【幕間28】いつかきっと、王子様に
物心ついた頃にはもう、彼は明らかに他とは違う存在だった。
母が異変に気づいたのは、彼が保育園に通っていた時のこと。
「翔、ほら、猫さんよ」
保育園の帰り道、母が道の横を歩く猫を指さした。野良猫のようだが、人馴れしているのか臆することなくこちらに近づいてくる。それが嬉しくて、翔は猫を抱き上げて頬ずりした。
「ねこさん、ニャーニャー!」
ゴキュリ。
「……ねこさん? ねこさん?」
異変に気づいた母が息をのむ。
首の捻れた猫は、もう動かなくなっていた。
それから、似たようなことが何回か続いた。
手にしたコップが砕けたり、眼鏡のツルが折れたり、ちょっとぶつかっただけの場所にヒビがはいったり。
母は何度も翔を病院に連れていったが、原因は分からないままだった。
まだ幼かった少年は、次は何を壊してしまうのかという恐怖を抱えながら毎日を過ごし、そして小学生になった。
彼はいつだって、人と接するのが怖くて仕方がなかった。
もし、怪我をさせてしまったら? あの猫のように死んでしまったら?
想像するだけで恐ろしくて、人を避けるようにしていたら、あっという間にクラスで孤立した。
無視されているのはまだいい。厄介なのは、その逆のタイプだ。
クラスに一人は、孤立している存在にちょっかいを出してくる奴がいる。
「よぉ、がり勉君。休み時間もお勉強かよ?」
うん、まぁ……と曖昧な返事をしたら、何故か頭を小突かれた。
別に痛くはなかったが、ずれた眼鏡を直しながら「痛いよ」と言うと、そいつは飛び退くような大袈裟なリアクションをして叫ぶ。
「やっべ、がり勉メガネに触っちまった! がり勉菌がうつるー!」
クラスの女子がキャーと悲鳴をあげる。
近くの男子が「うわ、やめろよー!」と笑いながら、逃げるふりをする。
くだらない茶番だ。冷めた気持ちでクラスメイトを視界におさめつつ、翔は考える。
(……僕のコレが病気なら、いっそこいつらに感染すればいいのに)
手の中で鉛筆がパキリと割れる。
翔はクラスメイトに見つからないように、こっそり新しい鉛筆を取り出した。
ある日、翔は力加減を間違えて、うっかり眼鏡のフレームを歪めてしまった。眼鏡は翔の持ち物の中で一番高価で、かつ繊細で壊れやすい物だ。普段から気をつけていたのに、ほんの少し力加減を間違えただけで、フレームはぐにゃりと飴細工のように曲がってしまった。
そのことを恐る恐る母に報告すると、案の定、母は烈火の如く怒りだした。
「また物を壊したの! いい加減にしてよ! これで何回目なの!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、お母さん!」
翔の特異体質が判明してから、母は毎日ピリピリしていた。
翔の家は母子家庭だ。父親はいない。母が言うには、翔が生まれる前にいなくなったらしい。
「この化け物! もういいから、あんたはそこでじっとしてて!」
そこ、と言って母が指さしたのは押し入れだった。
母の視界に入らない場所。化け物に相応しい場所。
翔が大人しく押し入れに閉じこもると、押入れの戸の向こうからテレビの音が聞こえた。母がテレビを観ているのだ。
(……そう言えば、この間、テレビをつけようとしたら叱られたっけ)
翔がリモコンに手を伸ばした時、母はヒステリックに叫んだ。
『さわんないでよ! また壊す気!? 修理代がいくらすると思ってんのよ!!』
どうやら化け物には、テレビを見る資格もないらしい。
楽しそうなバラエティ番組の笑い声は、いつだって酷く遠い。翔には観ることすら叶わぬ世界だ。
