序章 空間の境目の出来事 二話
タイトアイト王国、第二王子の四歳の誕生日が盛大に行われた土の日の翌日。その第二王子が行方不明となった。
最初に第二王子が居ないことに気付いたのは従者のヴィクトルであったが、彼はずっと王子の部屋の扉の外で警護をしていた。つまり王子は窓から自分で抜け出したか、はたまた連れ去られたかと言うことになる。
これには国中が騒然となった。なんせ昨日の今日で王子が居なくなったのだから。王様も年の離れた弟想いの第一王子も自分たち自ら小さな家族の王子を探しに行こうと無理をするので、側仕えや護衛騎士たちは頭を悩ませていた。
そしてそんな混乱に陥りかけている王国をそっちのけに消えた第二王子はと言うと…。
『ヒルグランド王子!こっちこっち!!』
まだ日が昇り始めて少ししか経っていない暗い時間だけど、僕は仲の良い妖精に導かれて森の中を進んでいた。それはちょっとした好奇心からだった。
妖精たちの崇拝する女神さまが祝福したがっているからと、寝ようとしている時に窓辺にやってきたものだから、少しだけ抜け出すくらいなら大丈夫かなと思ったのだ。
誕生日を盛大に行われたとはいえ自由に動けるわけじゃないからストレスがたまっていた僕にとっては喜ばしい知らせだった。冒険気分で妖精の後を追うように森の中に足を踏み入れる。
「…わぁ」
思わず驚きの声が漏れる。
そこは夜でも輝かしく、また騒がしい王都とは打って変わって静かで薄暗い場所だった。今夜は月が出ているせいかそこまで暗く見えないけれど、普通の大人でも人の住む世界とは別の世界のようなこの場所に好んで足を踏み入れようとは思わないだろう。しかし好奇心旺盛な僕にとっては最高の場所だった。
妖精はそんな僕の様子を見て笑みを深める。それからまた催促するように言った。
『もっと凄いところがあるんだよ!王子、ついてきて!!』
そして王子の前をひらひらと飛んでは小さな手を振りつつ先へ進もうとする。
この時すでに僕は操られていたのかもしれない。
なんの疑いも持たずに妖精の後を追って森の奥へ、奥へと進んで行ったのであった。
それから間もなくして、辺りの空気がまた変わったのに気が付いた。先程までの夜独特の雰囲気は消え、神秘的な何かというものだろうか、とにかくこの世のものではない何かを感じた。僕はここで初めて自身の迂闊さに不安を覚えたのである。
だがしかし、もう時遅し。
妖精はさっさとこちらを振り返りながら先を進んで行く。こちらの話を聞くつもりはないらしい。全くと言っていいほど声をかけてこなくなった。それどころか、気付けば他の妖精たちに周りを固められていて、逃げ道が亡くなっていたのだ。正直これから何が起こるのかわからない状態なのが非常に怖かった。
そんなことを考えているうちに、目的地に着いたらしい。最初から先導してくれていた妖精が満面の笑みをその小さな顔に浮かべて言ったのだ。
『ようこそ!生霊館へ!!』
僕は思わずポカンとしてしまった。王子としては失格かな…。右隣を飛んでいたふんわりした妖精は笑った。
『王子があまりに緊張してるから何て声かけていいのかわかんなかったの、ごめんね』
その言葉が僕の考えていた事とかけ離れていたため一瞬混乱したが、やはり僕はまだ子供だ。それを素直に受け入れてしまう。
「…あぁ、うん。こちらこそ」
そんなやりとりをしていると、先導してくれた妖精は僕を生霊館の中へと誘う。つい、先程までの警戒を忘れ中へと足を踏み入れた。
そこには精霊とは似ても似つかない、それこそ人ではありえないような美しい女性が聖母のようにこちらを向いて微笑んでいた。思わず、ゴクリと喉が鳴る。
あり得ない程美しい聖母のような女性はクスリ、と笑ってまた美しい声で僕を呼んだ。
『ヒルグランド王子、こちらへいらっしゃい』
母と口調が似ているな、とのんきなことを考えていた僕は手招きされてつい無意識に女性の方へと歩いて行った。気付けばすでに用意されていた椅子に座ってお茶を飲んでいたことに驚いた。女性は表情を変えずに淡々という。
『まずは…四歳のお誕生日おめでとうございます』
僕は何だか不思議な気分で会釈した。女性はまだその名前を教えてくれない。
『そんな緊張なさらないで…あぁ、そうでした。私、運命を司る女神マリフレシアと申します』
以後、お見知り置きをと口にした女性は、なんと女神だった。僕はまたここで吃驚してお茶を飲む手を止め、また納得もしていた。
ああ、だからこの方はこんなにも人間離れしているのか、と。
人間でないことを考えていなかったとちょっとズレた反省をしながら「女神様だったのですか、お会い出来て光栄です」と、王族らしく言った。
多分この場に母上が居たら褒めてくれただろう。女神さまは少し目を細めて僕を褒めちぎる。
『まぁ!まだ四歳ですのにずいぶんと賢いのですね。先程の返事、とても素晴らしかったですわ』
僕は思わず照れてしまい、少しどもりながらもお礼を述べる。
「そんな、兄上はもっと賢かったと聞いています。僕等平凡な方だ、とよく言われますから」
女神さまは少し考え込むように目線を下げて、何か思いついたように顔を上げた。
『では、こうしましょう!あなたの四歳の誕生日のお祝いとして、生霊を授けます』
