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【幕間30】五マルク銀貨の希望

 父はいつも口癖のように言った。お前の母親が死んだのはお前のせいだ、と。

 少女が産まれると同時に母が死に、絶望した父は少しずつ心を病んでいった。

 少女が物心ついた時にはもう、父は仕事を辞めて酒浸りの暮らしをし、少女は学校にも行くことすら許されず、毎日花を売って暮らしていた。

 花が一つも売れない日は父に殴られるから、とにかく必死だった。花と一緒に自分の体を買ってもらえた日は、夕食のパンにスープが付いた。

 きっと、自分は成人する前に死ぬのだろう、と少女は薄々察していた。

 棒みたいな手足、肋の浮いた胴、明らかに栄養状態の悪い体だ。きっと長くは生きられない。病気の一つも患ったら、きっとそのまま病院に連れて行かれることもなく、自分は死ぬのだろう。




「やぁ、お嬢さん。花をもらえるかな」

 その日、少女に声をかけたのは、四十前後の身なりの良い男だった。綺麗に整えられた金髪、立派な三つ揃いのスーツ、ピカピカに磨かれた靴。見るからに裕福そうだ。

 どうせなら体も買ってもらえないだろうか。そうしたら、夕食にスープが付く。

 そんなことを考えながら、少女は花籠を男に見せた。

「……どの花を?」

「うん、全部もらおうかな。妹の部屋に飾りたいんだ」

「……!」

 男は「お釣りはいいよ」と言って、少女の手に高額紙幣を握らせる。そして、男は身につけていたマフラーを外して少女の首に巻いた。

 ダークグレイにネイビーと白のラインが入った上品な柄のマフラーは、少女が一度も触ったことのない最高級のカシミアだ。柔らかく、そして温かい。

「気休めかもしれないがね。無いよりはマシだろう」

 そう言って男は少女の頭を軽く撫でると、両腕いっぱいの花を抱えてその場を立ち去った。

 少女は男の背中を見送りながら、あかぎれのできた手でマフラーを握りしめる。

「……あたたかい」

 空っぽだった胸に、小さな火が灯った気がした。

 



 その晩、マフラーを巻いて帰った少女を見て、父は目を丸くした。

「おい、ロッティ。どうしたんだ、そのマフラー」

「……お客様に、もらった」

「よこせ」

 父は少女の首からマフラーを剥ぎ取り、自分の首に巻きつけた。

「おぉ、こりゃあフランス製のマフラーじゃないか。随分と羽振りの良い客が来たんだな。それで、今日の売り上げは?」

 少女が無言で売り上げを全て差し出すと、父は金額を確かめ、じろりと少女を睨む。その目は猜疑心に満ちていた。

「これで全部か? 隠していないだろうな?」

「……これで全部」

 少女は擦り切れたワンピースのポケットをひっくり返し、袖と裾をパタパタと振って見せた。

 父は少女が硬貨の一枚も隠していないことを確認すると、満足そうに笑う。

「それでいい。いいか、ロッティ、お前が得た物は、全て俺に差し出すんだぞ。一つ残らず全部だ……お前は、俺から妻を奪ったのだから、それぐらいしてもらわないと割に合わない。そうだろう?」

「……はい」

 それは物心ついたころから、何度も何度も言われてきた言葉だ。

 母の命を奪った自分には、何かを得ることなんて許されない。だから、全てを父に差し出さなくてはならない。

(……でも、なんでだろう)