翔の母は決して息子に手をあげたりはしない。けれど、それは息子を思ってのことではなく、ただ息子の報復が怖いからだということを、彼は知っていた。母が彼を見る目には、いつだって恐怖の色がある。
(ねぇ、お母さん。僕、学校ではいい子にしてるよ。そりゃ、苛められてはいるけど、化け物って言われないようにちゃんと大人しくしてるよ。ねぇ、お母さん。お母さん。お母さん……)
* * *
学校にも家にも居場所のない翔は、放課後は外で時間を潰すようになった。
最初は図書館や公園を利用していたが、クラスメイトと鉢合わせることが多く、なにかと面倒だったので、その日は思いきって学区から少し離れた自然公園に足を運んだ。
自然公園と言っても半分ぐらい山みたいなもので、森林地帯の奥に行けば一人で静かに過ごすことができる。
スポーツ用のコートや、遊具のあるアスレチックゾーンはそれなりに人がいるが、森林地帯の方は殆ど人がいない。
これは当たりかも、とにわかに弾む心で森の奥へと進んでいくと、鳥の鳴き声がした。それも頭上ではなく、足元から。
目を向ければ、木の根本に鳥のヒナがいた。
灰色の産毛はまだまばらで、冬の寒さに耐えられるようには思えない。ピィピィという鳴き声もひどく弱々しかった。
「巣から落っこちちゃったの?」
すぐそばの木を見上げるが、鳥の巣らしき物は見当たらない。親鳥の姿もなかった。
「どうしよう……」
まずは温めてあげるべきだろうか。
だけど、もし自分が触っただけで、この小さな命が潰れてしまったら? ポキリとその小さな頭が折れてしまったら?
(どうしようどうしようどうしよう……)
鳴き声は段々と弱々しくなっていく。
(だけど、僕にできることなんて……)
「ねぇ、そこで何してるの?」
背後から声をかけられ、翔は思わず飛び上がりそうになった。
振り向けば、翔と同じぐらいの年の少女がちょっぴり不機嫌そうな顔で翔を睨んでいる。
少し癖のある髪をポニーテールにした、目つきと眉毛の凛々しい女の子だ。
「ここは私の秘密基地よ」
だからどっか行け、と少女は言外に匂わせている。
翔はオロオロしながら、木の根元を指さした。
「あの、ここに、鳥のヒナが……」
「鳥のヒナ?」
少女は翔の足元を見て、大きな目を更に大きく見開く。そして、その場で背伸びをすると、キョロキョロと木の上を見回した。鳥の巣を探しているのだろう。
「近くに親鳥はいるの?」
「いない、と思う」
きっとこのヒナは母親に捨てられたのだ。
母鳥に捨てられたヒナの末路は衰弱死か、或いは野生の動物の餌食になるか。想像するだけで悲しくなって、翔は目を潤ませた。
「この子、死んじゃう……」
「男の子がメソメソするな!」
「う……」
少女の一喝に翔が怯んでいると、少女は背負っていたランドセルを地面に置いた。
「私、餌を探してくる。あんたはその子を温める係ね」
「……え?」
「その子を抱っこして温めるの! ほら、手!」
少女は翔の手をむんずと掴むと、そこに可愛いタオルハンカチと使い捨てカイロを乗せた。そして、鳥のヒナをそっと持ち上げて翔の手に乗せる。
ゴキュリ、と猫の首が曲がる音が耳の奥で響いた……幻聴だ。
ヒナは翔の手の上で、か細いながらもピィピィと鳴いている。
「それで温めてあげるのよ。分かった?」
そう命令して、少女はどこかに走っていってしまった。
とりあえずカイロをタオルハンカチで包んでヒナにあてがうと、少しだけ元気になった気がする。
それでも、うっかり握りつぶしたらどうしようという不安に苛まれながら棒立ちになっていると、少女はすぐに戻ってきた。
泥だらけの手で、イトミミズを掴みながら。
(……女の子って、ミミズを見たら、普通キャーッとなるよね)