いかがかしら?と悪戯を思いついたというような表情でこちらをじっと観察しているのが分かった。僕が何を言おうとも多分この御方は実行するために逃げ道を塞いでいくだろうという確信もあった。別に悪い話でもない。そう考えて、神であるマリフレシアの怒りを買う事もないように、丁寧にお礼を述べた。
「ありがとうございます。謹んでお受け取りさせていただきます」
頭を下げたことに満足したのか、先程よりも笑みを浮かべて立ち上がりながら女神さまは言う。
『ではこちらへ、泉へと案内いたしますわ』
そこからは流れる川に身を任せているような気分で女神さまに連れられて…気を失った。
気付けば夢の中で、ある人を見ていた。僕よりも年上で平民のような言動だけど小綺麗で、どこか異質な存在。こんな人を今まで見たことも知り合った事もない事から、創造かなとも考えたけど違う気がした。
そんな感じで考えながら眺めていたら、彼が目を覚ましたようだ。王族だから一応上からだけど先程まで倒れて眠っていたのだから心配になって声をかけた。
「こんにちは」
…ん?聞こえていないようなそんな当たりの見まわし方に首を傾げてもう一度声をかける。
「こんにちは」
ハッと吃驚したようにこちらを振り返った彼はまだ言葉を発さない。夢の中のようだから聴こえずらいのかもしれない。僕はなるべく優しく言った。
「こんにちは、気が付いた?」
彼は困惑したように視線を動かして僕を眺めてから、こちらの問いに答えずに質問してきた。
「ここは一体どこですか?」
それはつまりこの場所は、という事だったのだろうけど、僕は自分の夢の中だという事を忘れて国名と自分の名を口にした。
「ここはタイトアイト王国。僕はこの国の第二王子ヒルグランド・タイトアイトです」
そしてお辞儀をしていると女神さまが僕の夢の中に現れた。不思議と何故ここに居るのかも本物かもわからないのに居ることを許していた。操られていたのかもしれないけど、僕は何も言わずにただ成り行きを見守ることになった。
しばらくして唐突に先程の彼に名をつけろと言われて驚いた。正直何も考えずに睡魔を抑えていたのだから仕方がないと思う。けど考え始めてから彼を見て、ぱっと思いついた。
「ジル」
そう口にした瞬間彼はまるで精霊や妖精たちのように体が光に包まれて、姿かたちを変えた。
それは見事なほど美しい小さな氷の貴公子のような姿だった。髪は黒かったのが夜空のような紺色に、少し茶色の瞳は月のような金色に、そして無地の小綺麗だったシンプルな服は王族で着るような上質で美しい白の正装となっていた。所々に金の縁取りがされていて帯が腰に巻かれ、複雑な刺繍がびっしりとされている。さすが女神さまと称賛を言いたくなるのを必死にこらえ、睡魔に耐えながら彼…ジルの姿を目に焼き付けていた。しかし堪えきれずに思わず欠伸をしてしまった。
「あらあら、ヒルグランド王子はそろそろ眠らなければなりませんね」
女神様はそう言って僕の頭をそっと撫でてくれた。その瞬間何だか急に意識が遠くなり、視界がぼやけて段々と見えなくなっていった。心地よい睡魔に促されて、僕はあっという間に意識を手放した。
「ヒルグランド王子様、お目覚めのお時間でございます」
筆頭側仕えのばあやことセシルに起こされて、僕は眠気が抜けないまま身体を起こした。欠伸をしながらばあやに返事をする。
「おはよう、ばあや」
最近は我が儘を言って寝続ける事が多かったが、今日は気分がよくてすんなり起きれたのだ。ばあやはふふふ、と嬉しそうに笑って「はい、おはようございます」と言うと、すぐに支度を促してくれる。仕事を始めるばあやをしばらくぼーっと眺めてからカーテンが大きく開かれた窓際に視線を移した。そこには見慣れない妖精が窓枠に座っていた。首を傾げながら声をかけようか迷っていると、外を物憂げな表情で眺めていた妖精は視線に気づいたようで、こちらを向いた。そして見た目通りになった澄んだ音色の貴公子らしい声で挨拶をしてきた。
「ヒルグランド王子、おはようございます。よく眠れましたか?」
口調は今まで関わってきた妖精たちと打って変わって、よく教育されたものだった。思わず目を見開いてたどたどしい返事をしてしまった僕はまだまだだと思う。
「お、おはようジル。うん、よく眠れた…けど」
言い切れなかったことに疑問を感じたのか、ジルは首を傾げて先を促すように言う。
「何かご不満がございましたか?」
僕はちょっと恥ずかしいなと思いながらも素直に白状する。
「じ、ジル!堅苦し過ぎて嫌だ!口調変えて!!」
周りで身支度を整えていた侍女たちはクスクスと笑っていたが気にしない。あのばあやですら僕が普段どれほど寂しがっていたか知っているせいだろう。何も言わずにニコニコと成り行きを見守っていた。ジルはちょっと拍子抜けしたかのような表情になると、苦笑した。
「…そう、か。うん、仕方ないよね。まだ四歳だし…」
ブツブツと何かつぶやき始めると、ばあやがジルの近くによってこそっと何かを話すのが分かった。ジルは納得したかのように頷くと、僕の目をじっと見るなりニコッと笑った。
「じゃあ改めて…ランド王子、ジルと言う名をありがとう。これからよろしくね」
母しか読んでくれない僕の愛称で、更に名を上げたことを喜んでくれたこの妖精に嬉しくなって思わず泣きそうになっていると、ばあやがニコニコ笑ったままこういった。
「私達からのささやかなプレゼントですよ、ランド王子」
この日を境に公式の場以外での僕の呼び名が愛称に変わったことが、やっと受け入れられたと嬉しくてたまらなかった。