【幕間29】リーゼロッテ
シャーロットが大病院に入院し、手術を受けてから一週間が経った。
手術は成功したと聞いているが、リーゼロッテは手術が終わってから一度もシャーロットと面会をしていない。
クラークが言うには、手術は無事に終わったらしいけれど、それでもリーゼロッテはシャーロットのことが心配で仕方なかった。
入院中のお嬢様が退屈しないように、差し入れの本を何かお持ちしましょうか、とリーゼロッテが訊ねても、クラークは「必要ないよ」などと言うのだ。
あの本の虫のお嬢様が本を必要としないなんて……それはつまり、本を読むことすらできない状態だということではないだろうか?
更に気がかりが、もう一点。
シャーロットの手術の数日前から、シャーロットの母カリーナが失踪しているのだ。なんでもカリーナは、よその男と駆け落ちをしたらしい。
クラークは、カリーナの失踪については使用人達に固く口止めをした。レヴェリッジ家の醜態をよそに晒さぬように、と。
だが、いずれはこのこともシャーロットの耳に届くはずだ。
もし、お嬢様が知ったら、どんなに悲しむだろう……とリーゼロッテは胸を痛めた。
それから一週間が経ったある日、倉庫の掃除をしていたリーゼロッテは、倉庫のそばにまとめられたゴミの山に、見覚えのある物を見つけ、掃除の手を止めた。
倉庫のそばには、近いうちに捨てる予定の古紙やガラクタが山積みにされているのだが、その中に見覚えのある表紙が見える。
「これは……お嬢様の」
それはシャーロットが大事にしていた童話や鳥図鑑。シャーロットの手術前夜に、リーゼロッテが病室に持ち込んだ物だ。
どうしてこれが、古紙の束に混ざっているのだろう?
もしやと思い、その近くに放置された雑貨を漁ってみれば、シャーロットが大事にしていたオルゴールも出てきた。
オルゴールは他の雑貨の間に押し込まれるようにして、放置されていた。その捨て方に悪意のようなものを感じ、リーゼロッテはむむむと眉をひそめる。
本もオルゴールも、シャーロットの大事な宝物だ。こんなところに打ち捨てられていて良い物ではない。
(でも、誰が……)
シャーロットの病室に入ることができる人間は限られている。
まして、このレヴェリッジ家と病室を往復している人間ともなれば、お嬢様の世話係であるリーゼロッテを除くと、シャーロットの兄、クラークぐらいしかいない。
(クラーク様が? でも、どうしてこんなことを……)
嫌な予感を感じつつ、リーゼロッテは本とオルゴールを胸に抱いた。
このままこっそり使用人部屋まで持ち帰りたいが、移動中に誰かに見られたら、きっと咎められてしまうだろう。例え破棄する物と言えど、館の物を使用人が勝手に持ち出せば、叱責は免れない。
リーゼロッテはしばし考え、倉庫の扉を開けた。倉庫のどこに何がしまってあるかは、よく大掃除に駆り出されるので大体把握している。
リーゼロッテは普段あまり使わない倉庫の奥まで移動すると、ダンボール箱の陰に絵本とオルゴールをハンカチで包んで隠した。ここなら、誰も気づいたりはしないはずだ。
お嬢様が退院して戻ってきたら、ここから取り出して、こっそり渡してさしあげよう。
* * *
シャーロットが手術をしてから、一ヶ月半が過ぎた。
まだ、面会謝絶状態は変わらない。お嬢様の具合はそんなに悪いのだろうかと心配になり、リーゼロッテは何度かクラークにシャーロットの容態を訊ねたが「心配ない」の一点張りだ。
リーゼロッテは不安な気持ちを胸に抱いたまま、シャーロットの部屋の掃除をした。
お嬢様がいつお戻りになられても良いよう、常に清潔に保ち、ベッドメイキングもしている。あとは、この部屋の主人がいれば、完璧なのに。
シャーロットの部屋の掃除を終えたリーゼロッテは、シャーロットの母、カリーナの部屋の掃除に取り掛かった。
こちらの部屋もまた、主人がいなくなってしまったせいか、部屋全体がどことなく寂しそうに見える。
カリーナは戦争で夫を亡くした時から情緒不安定で、誰かに縋らないと生きていけないような、そんな弱い女性だった。
だから、どこの誰とも知らない男と駆け落ちしたと聞いても、使用人は誰も驚かなかった。
それでも、娘の手術の直前に駆け落ちするなんてあんまりだと、リーゼロッテは内心憤慨している。
部屋の内装は、この屋敷のどの部屋よりも立派な調度品に満たされていた。カリーナが部屋を出なくても快適に過ごせるよう、クラークが手配したのだ。
それなのに、そんな息子の心遣いも踏みにじって駆け落ちだなんて……。
悶々とそんなことを考えていたリーゼロッテは、ふと違和感を覚えた。
(……洋服ダンスの中身が空になっている?)
