が広がっている。
「ずっと部屋に籠ってたら、気が滅入るよ。どうせなら、島の外に足を伸ばそう」
「でも、騎士と姫が一緒に島の外に出るのはダメだって……」
二人同時の島外外出は、フリークス・パーティからの逃亡を疑われかねない。だから、この間も優花は一人でお留守番をしたのだ。
だが、イーグルは「大丈夫」と余裕たっぷりの態度である。
「レヴェリッジ家の船を使って島外に出るなら咎められるだろうけれど、僕個人の船を使うから」
そうだこの人、今は社長だった……と、優花は改めて思い知らされた。
* * *
イーグルの所有する船に乗って本州に渡り、それから二人はレンタカーに乗り換えて移動した。
どこに行くの? という優花の問いに、イーグルは秘密と言っていたけれど、外の風景を見ていれば、彼がどこに行こうとしているかはすぐに分かった。
助手席を降りた優花は、思わず深々と息を吐く。
イーグルが優花を連れてきたのは、二人が出会った自然公園だった。優花の場合、通っている小学校の裏側にあったので、自然公園ではなく裏山という呼び方の方が馴染み深い。
土曜日の午前中の自然公園は、親子連れだけでなく様々な年代の人々が、遊具で遊んだり、ベンチでのんびりしたり、ジョギングをしたりと思い思いの過ごし方をしていた。
遊歩道を並んで歩くと、イーグルがアスレチックを見て感慨深げに目を細める。
「僕が知ってるころと、だいぶ遊具が違うね」
「えぇ、色々新しくなったのよ」
昔は半分ぐらい山みたいなものだったのだけど、丁度彼が転校した頃から開発が進んだのだ。
「昔、秘密基地だった場所も、今ではゴルフ場になってるわ」
「……そっか」
呟く声は少し寂しげだった。思い出の場所が失われるのは、いつだって切ないものだ。
彼も落ち込んでいるのだろう、と優花は気遣わしげにイーグルを見やる。
「優花ちゃん、テニスしよう」
「…………へ?」
唐突な提案にキョトンとする優花の手を引き、イーグルはスタスタとテニスコート目指して歩き出す。昔は優花が引きずり回す側だったのに!
「ちょ、ちょっと待ってよ。私、ラケットなんて持ってない……」
「ラケットもシューズも、レンタルできるみたいだよ」
イーグルは受付に行くと、スマートに手続きを済ませて、二人分のシューズとラケットをレンタルしてしまった。
ラケットを受け取った優花は困ったようにイーグルを見る。
シャツにジーンズという自分の格好も大概にテニスコートに不釣り合いだが、それ以上にイーグルの三つ揃いのスーツは目立った。
イーグルは高そうなジャケットを脱いで、シャツにベストという姿になると、ピカピカの革靴をシューズに履き替える。
「本当にこの格好でやるの?」
「一時間だけだから……ダメかな?」
もうレンタルを済ませてしまった以上ダメとも言えず、優花は「仕方ないわねぇ」と溜息交じりにラケットでボールをお手玉する。
「優花ちゃん、テニスの経験は?」
「高校の授業で少しやっただけよ」
なお、その時についたあだ名は、豪速球の如月。
コントロールはさておき、スピードとパワーは大したものだと教師に褒められ、テニス部から勧誘を受けたこともある。バイトができなくなるから断ったが。
「僕は初めてなんだ。お手柔らかにね?」
そう言って、イーグルはテニスコートに立った。
その構え方はいかにも見様見真似といった雰囲気で、なるほど初心者というのは嘘ではないらしい。
それでも何回かラリーをすれば、すぐにコツを覚えたのかラリーを続けられるようになった。
(そういえば、昔から運動神経は悪くなかったのよね)
むしろ、良かったのだ。人よりもずば抜けて。
それを彼は優花も含めて周囲にひた隠しにしていた。手抜きをしていたわけじゃない。誰かに怪我をさせないよう細心の注意を払っていたのだ。
こうしてラリーを続けていると、彼が器具を壊さないよう、優花や周囲の人に怪我をさせないよう、いかに力加減に気を配っているかがよく分かる。
