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負け犬船の錨を上げろ。

作者: 狐目

『泥船』『ナマ足』『錨』の三題噺です。

 雨が降った後のような肌に付き纏う不快な蒸し暑さがそのバーの中には満ちていた。昼だというのに店内は薄暗く、酒と汗の臭いが混じり合い異臭となって部屋の中に漂い、陰気な雰囲気がその場所をすっぽりと包み込んでいた。

 この店の名前は『沈没亭』。人の道を外してしまった人間がただ安いだけの酒を求め、昼間からやってくる、別名『負け犬の船』と呼ばれる場所だった。

 ここにいる人間はギャンブルで身を滅ぼした者、快楽に溺れた者、全てを騙し取られた者、様々な事情を抱えているが、皆同様に明日を生き延びる金も定かではなくその事実を忘れるために酒を貪るりにきていた。

「くそっ!」

 何度となくこの店で吐き出されてきた言葉を、その男も苦々しげに口にした。男はまだ二十代だろう、どこで道を外したのか金色に染めた髪と胡散臭い柄入りのシャツを身に纏ったチンピラ風情といった格好をしていた。

「ちくしょう! 面白くないっ!」

 全ての苛立ちをぶつけるように男は近くにあった木箱を蹴り飛ばす。しかし、そんな男の乱暴な行動を前にしても店の者や客は止めようとする動作すら起こさない。

 この店にいる人間は理解しているのだ、自分たちが、そしてここにいる人間全員がどうしようもない負け犬だという事を。

 暴れている男の近くの席では1人の脂ぎった小太りの男が涙ながらに酒を煽っている。どれくらい泣き通しなのだろう、目はウサギのように真っ赤に腫れ、ボトルの量も尋常では無いほど溜まっていた。

 店の端では小柄な白髪交じりの中年男性がブツブツと何かを呟きながらピクリとも動かずにそこに座っていた。

 彼らは認めたくなかったのだ、自分たちの状況を、明日ですらキチンと生き延びる事が出来るか分からない、そんな絶体絶命な状況を認めたくなかったのだ。

「ちくしょうっ! ちくしょうっ! ちくしょうっ!」

 チンピラ風情の男が木箱を怒りに任せて蹴り続ける。小太りの男は涙を流し続け、中年男性は何かをただ呟き続けていた。永遠に続きそうにすら思える、この不の連鎖。ここにいる彼らもいつこの場所にすら来ることが出来なくなる、そんな不安が彼らの脳裏を離れなかった。

 陰気に包まれた店内から誰も抜け出す事が出来ず、暴れ、泣き、呟き、そしていつか消えていってしまうのだ。それがこの店に訪れた客の末路だった。淀んだ空気の中、彼らはただがむしゃらに、今の自分たちを忘れるために、酒を流し込んでいた。

 そんな時、風が吹いた。

 轟音を立て、蹴り飛ばされたような勢いで店の扉が開いた。

「邪魔するぜ」

 開いた扉の前に立っていたのは1人の二十代前半ぐらいの不適な笑みを浮かべた男だった。

男はジャージに胸にペガサスのネックレスを下げているだけで、服装はこの店にいる面子に負けず劣らず貧相であったが、その顔には張りがあり、この店にいる人間とは別格に明るかった。

顔に意味ありげな笑みを浮かべながら、男はゆっくりと店の中へと足を進めていく。

「ふん、ここが負け犬の船ねぇ。随分と陰気くさい場所じゃないか。こんな場所に溜まってたら、抜け出せる地獄も抜け出せないわな」

 物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回しながら、男は口元に余裕に満ちた笑みを浮かべそんな言葉を口にした。そして、その言葉は当然のように木箱にやりきれない怒りをぶつけていた、チンピラの沸点を超えさせた。

「何だとてめぇ! 殺されたいのかっ!?」

 ドスの効いたというよりも、金切り声に近い叫びを上げてチンピラは問答無用で拳を固め、男へと突っこんでいく。しかし、そんな状況でも男は口元の笑みは消えなかった。

ただ、余裕の笑みを浮かべながら突っこんでくるチンピラを値踏みするような目で見ていた。

「いきなり物騒だな。それとも殴りかかるのが、この店の挨拶なのか?」

 飛ぶような勢いで突っこんでくるチンピラ男の拳を男はそんな軽口を口にしながらボールでも受け止めるかのように、男の拳を片手で止めた。そして、どういう原理か男がチンピラの腕を抑えると、まるで滑るように滑らかにチンピラの体が地面へと叩きつけられた。

「なっ、何しやがるっ!?」

 突然の状況に男の脳は理解が追いついていないのか、地面に倒れながらバタバタと暴れる。男は取れたての魚のようにジタバタと暴れるチンピラを押さえつけながら、小さく笑みを浮かべた。

「話がある」

「はぁ!? 話だって?」

 男の言葉にチンピラは吐き捨てるようにそう叫んだ。そんなチンピラに、男は更に笑みを深めるとこう言った。

「もう先の無いお前たちを救ういい話があるんだ」

 どこか不敵に微笑むその男の顔は、この店では決して見ることなど出来ない確かな自信が溢れている表情を浮かべていた。




 この店に来ていた3人の男たちを中央のテーブルに集めさせると、この突然やってきたジャージ姿の男は椅子にドカリと腰を下ろして、全員を値踏みするような目線で見ながら話を始めた。

