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レイコはますます部屋に引きこもるようになった。暑さのせいで戸を開けることはあっても、大抵庭に背を向けて布団に横になっている。
筆を執る姿さえ、めっきり見なくなった。
まるで死を待つ人のようだ。ただその日を迎えるまでの間を生きているだけ。
いつか制作していた絵が、キャンバスを立てるための三脚みたいなものに立て掛けられている。その中で猫とじゃれる少年には目が描かれていいないにも関わらず、生き生きとした様子がある。この絵を見るたび、懐かしいような切ないような思いに胸を潰されそうになる。レイコの手によって少しずつ姿を変えていく絵を見るのが好きだった。なにより真剣な目をして絵と向き合うレイコが好きだった。どこか生命力が希薄な彼女が、唯一全力で命を燃やしているように思える時間だったからだ。
この二週間、レイコは大学にも行っていない。あの先生のことだから心配して連絡でも寄こしていそうだが、電源を切っているのか、レイコの携帯は鳴らない。
もしもこのまま死んだら、レイコはどうなるのだろう。霊に翻弄された彼女は、最期の瞬間さえ霊に看取られて終わるのだろうか。まるで最初から生きていなかったかのように。
それは駄目だ。絶対に。彼女は確かに生きている。人々の奇異の目と戦いながら、必死で人と違う自分を受け入れて、鮮やかな絵を生み出すのだ。
だからもう起きて。その肩を揺すりたいのにバケオは縁側には上がれない。建物の中には入れない。生きていたかった。そう思うのはもう何度目だろう。生きて、レイコを支えたかった。
そのときだった。レイコときいろ以外、感じたことのなかった気配が近づいてきているのを感じた。今日は何曜日だっただろう。無断欠席を続けているレイコを案じて、あの先生が来てくれたのかもしれない。
期待して門を見守ると、現れたのは白髪混じりのあの先生だった。
もしかすると彼はここへ来たことがあるのかもしれない。迷いのない足取りで玄関へと近づき、戸を叩いた。
「こんにちは。森崎さん、岡江です」
「そこで呼んでも絶対出て来ないよ……」
バケオのため息交じりの呟きは、当然ながら岡江には聞こえていない様子だった。声も届かず、触れることもできない。どうすれば岡江に今のレイコの状況を見てもらえるだろう。
辺りを見回す。目には入ったのは、縁側に置かれたきいろの餌と水の皿だった。できるだろうか。これをやったのは、せいぜいレイコが手にしていた自転車の鍵を弾き飛ばしたぐらいだ。でもあの銀色の皿なら、ひっくり返したらそれなりの音が出るはずだ。
銀色の皿がふわりと宙に浮き、それから反転して力なく木製の床に叩きつけられる。猫用のドライフードが散らばる乾いた音と、容器同士がぶつかる高い音がした。さらに音を聞き付けたきいろが走って来て、誰が犯人か分かっているのか、バケオに向かって唸り声を上げた。
その内のどの音を聞いたのかは知らないが、足音が近づいてくる。
「森崎さん? 少し失礼するよ。ん、猫か……」
岡江は一番初めにきいろに目を留めた。そして必死で威嚇する先、バケオのほうを見て、あの人のよさそうな笑みを浮かべた。
「……相変わらず不思議なお友達がいるみたいだね」
それだけ呟いて岡江はすぐに視線を外し、屋敷の中を覗きこんだ。そして横たわるレイコの姿を見つけた。
「森崎さん? 体調が悪いのかい?」
慌てた様子で脱いだ靴を揃えることもなく、縁側へと上がっていく。それを羨ましいと思いながらも、黙って見ていることしかできなかった。
岡江の問いかけに、ぼそぼそと答えるレイコの声がする。何を言っているかまでは聞き取れないが、久しぶりに声を聞けただけでも嬉しかった。
少しすると岡江は、レイコの元を離れどこかへ行った。そうして戻ってきたときには、その手に湯気の登るカップラーメンがあった。
岡江はレイコが身体を起こすのを手伝い、麺をレイコの口へ運ぼうとして、止められた。
白く細い腕がカップラーメンを受け取り、ゆっくり少しずつ口の中に入れて噛んで飲み込む。たったそれだけの光景なのに、胸がじんと熱くなる。レイコはちゃんと生きている。
「また明日来るからね」
温かいお茶を飲ませ、戸を閉めると岡江は去って行った。バケオは門のところまで出て行って、その背が見えなくなるまで見送った。レイコのためにここへ来てくれる人がいて良かった。




