04
毎週水曜日、私は大学へ向かう。作業の進捗具合を、担当講師に確認してもらうためだ。ここで直すべきだという指摘を受けたり、今後の予定の確認をしたりする。それにすら来ない学生もいるが、私はできるだけどれだけ気が進まなくとも、顔を出すようにしていた。油彩を専攻する生徒はそれぞれ担当講師にアポイントを取り、場所を指定して会う。私の場合は大抵、水曜日の午前中だ。
せめてこういう予定を入れないと、私は家から出なくなる。家の中は安らげるし、居心地がいい。
一歩敷地を出ると、途端に不安になる。だけど自ら一切社会を遮断してしまうのも、それはそれで怖いのだった。
新しい絵は、前回よりも一回り大きなキャンバスに描いている。何気ない街並み。行き交う人々と白い人たち。それを低い視点から見ている構図だ。
「白い人シリーズの新作だね。これは、子どもの視点かな。建物や大人たちがやけに大きく感じるね」
「そうなんです。子どもの視点で見えている街を描こうと思って」
「白い人たちもほら、視点の主に手を振っている」
「小さい子に気に入られようとするのは、変わらないんですよ。だから厄介なんですけど……」
岡江は笑いながらそうかいそうかいとだけ言った。
もちろん彼には私のことは何も告げていない。私が作品に必ず描きこむ白い人影の正体も知らない。それでも私の世界観を理解したつもりなのか、気にも留めていないようにそう笑う。私は私で、まるで空想でも話すかのように、ときどき白い人のことを話す。良い思い出がある場面のとき、だけ。
そのあと構図の歪みや、配色について指摘を受け、いつものように昼食に誘われた。
「少しだけ、ね。ここの学生たちはなかなか顔を見せてくれないから、会えるときは出来るだけ話をしておきたいんだ」
目尻に皺を寄せて、岡江は笑う。
なんとなく今日は、付いて行ってもいいような気がした。
一緒に食事を摂ると言っても、所詮はキャンパス内の食堂でのことだ。三年になって一段と利用回数が減ったせいで、食券を選ぶのさえ、時間が掛かる。その横で岡江はさっさと注文を済ませてしまう。
担当講師と向かい合ってコロッケ定食を食べる。普段人と食事をしないせいか、話そうとすると箸が止まるし、食べようとすると会話が止まる。そんな私の歪なテンポを、岡江はラーメンを啜りながら、穏やかな表情で見ていた。その様子はどこか祖母に似ている。
だからだろうか、他の人ほどは彼に対して防衛線を張っていない。
食事を終え、私は自転車に乗ってキャンパスを出る。スーパーと本屋に寄っていく。書店は、あの画材屋が入る駅前のビルに入っている。一週間前と同じように、自転車を停める。その瞬間、頭の中で何かが弾けた。忘れていたわけではないのに。ここは暫く避けるべきだったのに。
「ああ、よかった! やっと会えた!」
あの明るい声が、私を何故か振り向かせる声がした。自転車に鍵を掛けようとした体勢から少しも動けなくなる。どうしよう。また自転車をかっ飛ばすか、ビル内に駆けこむか、でも一週間もここで待っていたということは、今度こそ追いかけてくるかもしれない。彼らは家に入れないとはいえ、場所を知られるのは避けたい。もう振り向くしかないのか。其れに不思議と、振り向いてしまいたい気がしている。
「あのー、視えてますよね? 俺のコト」
近づいてくる。足音はしないけれど、わかる。
「話だけでも聞いてほしいんすけど」
冷たい、というのか本能的な嫌悪感を左肩のあたりに覚え、振り払うようにして、とうとう振り返った。
「触んないで!」
彼は驚いた顔をした。それから寂しそうな、悲しそうな顔を露骨にして見せた。そのくせ笑顔をひっ付け、小さな声でゴメンナサイと言った。
「変なこととかしないですから、ちょっとだけ話がしたいっす」
「わかった。わかったけど、ここじゃ嫌」
「え? なんで?」
「そんなこともわかんないの? ここで話してたら周りの人に変に思われるでしょ! 私が!」
「なるー」
こうなってしまったら、しょうがない。バッグから普段一切鳴ることのないスマートフォンを出して、耳に当て、自動ドアをくぐる。
少年はドアの向こうでどうするべきか迷い、立ち止まっている。その間にドアが閉まった。それに驚いて目を見張り、それから口がそっかと動いた。貧乏ゆすりでもしてしまいたい心地だ。自動ドアに改めて近づく。私に反応して開いたドアから、顎で彼を招いた。スマホを耳に当て、口を開く。
「閉まっててもそこ、通れるから」
「え?」
「あんたに言ってるの。自覚しろ」
「ああ、はい」
そう返事をしたものの呆けたような顔をして、後をちょこちょこ憑いて、いや、付いて来る。