「さて、ここにいるお前たちは全員、借金漬けの生活を送ってるんだろ?」

 単刀直入なこの男の言葉に真っ先にチンピラの目つきがキツくなったが、先程の事を思い出したのだろう、暴れだすような事はせずに『っち』と舌打ちするだけに留まった。

 そんなチンピラの反応に満足したのか、男はニヤニヤと笑いながらここにいる全員に向かって言った。

「んでだ、俺がその借金を無くす手伝いをしてやるって言ったらどうする?」

「はぁ? 俺の借金を全部返してくれるっていうのか?」

 訳の分からないこの男の発言に、チンピラは呆れた顔を浮かべた。チンピラたちからすればこの男の言葉は極度に現実味が欠けていたのだろう。

しかし、男はそんなチンピラの反応も予期していたのか、小さく肩を竦めた。

「いや、ちょっと違うな」

 チンピラに向かって小さく首を振り、男は言った。

「潰すんだよ。お前たちが、借金している場所をな」

 まるで何でもない事のように男はそれを口にした。

自信満々な男の言葉とは裏腹に周りの3人は一瞬目を見開き、それから心底呆れたような顔を浮かべた。特にチンピラは苦笑を浮かべ、この男をあからさまに見下すような目線を向けて子供を諭すような口調で言った。

「何、ふざけた事言ってんだよ。借金してる場所を潰すっだって? 寝言は寝て言うもんだぜ。そんな事が可能なら、俺はとっくにやってんだよ。もっと現実を見な」

 そんなチンピラの言葉に賛同するように後の二人も口を開く。

「む、無理ですよ」

「出来る訳無い」

 この3人にとってこの男の提案は単身で戦車に突っこんで戦車を粉々にするぐらい、ありえない事だった。だが、男はそんな三人の言葉に怯む所か、大袈裟にため息を吐き出した。

「おいおい、お前らはどうせ明日生き延びれるかも分からない、人生負け組なんだろ? だったら、せめて反撃する勇気ぐらい見せろや。それとも、そんな事も出来ない弱虫野郎なのか?」

 安っぽい挑発めいた事を口にする男。そんな男の言葉に始めに反応したのはやはりチンピラだった。

「ふざけんなよ、こらっ!」

 チンピラは怒りをぶつけるように、テーブルの上に置かれていた空き瓶を地面に叩きつけると、男に向かって叫んだ。見知らぬ男にふざけた夢物語を語られ、更には馬鹿にされ、チンピラの怒りは頂点に達したのだ。

「ふざけるな、何がグループを潰すだ! 何が、勇気を見せろだ! ふざけんなよっ! お前は分かってんのかよ、俺がどこから金を借りてんのか! あのグループはなっ───」

「槻代グループだろ?」

 顔を真っ赤にしヒートアップしていくチンピラとは対象的に男は冷静にその言葉を口にした。そのどこか底冷えするような冷たい声に、チンピラは思わず口を閉ざしてしまう。

「槻代グループ。財閥である天馬家の分家であり、悪徳非道な営業方法で多くの街の闇を支配している。特にこの街は槻代の影響が強く、この街の犯罪の全ては槻代が関係あるって言われるぐらいだからな」

 淡々と教科書でも読み上げるように槻代の事を説明していく男。そんな男の説明にチンピラは苛立ったように、髪を掻き毟った。

「それが分かってるんなら、不可能な事ぐらい分かってるだろうがっ!」

吐き捨てるようなチンピラの言葉に、しかし男は不敵な笑みを絶やさずに答えた。

「不可能じゃないさ。俺と、お前たちの力があればね」

「てめぇは俺たちの何を知ってるんだよっ!」

そんな男の言葉に、チンピラはヒステリック気味に叫んだ。彼らにとってこんな夢物語の安っぽい希望を聞かさる事は、自分たちが余計に惨めに思えたのだ。けれども、そんなチンピラの叫びを冷やかに受け流しながら、感情の無い声で言った。

「中村慶介、25歳。元槻代グループの古川事務所の構成員。まだ、現役だった頃は会計士として仕事してたんだろ?」

 先程と同じように淀みの無い説明にチンピラ男、中村が言葉を詰まらせる。しかし、男の説明はまだ終わらなかった。

「お前は事務所に売られた口だろ? 麻薬が摘発されてお前だけが捕まっちまった。んで、刑務所から出てきた時にはお前の居場所は無かったってわけだろ」

「てめぇっ」

 図星なのか、中村は悔しそうに唇を噛む。中村の反応に満足が言ったのか、男は小さく微笑むと今度は顔を小太りの男へ向かって指差した。

「お前は山内丹治、34歳。元鍵屋だろ。結構な腕前だったらしいな。何でもでかい南京錠すら数秒で開けれる程だったと聞いたぜ」

 小太りの男、山内もはそこでようやく反応し男へと顔を向けた。

「ただ女好きなのが災いしたんだな。槻代グループが経営しているクラブで女に貢いで破産した口だろ? 女のナマ足に鼻の下伸ばしてるからそうなるんだよ」

「あ、あなたには、関係ないでじゃないですかっ!」

 図星を指されたのが嫌だったのか、山内は始めて感情のある声を上げて叫んだ。だが、男は山内を無視して最後の男の方へ向き直る。

「んで、あんたは津川翔太、45歳。元サラリーマンで、実は軍事オタクだったな」

 先程までブツブツと呟いているだけで男の話を聴いていないようだった男、津川は、初めて忙しなく動かしていた口を止めた。

「あんたは騙された口だな。大金渡して、大船に乗った気になれって言われた船が泥舟だったって奴だろ。よくある詐欺の手口さ」

 どこでどうやって調べたかも分からない男の情報に3人はそれぞれ顔を見合わせた。そんな3人を見ながら、男は軽く微笑む。

「この程度を調べる力なんて俺にはいくらでもある」

 そう言って男は大きく拳を握って三人に叫ぶようにして言った。

「俺の情報とお前たちがいたら、槻代グループを絶対に潰せるんだよ! お前らだって自由の身になりてーんだろっ!?」

 強く熱弁するが、三人はただ顔を見合わせるだけで答えようとしない。そんな彼らの男は表情を歪ませ大声で叱咤した。

「いつまでもうだうだやってても仕方ねーんだよっ! さっさと負け犬船の錨を上げるろっ! 燻るぐらいなら、勇気出して一歩踏み出せよ! いつまでも負け犬のつもりかっ!?」