少女は特に気にした様子もなく、イトミミズを指でつまんでヒナのくちばしに近づけた。
「ほーら、ご飯だよー」
少女がイトミミズを左右に動かしてみせると、ヒナはパクリとそれを啄んだ。少女が顔を輝かせる。
「やった! 食べた! 普通のミミズじゃなくて、イトミミズにして正解だったわね!」
この少女は、恐らく普通のミミズでも躊躇なく掴むのだろう。
少女はフンフンと得意げに鼻を鳴らしながら、ヒナを撫でる。
「あはっ、かわいい~! フワフワ~!」
さっきまで怖い顔をしていた少女が、今は満面の笑顔だった。
こうして見ると、ちょっと目つきが鋭くて勝ち気そうだけど、可愛い女の子だ。ポニーテールがよく似合っている。
ぼんやりと少女の横顔を眺めていると、少女は翔の顔を覗きこんだ。
「ねぇ、あんたも撫でる?」
「え、いや、僕は……」
「遠慮しない遠慮しない!」
少女はさっと翔の手からヒナを取り上げて、自分の手のひらに乗せる。そうして手のひらの上のヒナを翔に差し出した。
撫でろ、ということだろう。
翔の頰をじわりと冷たい汗が伝う。
幼い頃、不注意で殺してしまった猫が頭をよぎる。
(さわるだけ……さわるだけ……)
翔は産毛をかすめるぐらいの距離で、慎重にヒナを撫でた。
ふんわりと柔らかな羽毛の下には、小さな命の温もりがある。
「……かわいい」
「でしょ! でしょ! かわいいよね!」
少女がフンフンとご機嫌で頷くのに合わせて、ポニーテールがふわふわ揺れる。
ふと、少女は目をくるりと回して翔の名札を見た。
「あんた、第一小の子なの? ここからだと、かなり遠くない?」
「あ、えっと……家はこっちの方なんだ」
勿論嘘だ。けれど少女は特に疑いもせず「ふーん」と頷き、チラチラと翔を見た。
「……また来る?」
「えっと、ここは君の隠れ基地なんだよね。迷惑なら、もう来ないけど……」
少女はなにやら口をムズムズとさせていたが、やがてキッと顔を上げると翔を真っ直ぐに見た。
「この子のお世話、手伝ってくれるんなら……来てもいいよ」
そして最後にぼそりと小声で「……手伝ってよ」とつけ足す。その唇を尖らせる仕草が、鳥のヒナに似ていて、翔は思わず目尻を下げて笑った。
「また、明日も来るよ」
「本当!?」
少女はパッと顔を輝かせる。口調こそぶっきらぼうだが、根は素直なのだろう。少女はニコニコしながら自分の名札を指で引っ張ってみせる。
「私、如月優花。優しいに花で、優花よ。あんたは?」
「僕は、宮越翔」
「じゃあ、翔君ね。よろしく!」
優花はヒナを地面に下ろすと、泥だらけの手をスカートでゴシゴシ擦った。そうして翔の手を握り、ぶんぶんと元気良く上下に振る。
久しぶりに触れた人の手は、とても温かかった。
その日から、翔は放課後になると秘密基地へ入り浸るようになった。
鳥のヒナの様子を見たり、優花と川遊びをしたり、他愛もない話をしたり。それは翔にとって、今までで一番楽しい時間だった。
二人は野山を転げ回って鬼ごっこや、かくれんぼをした。
疲れたら、優花が持ってきたおにぎりを半分こして食べた。クタクタになるまで遊んだ後で食べるおにぎりは格別だった。
ある時、優花が蔦を拾って、なにやら工作していることがあった。何を作ってるの? と訊ねたら、優花はにんまり笑って、それを自分の目元に掲げてみせた。輪っか状の蔦を草で結んだそれは、眼鏡の形をしている。
翔君とお揃い! と得意げに笑う優花に、初めて翔は自分の眼鏡を好きになった。
牛乳瓶の底みたいに分厚い眼鏡はいつだって同級生達にからかわれる理由だったから、それを馬鹿にしない優花の優しさが嬉しかった。
