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今日の学内美術館の展示室からは、いつもの著名な芸術家の作品は消えている。卒業制作展の開催期間は、展示室全体が卒業生に充てられるのだ。
その一角に私の絵も並んでいる。
P120号のキャンバスは縦は一メートル十センチ強、横は二メートル弱もある。これは私が今まで制作してきた作品のなかで、最も大きく、そして完成までに時間を要したものだった。
三日前に搬入をし、今日から展覧会が始まると言うのに、屋外展示をする友人の手伝いをしている内にタイミングを逃し、まだ一度もその姿を見ていないのだ。
美術館が一般に開放される午前十一時を少し回ったころ、コートのポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。一緒に作業をしていた友人に断って、出る。
「礼子、約束あるんでしょ。私はもう大丈夫だから行ってきて」
「ごめんね、まるちゃん! またあとで!」
学内に広がる森を抜けて、美術館へと急ぐ。
背の高い扉の前には、見覚えのある姿があった。
「犬飼さん!」
私の声に誘われて、微笑む。その表情には確かに面影がある。
「お久しぶりです。今日は来てくださってありがとうございます」
「いえいえ。ずっと楽しみにしてたのよ」
私の大学の卒業制作展示会は広く開放されている。学生の父母や友人、卒業していった生徒、美術ファン、それから各種芸術に精通する人材を求める企業関係者なんかも来る。
家族を招いたという友人の話を聞いて、誰を誘うべきかと考えたときに、すぐに思い当たったのが優希の母である犬飼さんだった。三年の夏に家を訪ねたときに、私の作品を見てみたいと言ってくれていたのだった。今更だとは思いながらも声を掛けると、二つ返事で行くと答えてくれた。
「すごいお客さんね。学生の展示会だからって、舐めちゃいけなかったわね」
「初日だから特にですよ。それに今日は土曜日だから、お休みの方も多いでしょうし」
エントランスホールには大型の展示が並んでいる。同じ大学で学んだ者としても、他の学生の作品を見るのは楽しい。
犬飼さんとそれぞれ感想を述べ合いながら、順に回っていく。中には制作者が直接観客に説明を加えているところもあった。
「森崎さんはお話しなくていいの?」
「ときどきは作品の傍にいようかと思いますけど、いざとなれば作品名のプレートに名前と連絡先も書いてありますからね」
この卒業間際の展示会で就職が決まるという奇跡を起こす学生が、毎年少数ながらもいるらしい。自らの才能を売り込むチャンスでもあるのだ。
私はと言えば、しばらくは大学の事務員として岡江先生のアシスタントをすることになっている。大金は稼げなくとも、細々と生活をしながら絵を描いていければそれで満足なのだ。
私の絵は美術館の三階に展示されていた。いつもは名作が並ぶ場所に自分の作品が飾られているというのはなんだか不思議な気分だ。
「これです」
抜けるような高い青空。帯のような白い雲。町を囲む緑の山々。アスファルトの道に伸びる影。赤い自転車。かごに載った買い物袋。並んで歩く二人の後ろ姿。
その絵の中に、森崎礼子の代名詞である白い人はいない。自転車を引く黒髪の女性はTシャツにデニムを履き、隣を歩く短髪の男性は上下ともジャージで、ズボンを足首が見える位置に捲っている。
それは私が最も残しておきたいと望んだ光景だった。今でもあの夏の終わりが香る。
完璧に仕上げたはずのその絵に、違和感を覚えたのはそのときだった。
絵の中の女性は両手で自転車のハンドルを押している。もう一方の男性はと言えば、腕を下に降ろしている。私はそう描いたはずだ。
それなのに。
「不思議な絵ね。この後ろ姿、優希にそっくりだわ」
男性の右腕は肘の辺りから消えていて、代わりに白い線が右側にいる女性に向かって伸びている。一本の太い線の先が更に細い線が五本に別れている。それは子どもや絵の下手な人が描く、手のようにも見えた。
その白い手が女性に向かって、まるで手を繋ごうとするかのように伸ばされているのだった。
誰の仕業か分かるような気がして、左胸を抑えた。
「詳しいことはわからないけれど、素敵な絵だと思うわ」
そう言ってくれた優希のお母さんの声が遠くに聞こえた。
懐かしい風の香りがする。自転車のタイヤが回る音がする。私を見守ってくれている視線を感じる。ハンドルから離した左手を、そっと伸ばした。