 力任せの理由付けすらしていないそんな男の言葉。しかし、その言葉には何故か現実味があり、聞いている人間をその気にさせる言葉だった。そんな言葉に後押しされるようにまずは山内が俯いていた顔を上げて、男を見ながら言った。

「け、計画ぐらいは聴きます。こ、答えはそれからでもいいですか?」

 オドオドとしながらそう答える山内に男は男は小さく微笑んで頷いた。そして、内山の言葉につられるように隣に座っていた白髪交じりの津川も小さく頷いた。どうやら、この二人は少しでもやる気になったようだった。最後に残ったのはチンピラの中村だった。中村はただ不機嫌そうに目線を逸らしていた。

そんな中村に、男は小さく微笑みを浮かべて訊ねた。

「で、それであんたはどうするんだ、中村さん?」

 どこか挑発するような男の言葉に中村は、もう一度大袈裟に舌打ちをする決断するように勢いよく立ち上がった。

「分かったよ! やってやるよ、このクソ野郎がっ!」

 八つ当たり気味に叫ぶ中村の言葉に、男はニヤリと笑って言った。

「それはありがたい。これでようやくメンバーが揃った訳だ」

男はそう言うとどこからか取り出した大きな紙を取り出し、テーブルの上に広げた。そして、その紙を指差しながら男は言った。

「さて、それじゃあ。作戦を説明しようか」

 そこまで言って、男は思い出したように手を叩いて、ニヤリと笑った。

「そうそう、俺の名前を言ってなかったよな。俺の名前は───そうだな、源次郎って呼んでくれ」




街は夜の闇に包まれていた。

 そんな街に聳え立つ一つの高層ビルの中に槻代グループがあった。というよりも、このビルのほぼ全てが槻代グループのものだった。巨大な高層ビルに天辺には槻代グループを象徴するユニコーンの紋章が飾られていた。

 ビルの内装ももちろん贅の限りを尽くしたほど豪華で、本家の天馬家との不仲説を気にもしていない程の金のかけようだった。どこから見ても成金趣味まるだしの内装は見ている者を不愉快にさせる程の破壊力があった。

 そして、そんなビルの中に入っていく4人の男たちがいた。4人の男は有名な清掃業者の服を着込み、いくつかの鞄を肩から提げていた。

もちろん、その4人組があの沈没亭で話し合っていたあの4人だった。あの話し合った日から、しばらく経ち源次郎に丸め込まれるような形で4人組は計画を実行する事になったのだった。

「それにしても、相変わらずふざけた建物だな」

どこか不機嫌そうに源次郎は内装へ目をやりながらそう言った。そんな事を気にしている源次郎に残りの三人は挙動不審に辺りを見回しながら言った。

「おっ、おい。早く計画を始めろよ」

彼らにとってこの場所にいるという事だけで、自分たちが今から実行しようとしている事がバレるのではないかという不安に押しつぶされそうだったのだ。三人の反応に、源次郎は小さく苦笑しながら言う。

「分かった、分かった。時間が無いのも確かだしな。さっさと始めるか」

 提げている鞄から一枚のカードを取り出し、源次郎は全員を見た。

「まずは計額通り、俺たちが動く。いくぞ、津川」

 源次郎はまるで当然のように年上の津川に向かって偉そうに言うと、、前もって決めた作戦通りにフロントへ話しかける。そして、先程取り出した一枚のカードを見せた後、悠々とビルの中へと歩いて消えていった。そして、その後を追いかけるようにして津川も源次郎と共にビルの中へ消えていく。

 あのカードはこのビルの通行許可書のようなモノらしい。入手経路は知らないが、源次郎がそう言っていたのだ。

ロビーに残っていたのは中村と山内だけになった。彼らは鞄から簡単な清掃道具を取り出すと、カモフラージュとしてロビーの窓を拭き始めた。

 これから彼らもしなければならない事があるが、現在はそれを行う段階ではなかった。何ともいえない無言の空間が二人を包み込んでいた。

聴こえてくるのは二人が窓を磨くキュッキュという音のみ。そんな嫌な雰囲気を始めに壊したのは小太りの山内だった。

「あの、」

 どこか及び腰な感じで、山内は中村に話かけた。中村は返事はしなかったが、話は聴いているようで内山へと顔を向けた。

「あなたはどこまで信用してますか? あの、源次郎さんの事を」

 おどおどしながらも、内山は中村にそう喋りかけた。彼らにしてみれば、まだ会って数日しか経っていない源次郎に連れられてこの場所へやってきたのは成行きという部分も多々あった。

確かに、この負け犬でしかない生活を抜け出したかったが、源次郎の言うとおりにしていても絶対に成功するとも限らなかった。

「お前は信じてるのかよ、あの胡散臭い男を?」

 中村は答える代わりに逆にそう訊ねる。そんな中村の言葉に山内はもじもじしだす。

「ど、どうでしょう。私はあんまり、あの人の事は信じれそうにないんですよ。何か隠してるみたいな、そんな感じがしますし」

「お前もか」

 その答えに中村はどこか疲れたようなため息を吐き出すと、軽く空を仰いだ。そこに見えるのはロビーの天井と、そして天井に飾られたユニコーンのエンブレムだった。

「俺もアイツは信用してねーよ。この計画だって、成功する確率なんていい所、三十%も無いと考えてる」

ゆっくりと窓を拭きながら、中村は自分の考えている事を口にした。

「あの源次郎のクソ野郎にしても絶対、俺たちに何か隠してやがる。それぐらい、この俺にだった分かるさ」

まるで魔法でも使ってるかのように源次郎から出てくる槻代グループの内部事情。そんな情報をただの一般人が手に入れれる訳がない。中村はあの源次郎を槻代グループに深く関わっている人間だと言うことを確信していた。

