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その週末、バケオの家族に会うために、バケオとレイコは電車で二十分の隣町に居た。会えなければそれまでということで、事前に電話で約束をしたりはしていない。
「なんか緊張する……」
「バケオが緊張してどうするの。久しぶりの帰省なんだから、少しは楽しめば?」
「帰省って言うの、これ」
駅から自転車で十五分、歩いて三十分のところにバケオが育った家はある。辺り一帯が同時期に住宅街として開発された地区だから、周りの家も同じような外観だ。それでもバケオにとってはそこだけが特別だった。
それまで家族のことなど考えてこなかったのに、不思議と家の前に立つと懐かしさが込み上げてきた。
「いい? 行くよ」
こういうときのレイコはやけに躊躇いが無い。声に出さすにうん、と頷くと、レイコの細い指がインターホンのボタンを押した。遠くでピンポンと音が鳴る。その直後、腹に響くような低い、鳴き声がした。
「モモ!」
レイコが眉を顰めた。それにしても懐かしい声だ。相変わらずインターホンの音には反応するのだ。変わっていないことが嬉しい。
慌てて廊下を小走りするぱたぱたという音がした。
「はい」
レンガ造りの門柱に付けられた機械から、懐かしい声がした。マイクとスピーカーを通した分、変性しているがそれでも聞き間違えることのない声だ。
「私、森崎礼子と言います。優希くんの……、友だちで。少しお話させていただけませんか?」
あら、と短く漏らしたきり、声が途切れた。顔を見ていなくても戸惑っている様子が伝わってくる。バケオの、いや、優希の友人が訪ねてこることなど、珍しいことなのかもしれない。
「てか、友だちって……」
その言い方だと騙しているみたいじゃないか。非難を混ぜた視線をレイコに送ると、唇の前に人差し指を立てて黙ってと暗に言われた。
「……ごめんなさいね、あの子の友だちが来るなんて久しぶりだったからびっくりしちゃって。今、行きます」
家の中とを繋ぐ通信が切れ、それからすぐに鍵を回す音がした。釣られて顔を上げると、そこにはあの頃よりも痩せた母親がいた。
「母さん……」
レイコが初めまして、と軽く頭を下げた。母は確かに痩せてはいたものの、それ以外は特に変化が無いように思えた。最後に見た姿よりよほど元気そうであることに安堵した。
母は警戒も疑いもせず、レイコを家に招き入れた。リビングのドアを開けると、そこから大きな物体が勢いよく飛び出してきて、レイコが声を上げた。それは一目散にバケオに向かって来て、ちぎれんばかりに尻尾を振ってみせる。相変わらずのふかふかの毛並み。大きな足。優しくて大きくて潤んだ瞳。
「モモ……!」
触れないと分かっていても、撫でずには居られなかった。ゴールデンレトリバーのモモは、確かにバケオを見上げている。
いきなり走り出して虚空を見上げて喜ぶ愛犬を怪訝に思ったのか、母がどうしたのかしらと笑った。
「もしかして犬ってオバケ見えるの?」
モモの顎の下を撫でながらレイコに尋ねると、小さく頷き返された。
「アイスコーヒーでいいかしら?」
家族揃って食事をしていたダイニングテーブルにレイコを付かせ、母はキッチンへ向かう。
「はい、ありがとうございます」
答えながらレイコは部屋に視線を巡らせた。どうやらこの部屋に優希の仏壇は無いらしい。その代わり、テレビ台に一枚の写真が立ててあった。野球部のユニホームを着て、ピースサインをしながら満面の笑みを浮かべる優希。レイコはその写真に暫く目を止め、唇をきつく引き結んだ。
母が二人分のアイスコーヒーを入れて、テーブルに着き、微笑んだ。
「森崎さんだったかな。あなたは優希の高校のお友だち?」
私はと言いかけてレイコが口ごもると、母は慌てて手を小刻みに振った。
「あの子ってお友だちは多かったけど、どちらかと言えば男の子ばっかりだったから。女の子の友だちが珍しくって」
「……そうなんですか」
「そうなの。私に女の子を紹介してくれたこともなかったしね。彼女とかせめて好きな子とか、いたのかなあって思うのよ。たまに」
そう言いながら笑う母に、彼女はあれから喪失を乗り越えたのだと悟った。哀しみが完全に消えることは無いかもしれないが、それでも少なくとも自分の気持ちに折り合いは付けたのだろう。レイコも同じことを思ったのか、グラスを握る手に力を込め、それからあの、と口を開いた。