優花もイーグルも、テニスの経験など殆ど無い者同士だったが、二人とも運動神経が良いので、ラリーを続けると、それなりに白熱した。
そうなると優花の中の負けん気の強さがむくむくと膨らんでくる。
丁度お誂え向きに球が浮いたので、優花はラケットを力強く振り抜いた。
「──せぇいっ!」
豪速球の名に恥じぬ力強いスマッシュは、我ながら会心の一撃だった。だが、イーグルはギリギリのところで、それをラケットで受ける。
中途半端な態勢で受け切れるショットではないのだが、イーグルの腕力がそれを可能にした。イーグルは片足を浮かせた不安定な態勢のまま、腕の力だけでラケットを振り抜く。
返された球は、優花の足元をバウンドしてすぐ真横をすり抜けた。
「今のは決まったと思ったのいぃぃぃ……なかなかやるじゃない」
「優花ちゃんも、やっぱりすごいや」
イーグルは汗ひとつかいていないけれど、とても楽しそうだった。
丁度一時間が経ったので、二人はコートを出て靴を履き替える。
イーグルはジャケットを羽織り直すと、優花を見てニコリと笑った。
「楽しかった?」
「…………まぁ、うん」
なんで急にテニスを? とは思ったけれど、悪い気分ではなかった。高校を卒業してからはバイト三昧で、スポーツらしいスポーツをしていなかったのだ。
優花が素直に「楽しかった」と呟けば、イーグルは嬉しそうに「僕も」と頷く。
「体を動かしたらお腹が減ったね。お昼ご飯にしようか」
* * *
三つ揃いのスーツが似合う彼は、お洒落なランチ(昼食ではなくランチ)を食べるんだろうなぁと優花は勝手に思っていたのだが、彼が優花を連れてきたのは、公園からさほど離れていないところにあるラーメン屋だった。
彼は食券機に紙幣を入れて、迷わずトッピング全部乗せ(大盛り)を二つ選ぶ。
カウンターに座った優花は、お冷のグラスをイーグルに手渡しながら「意外だわ」と正直な感想を口にした。
「てっきり、お洒落なカフェみたいなところに行くのかと思ってた」
「ごめんね、そういうお店が良かった?」
「ううん、お腹いっぱい食べたかったから、助かるけど……その、私の好みに合わせさせちゃったかな、って」
優花が気まずそうにおしぼりで手を拭いていると、イーグルは油汚れの目立つ天井を見上げ、何かを噛みしめるような口調で言う。
「……僕が、来たかったんだ。優花ちゃんと」
どういう意味だろう、と聞き返そうとした時「全部乗せお待ちぃ!」とラーメン屋の親父が二人の前に丼を置いた。
大きな器に、はみ出さんばかりに盛り付けられたたっぷりのチャーシュー、メンマ、ネギ、海苔……そしてとろりとした黄身が美しい味卵に、優花の目が釘付けになる。
外食というだけで贅沢なのに、その中でも最上級に贅沢な全部乗せ!
「いっただっきまーす!」
優花は小気味好い音を立てて割り箸を割ると、早速目の前のラーメンに取り掛かった。
イーグルに何か言いたいことがあった気がするけれど、目の前のラーメンをのびてしまう前に美味しく食べることが、今の優花の最優先事項である。
なんてったって全部乗せ。子どもの頃、夢にまで見た全部乗せ!
(…………あ)
チャーシューを噛み締めながら、優花は子どもの頃のことをふと思い出した。
『おとなになったら、休日はテニスをして、お昼にラーメン屋でお腹いっぱいラーメンを食べるのよ。もちろん、トッピングは全部乗せね!』
それが「リッチでお洒落な大人の休日」なのだと、幼い優花は幼馴染の少年に力強く力説したのである。
優花は最後の一口を飲み込むと、ほぼ同じタイミングで食べ終えたイーグルを見た。
「……もしかして、私が昔言ったこと、覚えてたの?」
「それもあるけどね。僕が……したかったんだよ」
イーグルは箸を置くと、真剣な顔で優花を……ではなく、優花の背後にある券売機を見る。
「ところで僕、ラーメンのスープにご飯を入れるやつを一回やってみたかったんだけど、やっていいかな?」
「私、炒飯と餃子も食べたい」
優花が力強くそう言えば、イーグルは快活に笑って「餃子、半分こしよう」と言った。