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そうして他の霊たち同様にふらふらと院内を彷徨っているうちに、入院棟に辿り着いた。エレベーター脇の案内表示によると、おおむね階ごとに科が別れているようだ。バケオがいる三階は外科の患者が入院しているみたいだ。ぐるっと一通り見て回る。平日の昼間だからか、見舞いに来ている人は女性が多い。談話室では入院患者同士と思われる車いすに乗った男性が、談笑していた。
窓の数が多いせいか、想像していた病院よりも明るい印象が持てる。
そうして次は四階へ。またぐるりと回って五階へ。それを繰り返していくが、とくにこれといってピンと来るものはなかった。レイコの検査が終わる前に、どこか分かりやすい場所へ戻らなければならない。これでこの病棟を巡るのは最後にしよう。ともう一階分上がると、急に雰囲気が変わった。
認められた者しか出入りできない。そう暗に言われているような感じがする。表示を確認すると、第一手術室、第二手術室と書かれていた。
思わず、うえっと変な声が漏れる。だってやばそうだ。手術室なんてドラマで見たことしかないけれど、怖いイメージがある。
地面に触れていないはずの足が竦む。すでに幽霊であるバケオが言うのもなんだが、嫌な感じがする。
突っ立っていると、ピンともポンとも付かない音と共に扉の脇のランプが点灯し、エレベーターが到着した。
バケオが反応するよりも早く扉が開き、中からはベッドに横たわる女の子と、それを囲む看護士なのか医師なのかが出てきた。彼らの内の一人は点滴のパックを持っている。
患者の女の子に大丈夫だからねーと優しく声を掛け、女の子は静かに頷いた。
ベッドがバケオを通過していく。
付いていかなければならない。そんな気がして、鉄が磁石に引っ張られるように、ベッドに付いて行った。
運ばれたのは第一手術室と書かれた部屋だった。扉が開くと、テレビで見たままのランプが幾つもくっ付いた、蜂の巣のような、ブドウの房の断面図のような電気が吊るされているのが見える。所定の位置に止められたベッドの周りで、手術衣を着た医師なのか看護士なのか他の技術者なのかが忙しなく動き回っている。
こんな光景を、俺は見たことがある。
動いていないはずの心臓が、どくりと音を立てたような気がした。一人の医師のカウントに合わせて、少女が眠りに落ちる。
青い服を着た男性医師が、他の看護士たちに声を掛ける。そうして銀色に輝く小さなバターナイフのようなメスを手にした。
こんな光景を、俺は見ていた。
シートが被せられた少女の身体を、滑らかに裂いていく。
見ていたのだ。こうやって。少し離れた場所から。麻酔を掛けているとはいえ、本当に痛みを感じていないのだろうかと考えながら。直視をすることはできず、何度も目を反らしながら。掌で顔を覆いながら。
見ていたのだ。
まだあどけなさの残る顔に、どこか冷めた表情を載せた少女。身体を切り開かれることなど、まるで一切恐れていないかのように、まるで自分の運命を全て悟ったかのように、まっすぐくもりのない目で天井を見つめていた。
この子なんだ。
俺の人生を引き継いでいく子は。
「え……」
あのときバケオが見ていたのは、今よりもいくらか幼い、おそらくバケオよりも年下であろう、レイコだ。
俺はレイコちゃんと、こんな場所で出会っていたのだ。
でも、どうして。俺の人生を引き継ぐって一体どういうことだ。
思いだせそうで思い出せない。テープが古くなって、ところどころにノイズが入るみたいに、不鮮明な映像が浮かんでは消えて行く。
あのとき、レイコが切られていたのは、胸の部分だった。切り開かれた胸の中に小型の機械が繋がれ、そうして。
医師が恭しく丁寧な手つきで取り上げた、それは。
声など漏れなかった。ただ呆気に取られて、我を忘れて見つめていた。血に塗れグロテスクなのに目を反らせない。とても神秘的で、大切な物のような気がして。
医師の内の一人が、クーラーボックスのようなものから、別の何かを取り出した。
それを見た瞬間、映像が脳内を駆け巡った。たくさんの映画を早送りで一息に見ているようだ。覚えている。あれは、大好きだった幼稚園の先生だ。たぶん、初恋だった。覚えている。小学校に上がったとき、初めてのクラスで友だちができた。覚えている。中学生の時、野球部で県大会まで進んだ。覚えている。高校生の頃、俺の周りにはたくさんの友だちがいた。先生も良い人ばっかりだった。勉強は嫌いだったけれど、俺には野球があった。
覚えている。いや、思い出した。
これは早送りの映画なんかじゃない。紛れもなく俺が歩んできた人生そのものだ。
そうして映像は、あの日へと辿り着く。
暑い夏の日。部活帰り。エナメルのバッグ。自転車。横断歩道と、そして急に現れたトラック。散らばるスニーカー。転がるように倒れているジャージ姿の、高校生。赤黒く染まったアスファルト。
覚えている、俺は。
気が付けば、手術は終わっていた。カンッという音と共に照明が消される。バケオはしばらく動けずにいた。思い出してしまった。本当の名前。どうやって生きてどうやって死んだのか。そしてどうやってレイコ出会ったのか。ぐっと拳に力が籠る。
思い出してしまった以上、もう能天気ではいられない。レイコちゃんにどんな顔をすればいい? どう話せばいい? もう人一倍の傷を背負ってきたというのに。これ以上の荷を背負わせてもいいのだろうか。
そうして逡巡している間にも、レイコがバケオを探している様子が伝わってきた。面倒くさいだの迷惑だのと言いながら、結局は置き去りにしたりしないのだ。レイコは優しいから。バケオ自身だって、レイコの元を黙って去る気にはなれない。きっと彼女と別れたら、もう二度と成仏する機会はない。そんな予感がずっと前からあった。
結局過去からは逃げられないんだ。俺もレイコちゃんも。
唇の端に苦い笑みを浮かべて、レイコがいる中庭へと向かった。




