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翌日もその次の日も、岡江はレイコの元を尋ね、食事の世話をして少し会話をしては帰って行くことを繰り返していた。
レイコは人との間に壁を築く気力さえもないのか、大人しく岡江の世話を受けている。
今日も陽射しが強い。暑いとは感じるけれど、不快だとは思わなくなった。そんなバケオとは違い、レイコは閉め切った部屋の温度に耐え切れなくなったらしい。擦り硝子の引き戸が開けられた。
随分前から愛用されていそうなくたびれたティーシャツと、学校の体操服みたいなネイビーのハーフパンツ姿のレイコが顔を覗かせる。
「おはよう」
とりあえず出来うる限りの笑顔を作ってみる。最近は挨拶さえ無視されて終わりだった。
「……おはよ」
どうやら今日は違うようだ。短いけれど、反応があった。
「えっと……、調子どう?」
「風邪気味みたい。ちょっと前からだるいとは思ってたんだけど、まさかね」
「熱は?」
「熱はそんなにない。岡江先生が買ってきてくれた薬飲んでるし、すぐ治るよ」
レイコはただ塞ぎこんでいただけではなく、体調を崩していたのか。そんなことさえ気が付けなかった自分が不甲斐なくて、そっかと呟くしかなかった。
「……ありがとうね」
予想外のことばに思わず、その姿を凝視する。レイコは照れたように顔を背けた。
「岡江先生を部屋まで案内してくれたのは、バケオでしょ」
「あれを案内って言うならね」
大袈裟に肩を竦めて見せると、白い顔に微かな笑みが浮かんだ。それを見ただけで身体の奥から込み上げてくるものがあった。
そうしてバケオが喜びを噛み締めている間に、レイコは軽い咳を繰り返した。
「まだ寝てたほうがいいよ。今日も岡江先生来てくれるんだよね?」
レイコは頷くと、布団に戻っていった。相変わらず眠るときはこちらに背を向ける。
その日はレイコも岡江を見送るために門まで出てきた。だいぶ顔色も良くなったように見える。
「先生が来てくれて本当に良かった。俺一人だったらなんもできなかったし」
身体のどこにも凝りを感じないけれど、伸びをした。
「だいぶ休んじゃったけど、課題だけ提出すれば単位貰えるって。そろそろ制作再開しないとなぁ」
「あの絵?」
「そう。バケオと猫の絵」
「俺すっげぇ楽しみ。完成するの」
レイコは口元を緩めただけだった。
その翌日にはレイコは布団から出て、キャンバスに向かった。細い絵筆を細かく動かしたり、ときには離れた所から全体を確認したりしながら少しずつ絵を頭の中のイメージに近づけていった。バケオはその様子を黙ってただ見つめる。やっぱりレイコは、絵を描いているときの表情が一番良い。
それから一週間も経たない内に、その絵は完成された。制作を中断する前の段階でも充分な出来だと思っていたが、細かく加筆されたことにより、より現実味が増していた。猫たちもバケオもしっかりとそこに存在していた。
無事に課題を提出し、昼食を岡江とともに摂ったレイコは心なしか晴れやかな表情をしているように見えた。
「やっと夏休みだよ」
「夏休みって、レイコちゃんいつも夏休みみたいなもんじゃん」
「うるさいなあ。それでも嬉しいものは嬉しいの」
「どっか行くの?」
「それなんだけどさ」
いつものようにバケオの数歩先を歩いていたレイコがくるりと振り返る。
「バケオ、行きたいとこある?」
「お、俺?」
想定外の問いに思わずどもってしまった。
「私には行きたいところなんて無いから、バケオに行きたい場所があればそこに行こうかなって」
「行きたい場所かぁ……」
自分の希望などしばらく考えていなかった。いざ聞かれてみると、答えるのが難しい質問だ。
「……例えば、家族に会いに行くとかさ」
音量を抑えた声でそう言いながら、レイコは小さな咳をした。
「バケオの話だと、両親も弟もまだ健在なんでしょ? せっかくだし会いたいとか思わないの?」
「そう言われても家族に会うなんて考えてなかったからな……」
レイコは素足のまま縁側まで歩いてきて、腰を降ろした。
「じゃあ会いに行ってみよう」
微笑を受けて、自分が家族に会いに行く姿を想像してみる。いつも優しく笑っていた母。口数は多くなかったけれど、家族を想っていた父。だんだんとしっかりしてきた弟。会いたくないわけでは決してない。けれどどうしても脳裏を過るのは最後に見た病室での姿だった。
「でも母さんは、幽霊とか信じるタイプじゃないんだ」
「大抵の人はそうだよ」
いつの間にか膝の上に登っていたきいろの顎の下を指先で掻きながらレイコが答えた。
「だけど俺が事故に遭ってから、結構パニクってたたみたいだからさ。たぶん会ったら酷いこと言う、と思う」
「私のこと心配してくれてるの?」
庭の真ん中で突っ立っているバケオの顔を見上げて、レイコが眉根を下げて笑う。
「気にしなくていいよ。慣れてるし。それに、せっかくバケオがくれた心臓なんだから、一回ぐらいバケオの為に使っておきたい」
レイコちゃん、と呼んだ声は余りにも情けなかった。彼女の提案の裏に意図が見え隠れしているような気がして。敢えてバケオの母親に会うことで、辛辣なことばを浴びせられることで、自分を傷つけて、罪滅ぼしでもするつもりなのではないのだろうか。そんな捨て身な厚意を受け取っても良いのだろうか。
「なんてね。もちろんそれもあるけど、本当は単純にバケオの家族に会ってみたいだけ。バケオがどんなふうに生きてたのか、ちゃんと知っておきたいだけなんだ」
レイコの膝の上できいろが満足げに喉を鳴らしている。
「だって私、バケオの命を受け継いで生きてくんだもん」
細められた目尻から涙が一雫落ちて、バケオからことばを奪った。ただ頷くことしかできなくなった。自ら傷を受けようとしているレイコを止めるべきなのかもしれない。だけど自分自身のことを知ってほしいという思いも、確かにバケオの中にあるのだった。
「……案内するよ」
指先で涙を拭って、レイコは笑顔で頷いた。