駆け落ちした人間が一人で持ち出すには多すぎるから、カリーナが駆け落ちした後に、クラークが衣類を処分させたのだろう。
だが、駆け落ちからまだ一ヶ月半しか経っていないのに、ここまで徹底して処分するのは早すぎないだろうか?
(……まるで、カリーナ様が帰ってこないと、確信してるみたい)
一介の使用人風情が、その家の事情に口出しするなんて許されないことだ。
だが、捨てられていたシャーロットの本やカリーナの服など、小さな違和感の積み重ねが、リーゼロッテの不安をかきたてる。
更に言えば、ここ最近、使用人の入れ替わりが激しくなった気がする。屋敷の住人が減ってしまったから、使用人を減らすというのは何もおかしなことではないけれど。何故だろう、妙な胸騒ぎがするのだ。
* * *
シャーロットが手術を受けてから三ヶ月が経ったある日のこと、リーゼロッテはクラークの書斎に呼び出された。
「君をね、別の家に紹介したいんだ」
「……それはクビ、ということでしょうか?」
「この家は、今、人間が少ないからね。そんなに使用人は必要ないんだ」
たしかにクラークの言うことは分かる。
だが、リーゼロッテはどうしても、この屋敷に残らねばならない理由があった。
あの倉庫に隠した絵本とオルゴール。あれをお嬢様にお渡しするまでは、辞めるわけにはいかない。
(誰かに頼むなんて嫌! 私が……自分の手で、お嬢様にお渡ししてあげたい)
リーゼロッテは食い下がった。多少給金が少なくなっても構わないから、ここにおいてほしい。
そう懇願すると、クラークは何かを考えるような素振りをした。
「……どうしても、この屋敷に残りたいと?」
「はい、私はシャーロットお嬢様にお仕えしたいのです」
メイド服のエプロンをギュッと握りしめて言えば、クラークはニコリと穏やかな笑みを浮かべた。
「そう、シャーロットのためにそこまで言ってくれるなら……お前の処遇は考え直さないといけないね」
そう言ってクラークは立ち上がり、上着のポケットに手を突っ込んだ。
次の瞬間、クラークはポケットから取り出したペン型の注射器を、リーゼロッテの首筋に刺す。
「──っ!? クラーク様っ、何を……っ!?」
リーゼロッテは咄嗟にクラークを突き飛ばそうとした……が、体に力が入らず、ズルズルとその場に崩れ落ちる。
重たい頭を懸命に持ち上げれば、ゾッとするほど冷たい目で自分を見下ろしているクラークと目が合った。クラークは口角を持ち上げて、残酷に笑う。
「望み通り、お前をシャーロットに仕えさせてやろう……永遠に」
* * *
手術台の上に一人の少女が横たわっていた。薄茶の髪をした、十三、四歳程度の少女だ。
少女はまるで人形のように静かに眠っていたが、やがてそのまつげを震わせ、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
「…………ぅ」
少女が仰向けになったまま、首を少しだけ動かして周囲を見れば、手術台のそばで少女の目覚めを見守っていた男──クラーク・レヴェリッジが、少女に笑いかける。
「やぁ、おはよう。自分の名前は言えるかね?」
「…………」
「何か覚えていることは?」
「……いいえ、なにも」
寝起きでもつれる舌を懸命に動かして答える少女に、クラークはがっかりしたように肩を落とした。
