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絵画や小説や映画や歌。芸術のなかは限りなく自由だ。誰もが見たり感じたり経験したことを心の向くままに描くことができる。
私だって絵に救われてきた。私が霊を視ることを信じなかった人も疎ましがった人も、私の作品のことは否定しなかった。うまいね、きっと礼子ちゃんには才能があるんだね、なんて言いながら笑っていた。私が描く世界が、架空のものであると信じて疑わないからだ。
高校生男子幽霊をキャンパスに置き去りにし、ひたすら絵筆を振るう日々が続いていた。
あれからまた引きこもりの生活を再開させた。それで何も問題はない。最低限の食料や生活や絵画に必要なものを買い出しに行く以外家で生活することは、私にとって何の不都合もないのだ。
初夏の瑞々しくて爽やかで温かな風が吹くようになった。引きこもる、とは言え空気ぐらい入れ替えないと絵具の匂いも籠るし、息苦しい。家じゅうの戸と言う戸を開け、縁側で伸びるきいろを横目に作業を再開させた。
そのときだった。それまで無防備に腹を晒していたきいろが、急に頭を上げ、耳をぴくぴくと動かした。
「いやな予感……」
思わず声が漏れた。だってキャンパスであいつを撒いてから四日間。やつと出会う前の元通りの淡白で静かな生活を送っていたのだ。きいろが歯を剥き、威嚇している。黄色の二つの眼が捕らえる先に、やつはいた。両手を強く握りしめて薄汚れたスニーカーのつま先を見るように俯いている。
「もうほっといてって言ったでしょ」
ほとんど独りごちるつもりだった。
そんな小さな私の声にやつははっと顔を上げた。それから何かを言おうとして口を開いて、結局また視線を下げた。
なんなんだ、もう。言いたいことがあるなら言ってくれ。無いのならさっさとどこかへ行ってくれ。
やつはきいろに威嚇をされながらも、微動だにしない。さながら絵の中の登場人物のようだ。ふと描きかけていたキャンパスをイーゼルから降ろし、新しいまっさらなキャンパスを立て掛ける。
なんとなくそうしてみたくなったのだ。新緑の葉を誇らしげに輝かせる垣根の前に、ジャージを着た高校生の男の子が俯いて立っている。その手前には庭の土、縁側でやつに向かって毛を逆立てる黒猫。和室からそれらを見る、私。
絵具をチューブから紙パレットに絞り出し、薄く溶く。そして大まかに大雑把に、けれど描きたいものを確実に浮かび上がらせていく。下塗りが完成するころにはもう、きいろは威嚇を止めていた。いつでも動きだせる体勢で、見られているのを忘れるなよとでも言わんばかりの雰囲気を醸し出している。庭には垣根の影が落ち、景色は橙色に包まれている。それでもやつは、現れたときと同じ体勢のまま動こうとしない。
それを良いことに筆を変え、細部に色を入れていく。私は葉の一枚一枚だとか、床の木目の一つ一つとか、そういう細かい部分を描くのが好きだ。
そうしてようやく全体の形が見えた頃、ぐうと腹の虫が鳴いた。辺りはすっかり濃紺に沈んでいる。きいろの餌の催促が無かったせいで、すっかり時間を忘れてしまっていた。
「きいろ、ご飯食べる?」
縁側のほうを向くと自ずと視界に入る。やつは相変わらずそこに突っ立っていた。もうなんというか、本当に執念深いというか、足疲れないのかな、とか。呆れを通り越して感心してしまう。だからしょうがなく声を掛けた。
「なんか用事があるならさっさと済ましてどっか行ってほしいんだけど」
昼間とは違い、おっかなびっくりというふうにゆっくりと顔が上げられた。どうして幽霊のあんたがそんなにびくびくしてるわけ、と言いかけて止めた。余計に面倒なことになりそうだ。
「……俺、レイコちゃんに謝りたくて」
「そう。わかった。それだけね、じゃ」
「え? や、そういうわけじゃ……」
「謝るために来たんでしょ? 別に怒ってないし、謝る必要も無いから。それじゃ」
「ま、待ってください!」
くるりと背を向けた私を、切羽詰まったような声が呼び止める。そういえば、雨の臭いがする。もしかしたらひと雨来るかもしれない。
ぼんやりと他事を考えながら、振り向く。
視線がぶつかるとやつは一瞬怯んだ表情をした。それを掻き消したかと思うと、勢いよく頭を下げた。
「ごめん!」
幽霊の大きな声に、きいろが顔を上げる。
「だからいいって……」
「でも謝らないとって思って。だって俺、レイコちゃんの言うとおりだったのに……。レイコちゃんのこと、辛かったこととかなんにも知らなかったくせに勝手なことばっか言って。ほんと俺って馬鹿だなって思って……」
「もっと早く気付いといてよ、それ」
「うん、ごめん……。でも、でもさ。やっぱひとりぼっちでいるのって寂しいと思うんす」
「全員が全員そういうわけじゃないでしょ。私は別に、平気だし……」
「それはレイコちゃんが今まで、分かり合える人と出会えなかったからじゃないんすか?」
ぽたっ。雨粒が茶色の地面に染みを作る。そんなふうに、やつのことばが私の心を濡らした。
「今まではそうだったかもしれないけどさ、これからのことはわかんないし、わかってくれる人と出会えるかもしれないんだし、だからやっぱり一人でいるのって駄目っすよ」
「勝手なこと言わないでよ。私のことなんだから、私の好きなようにやらせてくれればいいでしょ」
「レイコちゃんの作品を評価してくれる人を、自分から拒んじゃ駄目っすよ。だってそういう人たちって、少なくとも絵の……なんていうんだろ、絵の中のレイコちゃんの世界は受け入れてくれてるってことじゃないんすか?」
予想通りの雨が降ってきた。大粒の雫が、あっという間に辺りを濡らしていく。
「レイコちゃんはさ、傷付くのが怖くて、幸せも拒んでるんすよ。幸せになるための途中の辛さとか、幸せを手に入れたときの、予想外の苦しみとかそういうのが怖くて、何も無い生活を望んでるんすよ」
「……それのどこが悪いの」
「悪いとかそんなんじゃなくて、俺はただレイコちゃんに本当に望むものに素直になってほしいだけっす」
降りしきる雨の中で、私を見つめるその瞳はやけに真摯で真っ直ぐだった。今までに私をこんな眼で見てくれた人はいただろうか。同じ世界を共有した祖母の他に、私の、霊がいる世界よりももっと個人的な世界に踏み込んできた人はいただろうか。




