26
四方を病院の建物に囲まれた中庭の中央に立つ桜の木の下のベンチに、レイコはぼんやりと座っていた。遠い何かに思いを馳せるようなその目をずっとここから見ていたい。実際バケオは少しの間、レイコの姿を眺めた。きっとこれが、俺がバケオでいられる最後の時だから。
溢れそうになる涙を堪えて、後ろ姿に声を掛けた。
「レイコちゃん」
振り返ったレイコに右手を上げる。そして向かい合うように、桜の木の下へ移動した。
「なんか思い出せた?」
きっと本気で聞いているわけじゃないんだろう。声からも表情からも、そう感じた。
レイコちゃん、俺ね、思い出しちゃったんだ。
嬉しいはずなのに、悲しいんだよ。なんでだろうなあ。
「……うん」
静かに頷くと、レイコの目が見開かれた。そして唾を飲んだのか、喉が上下する。
「……思い出したの?」
それはさっきとは違って真剣味を帯びた重たい声音だった。
「うん。ぜんぶ」
レイコはことばを無くした。何をかを言おうとして、だけど適当なことばが見つからないという様だった。
バケオは深く息を吸った。それはまるでレイコの代わりに、混乱を落ちつけるためのようでもあった。
「その前に、レイコちゃんの話を聞かせてほしい」
「私の?」
「そ。心臓病で入院してたんだよね?」
「え、ああ、うん……。そうだけど」
太い桜の幹に背を預ける。
「レイコちゃんのこと、やっぱりちゃんと知っておきたいんだ」
バケオが話す前に、レイコ自身があのときどう感じたかを聞いておきたかった。
レイコは戸惑いながら、ことばを選びながらも自分の身に降りかかった体験を紡いでいく。
「いろいろ最悪だったの。小五の夏に母が自殺して、お祖母ちゃんに引き取られてこっちの中学校に通ってたけど、やっぱり友だちなんかできなくてさ。それどころかクラスメイトからはあの子はなんか変だって、無視されてた。だからね、別に死んでもいいと思ってた。生きたいと思える理由が無かったから」
なんとなくは感じていた。レイコが生きることに拘りがないこと。だけど改めてことばとして聞くのは、また違う。
「私はもうすぐ死ぬ。それを知って、少し楽になった部分もあったぐらいだし……」
自分と同年代の女の子が、大人たちが人生で最も楽しいという時間を生きていた少女が、そんなことを思うなんて、きっとレイコに出会わなければバケオは想像すらしなかった。
「だけど中学三年の年の夏。急に言われたの。ドナーが見つかったって」
思わず覗きこんだレイコの顔には、自嘲めいた笑みが浮かんでいた。
「は? って感じだった。なんの話してるのって。知らない間にお祖母ちゃんが臓器移植の順番待ちの登録してくれてたらしくて。その夏にちょうどドナーが現れたってことだった」
その事実自体を後ろめたいと思っているかのようだ。
「手術は上手く行って、拒否反応もでなくて、自分でもびっくりするぐらい調子も良くなってさ。三ヶ月後には退院するぐらいだった」
レイコはゆっくりと瞬きをした。
「高校も相変わらずだったけど、行かなきゃって気がして最後まで行って、大学も今のとこ受かったしさ。さすがにお祖母ちゃんが死んだときは辛かったけど、私の人生こんなもんだよ」
そう言ってレイコは笑いたかったのだと思う。けれどそうはならなかった。泣きだす寸前のような顔をしていた。
「生まれたときから呪われてるのかなって感じ。こんな変な力もあるし」
レイコちゃんの人生は、確かに壮絶だった。俺が生きた平凡な一生からは想像もできないぐらいにだ。それでもレイコに自分を蔑むようなことを言ってほしくなかった。
「レイコちゃんの力は、奇跡だよ」
思いがけず大きな声が出た。レイコは驚いたようにこちらを見る。
「レイコちゃんにその力があったから、こうして会えた。レイコちゃんがその力を持っててくれたおかげで、俺はレイコちゃんと話すこともできた……!」
感情が高ぶって、そんなつもりは無かったのに涙で視界が滲んだ。
「ちょっと、いきなりどうしたの?」
レイコの戸惑う声を聞く頃には、両目から止め処なく大粒の涙がぼろぼろと零れていた。
それでも歪んだ世界の中で、しっかりとレイコの双眸を捕らえる。
「レイコちゃんは今でもあのとき死んでおけば良かったって思ってる?」
「え?」
「心臓なんかいらなかったって思ってる?」
自分から聞いておきながら、その答えを聞くのは怖い。答えるのを躊躇うような沈黙に耐えられなくなった。
「付いてきてほしいところがあるんだ」
触れられないとわかっていながらも、手を差し出した。レイコは戸惑いながらその手を握ろうとしてくれた。
レイコを連れていきたい場所。そこまで真っ直ぐ向かう。バケオ一人ならば一瞬で辿り着くことができるけれど、レイコを導かなければいけない。どこに行くのかも告げていないのに、レイコは黙って付いてきてくれている。
エレベーターに乗り込み、行き先が七階であることを告げた頃から、心なしかレイコが緊張しているようだった。
迷うことなくエレベーターホールから一番遠い病室へ向かう。ここは確か六人部屋だったはずだが、今は四人しか患者がいないようだ。
「ここ、覚えてる?」
試しに尋ねてみた。
「覚えてるもなにも……、なんであんたがここを知ってるの?」
「だから言ったでしょ。全部思い出したって」
病室の前の廊下の突き当たり、窓を背にしてレイコのほうを向く。目が合うとレイコが躊躇いがちに口を開いた。
「でもここは、私が入院してた病室だよ」
肯定する意味を込めて頷く。
「そうだよ」
「だからなんでここを……」
「レイコちゃんに会いに、ここに来たことがあるから」
レイコの表情が沈黙が、状況を飲み込めていないことを示唆していた。やがて無理やり捻り出された疑問の声は、どことなく掠れていた。
「でも私はバケオのこと覚えてないよ」
「そりゃそうだよ。だって俺がここに来たの、もう俺が死んだあとだもん」
「だとしても私には視えるはず」
「眠ってたんじゃない? 術後だったし……」
それでも納得できないという顔をするレイコに、もう一つの可能性を挙げてみた。
「それかあのときは俺にまだ霊として留まる気がなかったせいかな」
「え?」
どういうことだ、と全身で訴えかけられる。
「まあ、俺の話を聞いてよ」