夏は川で笹舟を流したり、水切りをして遊んだ。たまに川辺で綺麗な丸いガラスを見つけると、優花は宝石を見つけたみたいに喜ぶので、翔は一生懸命綺麗なガラスを探した。
優花はいつだって、宝物を見つけるのが上手だった。
まぁるいガラス、艶々の木の実、セミの抜け殻、綺麗な葉っぱ。それを隠して宝探しゲームをしたりもしたものだ。
優花は食べられる実や花の蜜にも詳しくて、グミの実がなる木を発見した時は、二人でおおはしゃぎした。優花は欲張ってまだ青い実まで食べてしまい、その渋さに悶絶して転げ回っていたけれど。
その後、涙目になってツツジの蜜をチューチューと吸っている優花は、なんだかとても可愛らしかった。
そうやって優花と遊ぶうちに、翔は少しずつ自分の力の制御の仕方を覚えていった。
優花が指相撲や腕相撲をしようと誘ってきた時はヒヤヒヤしたが、それも上手に手加減ができるようになった。
例えば指相撲で、翔がすぐに負けてみせると優花は「手抜きした!」と怒る。だから、翔はギリギリまで勝負を粘らせてから負ける術を覚えた。
今までは気を抜くとすぐに、手の中の物を握りつぶしてしまっていたのだが、今では花を潰さず綺麗に花冠を作ることだってできる。
優花と一緒にいると、自分が普通の人間になれた気がして翔は嬉しかった。
「おかえりなさい、翔」
優花と出会って半年ぐらいが経ったある日、母は帰宅した翔を満面の笑顔で迎え入れた。
母から話しかけてもらえたのは、一体いつぶりだろう。
翔はとても嬉しくなった。
きっと、最近は物を壊さなくなったから、お母さんは自分のことを普通の人間だと認めてくれるようになったのだ。
感動に胸を震わせる翔に、母はニコニコしながら言う。
「あなたをね、息子にしたいって人がいるの」
「…………え」
「すごく大きな会社の社長さんが、あなたを気に入ってね。是非とも息子にしたいって」
母の言っている言葉の意味が分からなかった。
翔は引きつりそうになる唇を懸命に動かす。
「……僕は、お母さんの子だよ?」
「ほら、うちは貧乏でしょ? でもね、その家の子になれば、もっと裕福に暮らせるの。習い事だっていっぱいできるわ。あぁ、そうそう、眼鏡もね、もっとカッコイイ物を作ってもらえるわよ」
でも、と言い募る翔の肩に母は手を置く。
母の手は、今まで見たことのない綺麗なネイルアートで彩られていた。美しい爪の先端が、ギチギチと翔の肩に食い込む。
「あなたのためなのよ」
母の笑顔が恐ろしくて目をそらせば、テーブルの上に真新しいブランドバッグや服が広げられているのが見えた。
察しの良い翔はすぐに理解した。自分は売られたのだ、と。
翔の転校は一週間後に決まった。どうやらそれが、翔を養子にしたいという社長の希望らしい。
あまりにも早すぎる、という翔の声は当然のように聞き入れられることはなかった。
学校のことはどうだって良い。ただ、優花と会えなくなるのが悲しかった。
翔が急な引っ越しが決まったとだけ優花に告げると、優花はぽかんと目を丸くし、次の瞬間、顔をくしゃくしゃにして叫んだ。
「やだ!」
いつもはお姉さんぶりたがる優花が、その時だけは、まるで駄々っ子みたいだった。
目に涙を浮かべて地団駄を踏みながら、優花は繰り返す。
「翔君、引っ越しちゃやだ!」
「……でも、もう決まったことだから」
「やだ! やだ! やだぁ!」
翔にはどうにもできないということを、優花も分かっていたのだろう。それでも感情が追いつかない様子で、優花は癇癪を起こしていた。
泣きそうになるのを無理やり我慢したような酷い顔で、優花はヤダヤダと繰り返す。
それを翔が必死になだめていると、優花は翔の手を振り払った。
「翔君なんてもう知らない。どこにでも行っちゃえ!」
「優花ちゃん! 待って、優花ちゃん!」
