07
やつが居座っているせいで、ことさら外出を疎ましく思うようになった。作業室に籠ってひたすら絵筆を振るい続ける。描きたいと思う映像が、残しておきたいと思う場面が、いつになく溢れてくるのだ。完成度が低かろうが、どうせ誰かに見せるわけでもない自己満足の作品だ。好きなものを好きなだけ好きなように描き続けた。
それでも人間は、何かしらを食べないと生きていけないわけで。
完全なるひきこもり生活を始めて、九日目。とうとう冷蔵庫が空になった。十日目、常備食もそこを尽いた。買い物に行かなくてはならない。頭痛がする。庭先にはまだやつの気配がするし、ときおり猫たちと戯れるはしゃいだ声まで聞こえてくる。この家を出たら、確実に付けてくるだろう。スーパーに行って帰ってくるだけ。全力で自転車を漕げば、二時間ちょっととかで帰って来られるかもしれない。行くしかない。
身支度を整え、意を決し、玄関の戸を開ける。がらがらという音に釣られてやつがこちらを向く。ような気がする。できるだけ視ないようにしながら、自転車を引っ張る。
「レイコちゃん、どこ行くの?」
「知らない」
坂道を一気に下っていく。砂利のせいでがたがたと揺れる。タイヤの状態が気になってきた。パンクして動けなくなる前に、一度見てもらったほうがいいかもしれない。
「なるほどー。買い物なんすね。ずっと家に居て、どうやって生活してんだろって思ってたんすよ」
スーパーの駐輪場に自転車を停めるころ、やつは嬉々として言った。
「何買うんすか?」
平日の夕方。スーパーにはお勤め品がならび始め、それなりに人もいる。買い物かごを手に提げ、通路を歩く。カートは必要ない。片手で持てる重さ以内でないと、買ったところで持ち帰れないからだ。
「好きな食べ物とかって、あるんすか? 俺はやっぱ肉が好きっす。とかラーメンとか」
今日はじゃがいもが安い。じゃがいもと言えば、にくじゃが。そんな定番の献立しか思い付かないが、生憎私は料理は好きでも得意でもないのだ。やる人がいないから、やる。祖母がよく作ってくれていたメニューの、劣化番を作る。
「――レイコちゃん、聞いてる?」
「聞いてない」
「良かった。聞いてくれてたんすね」
「人前で話しかけないでって言ったでしょ」
「おっ、今日アイス特売日らしいっすよ。ほら!」
高校生男子幽霊は黒と白のジャージの腕をぴんと伸ばし、冷凍食品コーナーの隣に下がるポップを指差した。確かにアイスクリーム全品四割引き。(対象外あり)と書かれている。
「アイスなんて食べないし」
「え、まじっすか?」
やつはアイスクリームが並ぶ棚の前に飛んでいく。幽霊たちは足が無い、なんてことはない。理由が無い限りちゃんとあるし、その足で歩いている。ただ地面に触れないだけだ。例えて言うなら、立体的な映像みたいだ。
「これ俺のお気に入りなんすよ! え、超安くなってる!」
知るか。そんなもん。そのままアイスクリームに心を奪われて、そっちに憑いて、いや付いていってくれればいいのに。
と思いながらも隣に立って棚を覗きこむ私も大抵大馬鹿者だ。棒が刺さったチョコレートのアイスクリームが、十二本も入っている。それが四割引き。確かに安い。食べたことの無いアイスだけれど、チョコレートと生チョコが口の中で広がる、濃厚な味がするような気がした。自然と手が伸び、気が付けば籠に入れていた。
「お! 買うんすね! まじオススメっすから!」
会計を済ませ、店を出るところで滅多にならないスマートフォンが音を立てた。液晶には岡江公宏の文字。今週は訪ねていけないと、この前メールしたはずだ。不審に思いながら、通話ボタンを押す。
「もしもし森崎さん? 今大丈夫?」
「あ、はい……」
「良かった良かった」
電話を通すと、どうして人の声はこんなにも違って聞こえるのだろう。それが本当に私が思っている人なのか疑わしく思えて、昔から電話は嫌いだった。誰かと電話で話す機会なんてほとんど無いに等しいのだけれど。
「グループ展示、やらない?」
「はい?」
「彫刻専攻の子から、誰か油彩から紹介してほしいって頼まれちゃってさ。それなら森崎さんがいいかなぁと思って」
しばしの間何も言い返せなかった。グループ展示。私の大学では、学内の様々な専攻から一名、もしくは複数名、それぞれ集まって、一つの展覧会を開くことを言う。そこに学年の縛りは無く、早ければ一年生の内から参加している生徒もいる。学内でも有名な生徒だと、申し込みは多いのだとか。
一定期間複数の人間と行動を共にするその作業に、まさか自分が呼ばれるとは思ってもみなかった。
「他の子たちからもたくさん刺激貰えるし、絶対に良い経験になると思うよ」
岡江はそう言うけれど、私にはそう思えなかった。意見を交換するとか共有するとか、苦手なのだ。どうしたって私の世界は否定されるのだから。誰かと一緒に何かを成し遂げるなんて、私には無理だ。
「……できません」
「どうして?」
「どうしても。私には、無理です」
「やりません、じゃなくてできません、なんだね。そこもきみらしいと言えばそうだけど……。とりあえず話だけでも聞いてよ。明日、大学来れるかな?」
曖昧に、それでも承諾する旨を述べて、電話は終わった。しばらく力が抜けたようにそこに突っ立っていた。
「どうしたんすか? レイコちゃん。大丈夫?」
できるわけないじゃない。田舎町の小さな大学とはいえ、そこには本気で芸術を志す者も大勢通っているのだ。そんな人たちと、才能も技術も知識も持たない中途半端な私が渡り合えるわけがないのに。
「なんでもない」
「なんでもなくないっす。話してみてください」
「関係無いでしょ」
「関係無くないっす!」
「もう! どっか行ってよ! うるさいなぁ!」
思わず声を荒げてしまった。ちょうどスーパーから出てきた買い物客が、入口付近でこちらを振り返る。慌てて顔を反らした。