「けど、俺はやる」

機械的に窓を拭きながら、中村はそんな言葉を口にした。

「例え、あの男が何者だったとしても、俺はあのユニコーンの角を圧し折ってやる。負け犬にだって根性がある所を見せてやるんだよ」

話していて力が入ったのか、窓を拭くても次第に早くなる中村。そんな中村に山内は小さく微笑むと茶化すように言った。

「ですね。それでその次は天馬グループのペガサスエンブレムの翼でも折ってやりますか」

 その言葉に中村と山内は自然と小さく微笑んでいた。その笑みは長年と待っていた、船がゆっくりと進みだした確かな証拠だった。




「ここだな」

 地図を見ながら、源次郎はお目当ての場所を見つけそう呟いた。

 その場所はこのビルの電源設備を司っている電力施設だった。この場所と潜入方法はもと組員で会計という重役を補っていた津川から前もって情報を得ていた。そして、この電力施設の電力の落とし方も。

「なるほど、やはりこれが電源のコードだな」

ポケットからニッパーを取り出して源次郎は一本の太いコードを手に取った。これを切れば、ビルの電気は全て消えるはずだ。

「さて、いよいよショータイムだな」

待ち遠しそうに源次郎は笑みを浮かべながらそう漏らす。しかし、それとは対照的に津川は声を震わせて尋ねた。

「ほ、本当にやるんですね?」

 武者震いか、それとも恐怖を感じているのか振るえている津川。そんな津川に源次郎は小さく微笑みかけた。

「何だ、今になって臆病風に吹かれたのか?」

「だ、だって」

 白髪混じりの頭を震わせ、親に見捨てられた子供のような表情で津川は源次郎を見上げる。けれども、源次郎は小さく肩を竦めるだけで何も答えずに、電源コードに向き直った。

 ゴホンと仕切り直すように源次郎は咳払いをしニッパーを電源コードへと持っていく。その時、隣で津川が何か喋っていたようだったが源次郎は耳を貸していなかった。

 ただ彼の心はこのコードを切ることだけに集中していた。

「さて、それじゃあやるぞ」

そう言って不敵に微笑んだ源次郎はゲームの電源でも落とすかのように一切の躊躇なく、電源コードをぶった切った。

 そして、その瞬間、ビルの中から明かりというものは一切消えた。




「来たぞ!」

 電源が切れた瞬間、中村と内山は動き出した。まずは鞄の中に入っていた軍事オタクの津川がコレクションしていた暗視ゴーグルを素早く装着して、一目散にビルの最上階、槻代グループの総統である、槻代五重衛門の部屋を目指す。

 その部屋に行くまでの厳重なセキュリティーも、電源が落ちてしまえば役立たずだ。それに電源を使わないセキュリティーも中村の情報と、内山の鍵開けのテクニックがあれば問題などなかった。

途中で出てきた警備員も、いきなりの停電に混乱しており、そこに改造スタンガンを突きつける事はいくら素人の二人にとっても簡単な作業だった。

「ははは、こんなに楽に忍び込めるなんてなっ!」

 何人目かの警備員をスタンガンで渾沌させた中村は、あまりの呆気ない潜入に拍子抜けを感じながらも、嬉しそうにそう漏らす。そんな中村に、山内は少し不安げに尋ねる。

「で、でも、真っ暗になったって言うのに、警備員の人たちもほとんどいないし、どうなってるんですかね?」

「さぁな」

 山内の疑問に中村は首を傾げるだけだった。事前の話し合いで、警備員の方は源次郎がどうにかして最低限の人数だけにしておくと言っていたが、それが成功したのか。二人にはその事は分からなかったが、とにかく幸運である事には変わりなかった。

「このまま、何も起きなきゃいいんだが」

闇の中を駆け抜けながら中村がそう漏らした。彼も心の中では不安が拭いきれないのだろう。

 お互い、心の中で不安を感じ中村と山内は鞄の中に入っている一丁の拳銃の場所を確かめていた。これも津川のモノでエアガンを違法改造し、鉛を飛ばすようにしたモノだった。殺傷能力は低いが相手を怯ませる事ぐらいは出来る。

もしもの時だけ使う、秘密兵器といった所だった。

「ここだな」

 どちらともなく二人はそう呟くと、最上階にある大きな一枚板で作られた豪勢な扉の前に立った。扉にはユニコーンのエンブレムがデカデカと飾られてある。

「全く、金持ちって言うのはどうしてこうも無意味に豪勢に作りたがるんだ?」

 呆れたような言葉を中村が漏らしている間に、山内は素早くその部屋の扉を開ける作業をはじめた。始めてから数分、二人には何時間にも思える長い時間が過ぎた。やはり、重要な部屋という事でさすがの山内もすぐに開ける事は出来なかった。

「よしっ」

 闇の中で山内が小さくガッツポーズをした。ようやく扉が開けられたのだ。

「よくやった。それじゃあ入るぞ」

 扉が開いたのを確認すると中村は転がるように急いで部屋の中に進入した。闇に隠れたその部屋の中でも暗視ゴーグルを持った二人には無駄に広いこの部屋が手に取るようにして分かった。

「目的のモノは確か、机の引き出しだったな」

 確認するように中村がそう呟き、すぐにお目当ての机を見つける。机は樫の木で作られたアンティーク風で、見る目のない中村と山内には検討もつかないがおそらく想像もつかないほどの値段になるのだろう。