翔が止めるのも聞かず、優花は泣きじゃくりながら山を駆け下りていく。
次の日、優花は秘密基地に来なかった。
その次の日も、次の次の日も。
* * *
とうとう転校まであと一日となった日の放課後、翔はさして多くない私物をまとめていた。
教室に置いてある物は計画的に持ち帰ったから、残ったのは文房具とクラスメイトからの寄せ書きの色紙だけ。
色紙で飾られた色紙に書かれているのは「転校したら友達つくれよ」とか「ねくら卒業!」「バイバイメガネ君」など翔のコンプレックスを揶揄するような言葉ばかり。
こんな色紙より、優花がくれた丸い石やガラス玉の方が、翔にとっては大事な宝物だ。
(……優花ちゃん、今日も秘密基地に来ないのかな)
暗い気持ちでうなだれていると、背後から伸びてきた手が翔の眼鏡をサッと奪い取った。
「…………えっ!?」
極度の近視で乱視の翔は、眼鏡がないと手元すらろくに見えない。それでも自分の背後に三人の同級生がいるのは何となく分かった。
ゲラゲラという笑い声には聞き覚えがある。いつも自分に絡んでくるクラスメイトと、その取り巻きだ。
「おいおい、宮越ぃ。転校先にこんなもん持ってっちゃダメだろぉ?」
「そうそう! 眼鏡は卒業〜!」
「イメチェン、手伝ってやるよ!」
そう言って、取り巻きの一人が翔を押さえ、もう一人が翔の髪をグシャグシャとかき回した。
シャキン、シャキン、という音がして、首筋にパラパラと何かが触れる──髪を切られたのだ。
「やめて、眼鏡、返して……」
「動くなよー! 手元が狂うだろぉー?」
この三人を振り払うことは簡単だ。だが、彼らは今ハサミを持っている。
もし、振り払った拍子にハサミで怪我をさせてしまったら……そんな恐怖に、翔は凍りついた。
やがて、彼らは床屋ゴッコに飽きたのか、適当なところで髪を切るのをやめる。指先で触れた髪は、酷くザンバラになっていた。
「カッケーじゃん、宮越!」
「いけてる、いけてるー!」
ゲラゲラと笑う同級生達は、今日で転校する翔になら、何をしても許されると思っているのだろう。
「……眼鏡、返して」
眼鏡が無いと、物にぶつからずに歩くことすら困難なのだ。下手をしたら家に帰れなくなる。
だが、同級生達はキヒヒと喉を鳴らし、一斉にその場を駆け出した。
翔は「待って!」と叫びながら、ふらふらと彼らの後を追う。周囲が見えないせいで、ロッカーや机に何度も足をぶつけた。
「おーにさーん、こーちらー!」
「てーのなーる、ほーうへー!」
同級生達は手を鳴らしながら廊下を走り、階段を駆け下りる。翔は落ちないように気をつけながら、慎重に階段を降りた。
「お願い、返して!」
叫んでも同級生達はまるで聞いてくれないばかりか、とうとうグラウンドに出ていってしまった。翔は上履きを履いたまま、覚束ない足で追いかける。
ふと、眼鏡を持っている取り巻きが立ち止まった。チャンスだと駆け寄ると、その少年は眼鏡を他の一人にポイと放り投げる。
「へい、パス!」
「おう、ナイスキャッチ!」
翔が眼鏡を手にした少年を追いかければ、今度はその少年が、眼鏡を別の少年に投げる。
翔は遊具に体をぶつけ、転んで足を擦りむきながら、返してほしいと懇願した。だが、まるで聞き入れてもらえない。
また別の少年が眼鏡を放り投げようとしたその時──少年の一人が突然倒れ込んだ。その背後に誰かが仁王立ちしている。その誰かが、少年にタックルをしたのだ。
その姿はボヤけて翔にはよく見えない。だが……
「あんた達! 翔君の眼鏡を返しなさいよ、ドロボー!」
よく響くその声を、翔が聞き間違える筈がない。
「……優花、ちゃん?」