「うーん、やはり、記憶は完全に飛んでしまったか。血縁者の肉体でないと、魂の定着率は悪いらしい……それでも、自我が多少なりとも残っているだけマシかな」
ベッドの上に仰向けに寝ていた少女は、まずは指をゆっくりと動かした。彼女の体は普通の人間のそれとは違う。
人間の体をベースに、その殆どを機械や人工皮膚と入れ替えた人形だ。生身で残っているのは脳といくつかの臓器だけ。
「お前は本来別の肉体に入っていた魂だったのだがね、魂だけを取り出し、私が人工的に作り出したこの体に移したのだよ。本当に、前の肉体の記憶は残っていない?」
「はい」
即答する少女の顔を、クラークはじっと見つめる。
そんなクラークを、少女は呆けた幼子のように無垢な眼差しで見つめ返した。
クラークはようやく納得したような顔をし、少女の背中を支え、上半身を起こしてやる。
「何はともあれ、おめでとう。お前は、魂の定着実験における成功サンプルの第一号だ。そうだな、一番目だからアインスと呼ぼう」
「……私、は、あなたを、なんとお呼びすれば、よろしい、のですか?」
少女が拙い口調でぎこちなく問えば、クラークはニコリと微笑んで言う。
「私の名前はクラーク・レヴェリッジ。お前の父親だよ、アインス」
おとうさま、といかにも舌ったらずな口調で呟く少女に、クラークは満足そうに頷く。
「今日からお前は、私の妹の従者になるんだ。その命が尽きるまで、私のシャーロットに尽くしておくれ」
* * *
アインスは夜の庭を駆け抜け、一目散に屋敷の裏を目指していた。
全ては彼女のお嬢様のために。
何か欲しいものは無いかと問うアインスに、すっかり笑うことをやめていたシャーロットが、小さく小さく微笑んでこう言ったのだ。
──童話集と、鳥の図鑑がほしいわ。本屋で売っている物で構わないから
きっと彼女は、自分の私物は全て捨てられていると確信していたのだろう。
それでも、かのお嬢様は欲していた……優しい思い出のかけらを
だから、アインスは走った。
やがて屋敷裏にある倉庫にたどり着くと、閂を外して中に滑り込む。アインスはポケットから懐中電灯を取り出して、倉庫の中を照らした。
もう随分と長い時間が経つはずなのに、記憶の中にある倉庫と然程変わらない。
壁際に積み重ねられたダンボール箱。その裏側に手を差し込めば、固い感触があった。アインスはそれをそっと引っ張り出す。
埃を丁寧に払い、ハンカチを広げる。そこにあるのは、数冊の本とオルゴール。
「……やっと、お渡しできる日がきたのですね、お嬢様」
呟く声は幼いが、そこには万感の思いが込められていた。
彼女は全てを覚えている。シャーロットに仕えていたメイド、リーゼロッテの魂は、これっぽっちも損なわれてなどいない。
だが、それをシャーロットに知られるわけにはいかない。
リーゼロッテがこんな姿になったことを知ったら、シャーロットはきっと嘆き悲しみ……そして、自分を責めるだろう。
それだけは、絶対にあってはいけない。リーゼロッテはこれ以上、大事なお嬢様が苦しむ姿を見たくなかった。
(……リーゼロッテは、今も幸せに暮らしております。お嬢様)
だから、今日も彼女は演じ続ける。
舌ったらずで、無邪気で、頭の足りないメイドのアインスを。