 中村は躊躇なく机に近づくとその引き出しを無造作に開けた。しばらくガサゴソと探っていると、奥の方にいかにも重要そうにしまわれた書類があった。

「これが、例の書類か」

 中身をぺらぺらと見ながら、中村はそう呟く。中には槻代グループが行っている悪行の数々が載っていた。

「あのクソ野郎が言った通りだな」

書類が前もって源次郎から聞いていたモノだと確認すると、中村はすぐに携帯をとりだして、それを一枚ずつ撮っていく。パシャパシャとフラッシュの光とカメラの音だけが不気味に静まりかえる部屋の中で異様に大きな音として聴こえた。

「ま、まだですか? 早くしないと、誰か来ちゃいますよ」

 何もする事のない山内はそわそわとし始めた。一枚一枚撮っていくので、どうしても時間がかかってしまう。部屋に侵入したこの状況でただ待っていると、もし誰かが来たらどうしよう等の大きな不安が次々と湧き出してきてしまう。

「ちょっと待ってろ、後少しだからよ!」

 急かしてくる山内に中村も焦っているのか苛立ちを隠そうともせずに、そう言って黙らせると、ただひたすら書類を携帯で撮っていく。

連続的な光と音が部屋の中を包み込む。それから、何十分しただろうか。もしかしたら、数分だったかも知れないが彼らにとっては一生と同じぐらい長い時間だと感じていた。

 そして、その長い待ち時間もついに終わった。中村が書類を全て取り終えたのだ。

「よし、撮り終えたぞ! さっさと帰るぞ!」

 山内にそう報告すると中村は携帯を閉じる、書類を元の位置に戻してさっさとトンズラをしようとした。後はここを逃げ出せば全てが上手くいく。この書類を警察に提出すればいくら政治や財閥に顔の利く槻代グループでも言い逃れは出来ない。

仕事をやり終えた快感に二人はつい笑顔を浮かべてしまう。しかし、二人の幸運もここまでだった。

「動くな、盗人ども!」

 低く通る声が部屋の中が響いた。

 その声に中村と山内は、ビクッと野良猫にように体を竦ませ、慌ててその声の主の方へ目線を向けた。すると、そこにはいったい何歳生きているのかと思えるほどのシワだらけの老人が杖をつきながら立っていた。

「全く、ワシが天馬の馬鹿共との話し合いで警備員がいなくなって隙に、こんな馬鹿な盗人が入り込むとは、警備がなってないのぅ」

 老人、槻代五重衛門は薄気味悪い笑みを浮かべながら、そう言うと老体とは思えないしっかりとした足取りで中村と山内にゆっくりと近づいてくる。

「ど、どうしましょう!」

 まるで獲物を追い詰めるように近づいてくる老人に山内はすぐにテンパってしまう。そんな山内に中村はすぐに喝を入れる。

「黙れ! あんなヨボヨボ爺一人に何が出来るんだよ! さっさと逃げるぞ!」

 そう、今目の前にいるのは五重衛門だけだった。彼さえ何とかすれば決して逃げれない訳ではないのだ。

山内に向かって叫ぶと中村は雄叫びを上げて突撃するように五重衛門へと走っていく。実際にタックルを仕掛けるつもりだったのだろう、しかしその思惑は唐突に現われたもう1人の影に阻まれた。

「なっ!?」

 まるで硬い壁にでもぶつかったような反動に中村は軽々と弾き飛ばされた。予想外の痛みに困惑しながら、中村は顔を上げる。そこにいたのは1人のスーツを着込んだ、体格の良い男だった。