返事の代わりに、フンスという威勢の良い鼻息が聞こえる。
優花にタックルをされた同級生の少年は、不満の声をあげた。
「はぁ? これはオレらが拾ったんだよ」
そーだそーだ、と他の二人が同意の声をあげれば、優花はそれをピシャリと切り捨てた。
「見えすいた嘘ついてんじゃないわよ! そもそも、ゴリラに眼鏡なんて必要ないでしょ。人間に進化して出直してきなさい!」
「てめっ! 女のくせに生意気なんだよ!」
ドン、と誰かが突き飛ばされる音がした。おそらく、リーダー格の少年が優花を突きとばしたのだ。
「優花ちゃん!」
翔は悲鳴をあげた。助けなくては! だけど、視界が不明瞭なせいで、揉み合う人影のどちらが優花なのかが分からない。
翔が狼狽えていると、優花は勇ましく吠えた。
「はん! ゴリラの癖に生ぬるいのよ! ……っらぁ!」
離れている翔にも聞こえるぐらいの大きな音がした。ゴン! と何かがぶつかる音だ。
少年の一人が悲鳴をあげる。
「こいつ! 女の癖に頭突きしやがった!」
「うわぁ、鼻血がぁ!」
「もう一発くらいたい!? 次は前歯折るわよ!」
優花の怒声に、少年達は捨て台詞を口にしながら、バタバタとその場を逃げ去る。
優花は地面に落ちた眼鏡を拾い、翔の顔にかけた。
ボヤけた視界がクリアになれば、そこには砂まみれになって額から血を流している優花の姿がある。
「ふん、口先だけで、たいしたことないゴリラだったわね」
「優花ちゃん! 血が! 頭から血が出てるよぅ!」
「別に大した怪我じゃないわよ」
優花は手の甲で雑に額の傷を擦った。だが、そのせいで余計に血がべったりと広がり、ますます痛ましい姿になる。
「優花ちゃんが死んじゃうー!」
「泣くな! こんなんで死ぬわけないでしょ!」
メソメソと泣きじゃくる翔を怒鳴り、優花は不貞腐れたような顔でそっぽを向いた。
「……それより、助けてもらったら、なんか言うことあるでしょ?」
「あっ……ありがとう。でも、なんで……」
「なんでって、なによ?」
「……なんで、僕なんかのために、ここまでしてくれるの?」
優花は何故か真っ赤になって黙り込む。かと思いきや、今度は視線を左右に彷徨わせながら、あーだの、うーだのと口ごもった。
そして最後は、拳を握りしめて男らしく啖呵を切る。
「翔君の物は、私の物よ! 私が私の物を取り返して何が悪いのよ!」
なんともガキ大将的な発想であった。
唖然とする翔に、優花はムキになって両手を振り回しながら言い募る。
「私は私の物を取り返しただけよ。だから、翔君が気にすることなんて何もないんだからね! 分かった!?」
翔は勢いに負けてこくりと頷き、ぐすっと鼻をすする。その顔に優花がハンカチを押しつけた。自分の方が砂と血で汚れて酷い顔をしているのに。
「……いつまで泣いてんのよ。泣き虫」
優花はグイグイと翔の涙を拭うと、最後はその頰に手を添えてポツリと言う。
「……この間は、いじわる言って、ごめんね」
きっと、その一言が言いたくて、優花は翔の小学校までやってきたのだろう。
翔は目を腫らしたまま、へにゃりと笑った。
「ううん、僕、気にしてないよ」
転校も養子になることも全て決まったことだ。今の幼い翔では、どうすることもできない。
それでも……
「いつか、優花ちゃんに相応しい王子様になって会いに行くよ。それまで待ってて」
優花の顔を覗きこんでそう言えば、優花はパチンと瞬きをした。そうして、恥ずかしそうに口をむずむずさせる。
「私の王子様になるんなら……泣き虫も、直しときなさいよ」
翔は力強く「うん」と頷き、心に誓った。
いつか大きくなったら、自分の足で会いに行くのだ。
気が強くて、意地っ張りで、でも誰よりも優しい翔のお姫様に。