 いつもと同じ食事、いつもと同じ寝床。

 何も変わらないはずなのに、やけに首周りがスースーと寒かった。




 一週間後、少女はマフラーをくれた紳士と街で再会した。

「やぁ」

「……こんにちは」

 少女はぎこちなく挨拶をし、頭を下げる。その首にマフラーが無いことに気づき、男は「おや」と首をひねった。

「今日はマフラーをしていないのかい? まだ冷えるだろうに」

「……マフラーは……父に……」

 とりあげられたという言葉を飲みこみ、少女は「あげました」と言う。

 男は驚いたようにパチパチと瞬きをしていたが、やがて目尻を下げてニコリと微笑んだ。

「君は父親想いの優しい娘なんだね」

「…………」

 この紳士は誤解している。少女は父親想いの優しい娘なんかじゃない。

 少女は生まれてきたこと自体が間違いの悪魔の子で、何かの所有権を主張することなど許されない……ただそれだけのことなのに。

「君はアンデルセン童話を読んだことはあるかな?」

「……? ……ない」

「あの童話にね、君によく似た少女が登場するんだ。自分の持ち物を全て差し出す、心優しい少女の話だ」

 少女は童話なんて読んだことがなかった。実を言うと、少女は読み書きが得意じゃない。自信を持って書けるのなんて、自分の名前ぐらいだ。

 だから、当然、アンデルセン童話も読んだことがない。

「……その少女は、最後、どうなるの?」

「アンデルセン童話は悲劇が多い」

 あぁ、つまり、その物語の少女も悲しい結末を迎えるのだ、と少女は思った。

 きっと、寒さに震えて野垂れ死にしたとか、そういう結末なのだろう。

 自分が遠くない未来に迎えるであろう結末を物語の少女に重ねていると、男は少女の手を取った。

「……だが、その物語の少女は、最後は両手で持ちきれないぐらいの銀貨を手に入れて、幸せになるんだよ」

 そう言って、男は少女の手のひらに五マルク銀貨を握らせ、穏やかに微笑む。

 それがまるで、少女もいつか幸せになれると言ってもらえたみたいで、少女はとくとくと高鳴る胸の前で銀貨をぎゅっと握りしめた。




 家に帰ると父は床に直座りして酒瓶を傾けていた。床には空の瓶が散乱しているから、きっと今日はカードで大負けしたのだろう。

 少女が帰宅したことに気づくと、父はどろりと淀んだ目で少女を見て、舌打ちをした。

「今日の儲けは?」

 少女が今日の売り上げを全部差し出せば、その少なさに父が舌打ちした。

「こんなんじゃ、酒の足しにもならん」

 少女はポケットの中の五マルク銀貨を差し出すべきか否か、一瞬悩む。

 今までなら、貰った物は全て父に差し出していたのに、何故かこの銀貨だけは渡したくなかったのだ。

 だが、その一瞬のためらいを父は見逃さなかった。父は太い腕で少女を床に引きずり倒すと、ポケットをまさぐる。その指が銀貨を探り当てると、父は眉を釣り上げて、銀貨を握った手で少女の顔を殴った。

「こんなモンを隠してやがったのか! 全部出せと言ったのに!」

 父は唾を飛ばしながら、あらん限りの罵声で少女を罵り、そして殴る。

 少女は悲鳴をあげることすらできぬまま、壊れた人形のように手足を投げ出し、父に殴られ続けた。

 あぁ、やっぱり、自分は幸せになれるはずなど無かったのだ。

 それなのに、幸せな物語に思いを馳せて、銀貨を渡すことを惜しんでしまった。だから、罰が当たったのだ。

 父は気がすむまで少女を殴ると、やがて五マルク銀貨を握りしめて家を出て行った。きっと、酒を買いに行ったのだろう。

 少女は痛む身体を無理やり起こして立ち上がり、ふらつく足で扉を開けて外に出た。しかし、そのまま数歩歩いたところで、力尽き、地面に崩れ落ちる。

 頭がグラグラして、吐き気が止まらない。手足が徐々に冷たくなっていく。

 きっと、自分はここで死ぬのだ。

(どうせ死ぬなら……)

 自分が持っている物を、全部差し出したかった。

 ……父ではなく、少女にマフラーと五マルク銀貨を与えてくれた、あの人に。


「君はシャーロットと言うんだって? 奇遇だね、私の妹と同じ名だ」


 頭上であの人の声がする。腫れた瞼を懸命に持ち上げれば、美しい星が見えた──あぁ、違う。あれは、あの人の髪の色だ。キラキラと輝く美しい金色の。

「君の体は、もうまもなく死ぬだろう。だが、私なら君を助けることができるかもしれない」

 助けてくれなくていい。と少女は思った。

 自分はもう助からない。このままゴミのようにみすぼらしく死んでいく。それでいいのだ。

 ただ、心残りが一つだけ。

「……あなたに、あげたかった。私の持っているものを、全部……全部……」

 そうしたら、いつか、自分も物語の少女のようになれただろうか? いいや、なれなくたっていいのだ。

 ただ、何でも良いから差し出したかった、少女に小さな夢を見せてくれた、この人に。

 男は少女のそばに膝をつくと、醜く腫れ上がった顔を白い手で優しく撫でて、囁く。

「だったら、君の魂をおくれ?」

 その言葉はまるで、人間を誘惑する悪魔のよう。

 それでも少女は構わなかった。

「…………あげ、る」

 血泡に汚れた唇でそう告げれば、男は聖人のように微笑み、少女の額に口づけを一つ落とす。

 その温もりを感じながら、少女は思った。


 生まれ変わることができるなら、この人の娘になりたい……と。



 * * *



「お前なんて死んじゃえ」

 クラークの上にアリスが馬乗りになり、その肉体を滅茶苦茶に殴りつけている。

 その光景を見て、ツヴァイが全てを「思い出した」のは、自分がかつて父にされた仕打ちが魂に強く焼きついていたからだろうか。

 あぁ、しかし、せっかく全てを思い出したというのに! あの人の娘になることができたというのに!

 もう、クラークが事切れているのは、誰の目にも明らかだった。

 彼の美しい金色の髪は血と脳漿に汚れ、年老いてなお整っていた顔は陥没している。それなのに、アリスはクラークの肉体を破壊することをやめない。青い目は正気を失い、憎悪に支配されている。

 ツヴァイはゆっくりと身体を起こし、周囲を見回した。アインスの姿がない。シャーロット贔屓のあの姉は、きっとクラークが死ぬや否や、鍵を持ち出してシャーロットを解放しに行ったのだろう。

 アリスはまだ正気を失っている。エディは気絶してピクリとも動かない。

(……それなら)

 ツヴァイは机の上にあるメモリーディスクをポケットに隠し、ふらつく足で隠し扉を開ける。地下室にはいざという時のために、隠し通路を用意しているのだ。内側から鍵をかけてしまえば、もうアリスやアインスに追いかけることはできない。

 ツヴァイはクラークの助手をしていたから、彼の研究の全てを知っている。

 彼の魂はまだ完全にデータ化することはできていないけれど、それでも試験的に記録した物の一部が、ポケットのメモリーディスクに入っている。

 彼の魂さえ無事なら、きっと蘇らせられるはずだ。

 ちょうど今、クラークの取引相手である日本企業の人間がこの国に来ている。このデータとツヴァイの中に記録されたデータを取引材料にすれば、協力を得られるかもしれない。

(……企業の名前は確か、グロリアス・スター・カンパニー)

 ツヴァイはポケットの上からメモリーディスクをそっと撫でる。

 まるで、愛しい人に触れるみたいに。


 ツヴァイは両手いっぱいの銀貨なんて望まない。

 望むのはただ一つ。


「……お父様、お父様……」


 希望をくれたあの人に、全てを捧げたい。


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