男は2mを越える程の巨体でスーツの上からでも筋肉質である事がよく分かった。そんな彼は無表情に倒れている中村と呆然としている山内を見下ろしていた。

 反射的にその男を見上げた中村は、自分でも意識する前に口が動いていた。

「こ、小島さん」

 この小島と呼ばれた男は、中村の知り合いだったのか、中村は何かすがるような目で小島を見上げる。しかし、小島は凍りついた表情を変える事なく、冷たく言った。

「誰だ、お前は?」

「なっ!?」

 本当に記憶になさそうな小島の言葉に、中村の顔は驚愕に変わる。まるで親に捨てられた子供のように中村の顔は歪んでしまう。

 中村と小島の繋がりは彼らにしか分からなかった。だが、この小島の行動は彼らの関係を粉々に砕き潰すのには十分な衝撃だったのだ。

「な、何言ってんだよ? 小島さん、俺ですよ。会計の中村ですよ!」

 すがりつくように小島にそう叫ぶ中村。そんな中村に小島は更に表情を変えずに言った。

「知らんな、そんな奴」

驚愕と悲痛。そんな二つの感情が混ざり合った顔を浮かべながら、それでも尚中村は声を上げて泣きつくようにして叫んだ。

「知らないって!? 中村ですよ! 5年前、事務所が摘発された時に捕まった中村ですよっ! 覚えてない訳ないでしょ!?」

 その言葉で小島はようやく何か思い出したのか、少し眉を顰めて言った。

「ああ、いたな。ムショから出てきたら出世できるという言葉に騙されて、馬鹿正直に公安に捕まりに言った馬鹿な奴が」

どこか懐かしむように、そして心の底から中村を馬鹿にするように小島はそう言った。そんな小島に中村の顔はもはや涙で溢れ、ただひたすらに小島に向かって叫んでいた。

「ば、馬鹿って、ひ、ひどいじゃないですかっ!」

「馬鹿は、馬鹿だろ。事務所のためという言葉を信じてて、ムショに送られたただの捨て駒さ」

話すのも億劫そうに小島はそう吐き捨てた。

「す、捨て駒だって……」

 心をナイフで抉り取るような小島の言葉。その言葉に中村は小さく振るえながら呆然とそう呟いた。彼の全てが否定され、彼の人生全てが無駄だったと証明されたのだ。

「このやろ、ふざけんなあああああああああ!」

 悲しみが怒りへと変わった中村は錯乱したように拳を握ると小島に向かって突っこんでいく。まるで子供が殴るかのような型も力の入れ方も何もない原始的な拳だった。

その時、乾いた音が部屋の中に響いた。そして、その音と同時に中村はまるで糸が切られた操り人形のようにバタリとその場に倒れた。

 先程まで強く握られていた拳はゆっくりと解けていた。中村の拳は小島へと届く事は無かった。それどころか近づく事すら出来なかったのだ。

中村の腹からは大量の血液が流れ出していた。しかし、まだ息はあるのか中村の体はぴくぴくと痙攣するかのように動いていた。

「ひゃひゃひゃ、馬鹿がいるのぅ」

 うつ伏せに倒れている中村を見下ろしながら五重衛門が嬉しそうにそう言った。五重衛門が手にあったのは一丁の拳銃だった。

「ひ、ひぃぃぃ!」

 倒れた中村、流れ出る血液、火薬の匂い、その全てがその場にいた山内の理性を狂わせた。恐怖のあまり目から涙を流しながら、言葉にならない言葉を口にしながら、力が抜けたようにその場にヘタリ込む。そんな山内の反応に五重衛門は小さく鼻を鳴らした。

「ふん、この程度の男か。ワシの書斎に忍び込む輩じゃから、もっと骨のありそうな男じゃと思ったんじゃが」

 どこか期待はずれそうに五重衛門はそう吐き捨てると、詰まらなそうに銃口を山内の方へ向ける。五重衛門には一切の躊躇は無かった。まるでそれが当然のように銃口を山内へと向ける。その恐怖感と威圧感に、山内は硬く目を瞑った。

 しかし、その銃口から弾が飛び出す事は無かった。

「ふん、骨のありそうな男なら、俺でどうだ? 爺さん」

 どこからか、そんな声が聴こえてきた。その声に山内は嬉しそうに顔を上げ、五重衛門は驚いたように辺りを見回した、次の瞬間!

 轟音というのにも生ぬるい程の巨大な音が部屋の中を包み込み、あの巨大だった扉が爆風吹っ飛んだ。そして、そこから現われたのはいくつもの爆発物を手に持っている白髪交じりの中年男、津川とそしてあの源次郎だった。

 ジャージのポケットに手を突っ込みながら源次郎はいつも通りの笑みを浮かて、五重衛門に向かってどこか親しみを込めた声で口を開いた。

「久しぶりだな、爺さん。前に言ったとおり、槻代グループをぶっ潰しに来たぜ」

 五重衛門の手に握られている拳銃が見えない訳でも、倒れている中村が見えない訳でもなかただろう。しかし、源次郎はそんな状況を全く気にもせずに余裕綽々な笑みを浮かていた。

 そんな笑みを浮かべる源次郎を見て、五重衛門はそこで何かに気がついたような顔になると苦々しげに叫んだ。

「貴様! 天馬源次郎だな!」

 突然、五重衛門の口からでた言葉に源次郎は肯定も否定もせず、ただゆっくりと足を進め五重衛門に近づいていく。先程の五重衛門と全く同じような歩き方で追い詰めるように源次郎は一歩、また一歩と五重衛門との距離を縮めていく。

 二人がある程度近づいた時、するりと流れるような動作で二人の間にまた小島が割って入った。小島は一切の感情を顔には浮かべずにただ目の前にいる源次郎を冷たい目で見降ろしていた。

 割り込んできた小島に源次郎は一度、小さくため息を吐きだすとニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべて友人にでもしゃべりかけるような馴れ馴れしい口調で言った。

「じゃまだ、スーツ。さっさとどけば何もしねーぞ?」

 挑発めいた源次郎の言葉。しかし、小島はそんな言葉にはピクリとも反応せずにただ冷たい目で源次郎を見下ろす。小島のその目からはこの場を退く気はないという意志がヒシヒシと伝わってきていた。

 そんな小島に源次郎はやれやれと言いたげに小さく肩をすくめると力強い目線で、しかし口元にはいつもの笑みを浮かべながら、見降ろしてくる小島を怯む事なく見返した。

 不敵な笑みを浮かべながら源次郎は小島を見上げていた。

 小島はただ無表情に源次郎を見下ろしていた。

 お互いその場を収める気はさらさらなく、いつ殴りあってもおかしくない状態だった。その場で蚊帳の外に置かれてしまっていた山内にはこの肌を刺すような雰囲気に胃が痛くなてちくのを感じていた。まるで壊れかけているダムを見ているような、そんな嫌に重たい空気に吐き気すら覚えてしまっていた。

 そして、何の前触れもなくそのダムは決壊した。

 お互い申し合わせたように拳を握ると一切の躊躇も手加減もなく相手へ向けて力いっぱい放ったのだ。部屋の中には拳が肉を叩き潰すいやな音が響き渡る。互いの拳が相手の顔面へと深く突き刺さったのだ。

 しかし、それでも二人は怯まなかった。軽くよろめいただけで、再び拳を握ると相手へ向けて拳を振るい続ける。何度も、何度も、何度も。

 部屋の中には肉を叩きつけるような音が止むことなく木霊していく。顔面から流血しようが、目が腫れ、歯が折れようが二人は相手の拳を防ぐような仕草を欠片も見せずにただ相手を殴っていた。これはもはや殴り合いなんていう生易しいモノではなかった。

 これは殺し合い。

 倒れた方が命すら失ってしまう。そんな鬼のような気迫に満ちた殺し合いだった。

 数分のボクシングのラウンドが何時間にも感じてしまうように、たった数十メートルが走るときに異様に長く感じてしまうように、その場にいる誰もが彼らの殴り合いを食い入るように見つめ、そしてその異常なまでの長さを感じていた。

 それからどれ程がたっただろうか、おそらく長くても数分だろう。しかし、彼らには数十分、いや数時間にすら感じていた。永遠にすら思える、拳を振るう音を遮ったのは完全武装をしていた津川だった。

「こ、この野郎っ!」

 震えた声を津川が上げた。食い入るようにして二人の殴り合いを見ていた山内がその声にようやく我を取り戻し、声をした方へ顔を向ける。すると、そこには拳銃を源次郎へと構えた五重衛門とそれを取り押さえようとする津川がいたのだ。恐怖に震えながらも津川は源次郎を守ろうと、五重衛門へと突っ込んでいったのだ。

「邪魔をするな、小僧っ!」

 腕をふるい、津川を押しのけようとする五重衛門。しかし、年齢の差は埋める事は出来ず、津川に押し倒されるような形になって倒れてしまう。山内はその瞬間を見逃さずに転がるようにして五重衛門の方へ走ると手元にあった拳銃を思いっきり蹴り飛ばした。

 カンっという音を立てて拳銃は遠くへと飛んで行ってしまう。これで五重衛門の武器は無くなった。津川と山内の二人は顔を見合わせると、小さく笑みを浮かべて源次郎の方を見る。

 これで生きて帰れると二人は思ったのだ。五重衛門さえ無力にしてしまえば、この場を生きて帰れる。そして、負け犬の生活から抜け出せると思ったのだ。

 しかし、二人はまだ殴り合っている源次郎へ声をかける事はできなかった。二人が声をかけるまえに、部屋の中に再び乾いた音と火薬の匂いが漂っていた。

 津川と山内は反射的に後ろを振り返った。すると、そこには二人から抜けだし、どこからか取り出した新しい銃を構えて嫌らしい笑みを浮かべた五重衛門が立っていた。

「ひゃひゃひゃ、馬鹿じゃのう。拳銃が一丁だけだと思ったのか?」

 顔を醜く歪ませて笑う五重衛門に二人は何も言えなかった。自分の腹の辺りから流れ出す赤い液体に気づき、激しい痛みを感じるともはや立っている事などできなかった。

 二人は激しい痛みに同時に地面に倒れてしまった。それを見届け五重衛門は勝ち誇った笑みを浮かべるともう一度、拳銃を構えなおした。狙いは源次郎だった。

「ふん、これでお前もおしまいじゃよ」

 鼻を鳴らし、五重衛門は銃口を源次郎へと向ける。後は引き金を引くだけで勝利を得る。五重衛門は勝利を確信し、嫌らしく口元をゆがめた。

「ぬうお!?」

 だが、引き金を引くよりも早く手元が大きく揺れ、狙いがずれてしまった。いや、手が揺れたというよりも五重衛門自身が大きく揺さぶられていた。驚きの表情を浮かべ、五重衛門は自分の足元を見下ろした。そして、目を見開いた。

「や、やらせませんっ!」

 そこには先程、倒れたと思っていた山内が自分の足を掴み必死で押し倒そうとしていたのだ。腹からはとめどなく血を垂れ流しながらも、顔は醜く涙でゆがめられながらも、山内は五重衛門の足を離そうとはしなかった。

「こ、この餓鬼がっ! 放せ、放せぇぇ!」

 この状況に五重衛門は逆上したようにそう叫ぶと足元にしがみ付く、山内を蹴りつづける。しかし、山内は蹴られれば蹴られるほど必死に五重衛門の足にしがみついた。

「くそっ!」

 吐き捨てるように五重衛門はそう叫ぶと、銃口を山内へと向ける。しかし、今度は拳銃を持った手に同じように血を流しながら津川がしがみついてきた。

「き、貴様らあああああ!」

 手と足を抑えられ、五重衛門はじたばたともがくように暴れる。相手は大怪我をした人間だ。例え老体の五重衛門でも振り解く事はできただろう。しかし、津川と山内の二人は自分の血がどれだけ流れでようが、蹴られ殴られようが絶対にその掴んだ腕と足を離そうとはしなかった。

「放せっ! 放せぇぇぇっ!」

 狂ったように五重衛門はそう叫びながら、もがく様に体を動かす。しかし、二人は必死にしがみ付きながら叫んだ。

「げ、源次郎さんっ! 早くしてください!」

 二人は血を流そうが、蹴られようが小島と殴り合っている源次郎を信じてしがみついていた。必死に、ただ必死に、源次郎を信じて。





 拳が肉を叩き潰す音が響く。肉がつぶれ、骨が砕ける音が部屋の中に響き続ける。

 お互い互角だと思っていた源次郎だったが、時間が経つにつれて押されかけているという事実をひしひしと感じていた。いくら源次郎と言えども2メートルを超える小島との体格の違いは否めなかったのだ。

 拳を握り、飛びそうになる意識をつなぎ止めながらも源次郎は追い詰められていた。マズイと源次郎は感じていたのだ。

「ははああああっ!」

 押されている事に焦りを感じ、一瞬思考を行ってしまった源次郎は小島の獣のようなそんな大声を聞いて、我に帰った。

 しかし、既に遅かった。全ての力を注ぎこんだ拳が避けることも、ましてやカウンターを取ることもできない位置にすでに飛んできていたのだ。

 この拳を源次郎は防ぐすべが無かった。

「ぐおぉっ」

 うめき声をあげたのは源次郎ではなかった。パンッという音が響くと同時に小島のうめき声が漏れた。小島が顔を歪め、音のした方へ目を向ける。すると、そこには先程まで気を失って倒れていた中村が例のエアガンを小島へと向けていた。

「……小島さん」

「な、中村……」

 それを見た小島はそう呟く。そして、その隙を源次郎が見逃すはずもなく、先程とは逆に全ての力を注ぎ込んで、拳を放つ。

 ぐちゅぅっという肉を潰すような嫌な音が部屋に響き、小島がまるで車に跳ねられたように吹っ飛んだ。

「くそっ、痛てーなっ!」

 彼方此方流血し、はれ上がっている自分の体を触って確かめながら、源次郎は憎々しげに倒れている小島に向かって吐き捨てるように言った。小島は気を失っているのかピクリとも動かずにその場に倒れていた。

「ずっと眠ってろ」

 そう言うと、源次郎は五重衛門と顔を向けた。二人にしがみ付かれている五重衛門は体を乱暴に動かしながら、ゆっくりとやってくる源次郎を視界に入れた。

 顔を痛そうに腫らし、体を引きずるようにしながらも源次郎は五重衛門へと向って歩いてきていた。

「二人共、もういい。離れてろ」

 必死にしがみついている津川と山内に源次郎はそう言った。その言葉に二人は安心したのか、五重衛門に振りほどかれるようにして地面に倒れる。倒れた顔は痛みにゆがめられていたが、それでも源次郎を信用しているのだろう。安らかな笑みを口元に浮かべていた。

 そんな二人を見届けると、源次郎は五重衛門に向きなおった。

「さて、どうする? 槻代グループ、総統の槻代五重衛門さん?」

 挑発するような源次郎の言葉。その言葉に五十衛門は悔しげに唇を噛んだ。

「はん、天馬家の次男が何を偉そうに! この槻代グループが無くなればどうなるか分かっているのか!?」

「分かってるから、潰すんだよ。天馬家のガン細胞はさっさと治療すべきなんだよ」

 五重衛門の言葉を途中で遮るように、冷静にただ淡々と源次郎はそう言った。そして、向けられている拳銃を気にもせずにゆっくりと五重衛門へと近づいていく。足を引きずりながらも、しっかりとした足取りで着々と近づいてくる。そんな源次郎に、五重衛門は苦悶の顔を浮かべた。

「く、くるな! こっちに来るな! 撃ち殺すぞ!」

 狂ったように五重衛門はそう叫び、震える手で源次郎へと銃口を向ける。しかし、源次郎は止まりはしない。ゆっくりと、しかし着実に源次郎と五重衛門の距離が縮まる。

「来るなと言っておるだろっ! 近づくな! 近づくなああああああっ!」

 泣きそうな子供のような五重衛門の叫び声が聞こえた。───、そして、再び部屋に乾いた音が響き渡った。




 彼らの事件が終わった。と言っても終わらしたのは彼らではなく源次郎なのだが。

 彼らが目を覚ましたのはあの日から数日経った日の病院のベットの上だった。目が覚めた時、お互い自分たちがした事がもしかしたら夢でないかと疑った。

 負け犬として酒に溺れていた自分たちがあの槻代グループへ殴りこみに行ったのだ。現実よりも夢である方が真実味があった。

 しかし、テレビで引っ切り無しに報道されている槻代グループの解散のニュースを聞くたびに3人は実感していた。あれは現実だったのだと。

 それから更に1か月が経った。まだ体中に包帯をぐるぐるに巻いていて、ベッドで安静にしている3人に来客がやってきていた。

 同じように顔や体のいたる所に包帯を巻いた源次郎だった。やってきた源次郎は少し前までのジャージ姿ではなく、きっちりとしたスーツを着込み、胸元にはいつものペガサスのネックレスが光っていた。

「具合はどうだ?」

 見舞いにやってきた源次郎は始めに彼らにそう尋ねた。

 まだ痛みが癒えていない事を正直に彼らは話すと源次郎はどこか申し訳なさそうな顔をしながらも、笑みを絶やさずに言った。

「悪かったな。まぁ、それで借金が無くなったんだ。得したと思うんだな」

 源次郎の言葉通り、槻城グループが潰れ、中村、津川、山内の借金は全て無くなった。しかし、それはマイナスが0になっただけに過ぎないのも事実だった。その事実に3人はどこか不安げな顔をしている。

 そんな3人に源次郎は小さく微笑むと持ってきていたアタッシュケースを3人にそれぞれ渡した。

「これは見舞いだ」

 突然渡されたアタッシュケースに首を捻りながら、アタッシュケースを開ける三人。そして、アタッシュケースの中身を見た瞬間に、3人は思わず声を漏らした。

 アタッシュケースの中にはギッシリと詰められた金が入っていたのだ。

「これは今回の事件の礼だ。あんた達は借金はなくなったが、それはただ0になっただけだろ? だから、それを使ってしばらくは仕事を探すんだな」

 突然手渡された、大金に3人は何も言えずにお互い顔を見合わせる。そんな3人の仕草に源次郎はどこかおかしげに笑うと、こう3人に聞いた。

「何か質問はあるか?」

 その言葉に3人はもう一度顔を見合わせると、声を揃えて言った。

「あ、あんたは一体、何者なんだ?」

 3人の率直な疑問に、源次郎は小さく笑うと口を開き始めた。

「そうそう。まだ本名を言ってなかった。俺の名前は───、」

 こうして、彼らの負け犬船の重い錨は上げられた。これから、彼らの船はどこか新しい港へと進んでいく事だろう。

 この世界の中、どこかにある新しい港へ。


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― 新着の感想 ―
[一言] どうも弐季です(笑)   この作品は短篇ながらもドラマ感がきちんと出て、読んでいるうちに物語に引き込まれました。     下手な評価で申し訳ないです。他の作品もゆっくり読んでいこうと思います…
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