08.ようこそ、夢想堂へ
※以前投稿したものを修正いたしました。
「ホント、ごめんなさい」
布団から暁が起き上がるなり、蒼真は頭を下げた。両手を合わせた彼は言葉を濁らせる。
窓の外はもう暗いが、雨は未だに降り続いている。枕元にはタオルの山。
「いや、ちょっと…ちょっとだよ……? 煙草とお酒が足りなくてね……? オジサン、下まで買いに行ったんだけど……。ちょっとならお客こないしと思ってさ……」
「……鍵、かけなかったんですか」
「ごめんなさい」
良い大人の平謝りに、呆れを通り越して感動を覚える。
そこへ、黒猫が下りてきた。蒼真の頭の上に、だ。蒼真は猫を払おうと、唸り声と共に勢いよく頭を上げる。残念ながら、猫は暁の元に着地してなぁ、とひとつ鳴いた。その横顔に、うっすらと傷が見える。
「大丈夫大丈夫。黒猫クンそれくらいすぐ治るから」
顔に出ていたのか、蒼真は暁を見て肩を竦める。口ごもる暁。その頬を、ざらざらとした舌が舐めた。
「……ありがとうございます、山吹さん」
抱え上げると、彼は彼女の膝の上に丸まった。慣れた重みに、暁は安堵する。
蒼真はひとり、山吹に白い目を向けた。
「猫なら何でも許されると思ってるだろ……」
「あの……猫ちゃん。と言うか、山吹さんは本当に化け猫……なんですか」
今さらと思いながらも、暁は蒼真に訪ねた。未だに、昼間の出来事は彼女の許容範囲を超えている。盗みに入ったあの男は、蒼真が知り合いに電話して、連れていって貰ったらしい。「どこへ?」とは聞かなかった。
蒼真は頬杖をついて、暁へ気のない返事を返す。
「うん。その黒猫クンはオジサンがここに世話になる前からずっと、そのまんま」
「蒼真さんよりも前からここに?」
「俺の前の店主よりもずっと前から、らしいよ」
「その割りには、とても若い、見た目だった様な……」
「そんなの、お嬢ちゃんの気を引くために決まってるでしょ? 見た目に騙されちゃ駄目だよ。その猫クン、お嬢ちゃんに下心しかないんだから」
間髪いれず、山吹が蒼真の手の甲を引っ掻く。悲鳴を上げる彼に、黒猫は毛を逆立てて唸った。
蒼真が山吹に殴りかかり兼ねなかったので、暁は唸る黒い塊を抱え直して話を続ける。
「あの……でも……本当に、ありがとうございました」
「え、何が?」
暁が本題に入ると、ふて腐れていた蒼真は目を瞬いた。やるせない、申し訳ない気にもなって、彼女は視線を蒼真の腕に落とした。
「その、お二人とも、わざわざ……怪我をしてまで、助けて下さって……」
太い彼の腕には、白い包帯が巻かれていた。言わないだけで、やはり怪我をしたらしい。こちらはと言えば、脚や腕に絆創膏くらいなものだ。自然と声が小さくなってしまった。蒼真は気にするな、と目尻を下げる。
「オジサンが鍵しめてかなかったのが悪いんだし。何より、お嬢ちゃんは俺の本を、ドロボーから守ろうとしてくれたんだろう?」
「あ……いえ……守ろうと言うか、見逃せなかっただけです……」
「結果は一緒さ。俺の方こそありがと、お嬢ちゃん」
何だか背中がむず痒くなった。何だろう、これは。お礼を言うはずが、お礼を返されてしまった。
視線をそらす暁の代わりに、蒼真は懐から煙草の箱を取り出す。
「ところでお嬢ちゃん。今回の件で、ここにある本をどう思った?」
「本を……?」
予想だにしていなかった問いかけに、暁は辺りを見回す。紙の匂いが漂う店内は、いつもとそう変わりはない。
蒼真は取り出した煙草に火をつけ、ふぅっと一息。
「黒猫クンから、何となく解説はあったかな?」
「はい。夢を見せてくれる、本なんですよね……?」
「そ。書いてある夢物語りをそのまんま、夢の中で見させてくれる本、と。今回の本みたいに、買い手の想像を夢の中に投影して、思い通りの夢を見させてくれる本。俺はどちらも、夢想書と呼んでいる」
「だから、夢想堂……」
蒼真は頷いて腕を伸ばした。そしてカウンターの棚から一冊、本を取り出す。暁の掌に収まる、小さな本だ。それを彼女に渡して、蒼真は肩を竦める。
「開いてみて」
先の一件もあり、同じ類いだと思うと恐怖感を拭えない。だが、蒼真がそう言うのであれば、大丈夫なのだろう。彼女は意を決して本を開いた。
「……すごい」
「だろう……?」
思わず感嘆の声を漏らす暁に、蒼真は自慢げだった。
そこには様々な色をした鳥が、動いていた。なぜか遠くから鳴き声も聞こえる。それに、ほんのりと温かい。どこと無く甘い香りが漂い、眠気を誘う。五感をくすぐる美しさに、ため息が漏れた。鳥はせわしなく、ページの端から端を飛び回る。けれども、確かに筆で描かれているものだ。。次のページには猫がいた。その次には鯉が。どれも、生きているかの様だ。
「それは書き手、つまり買い手が江戸の絵師でね。自分の絵が、本物みたいに動くのを夢見たんだろう。そして、その通り。絵は夢の中で生きている」
「でも私……今、起きてます」
「そいつはちょっと特別でね」
顔を上げると、蒼真は目を輝かせていた。片手で煙草を弄ぶ姿は、今まで見た彼の中でも一際、楽しそうだ。
「先代から、俺も譲ってもらったものだ。夢想書は、夢の中で見られるものが、断片的にだが、ページを捲れば分かる。本来なら書かれている文字を読むんだが、この買い手は、夢の中に絵以外を残さなかった様だ」
「とても、綺麗です」
詩才でもあれば、それ以外の言葉も浮かぶのだろうが。困ったことに、今の自分にはこれしか出てこない。この本が、あの世界と同一の物だとは到底、思えなかった。見入る暁に、蒼真は続ける。
「ここにある本は、良いも悪いも。全て素晴らしい出来映えの夢を見せる。俺はそれを売る。買った夢をどう扱うかはお客次第。だが、売っている身としては、こうして綺麗な夢が描かれた本が返ってくるのは、嬉しいものでね」
「本が返ってくるんですか?」
「夢が全て叶ったら、もう見る必要もないだろう?」
蒼真は口元を緩める。
彼の問いに、残念ながら暁にはピンとくるものがない。この意味が分かる様になるには、もう少し歳を重ねなくてはいけないのだろうか。
「もちろん、返ってこない本のが多い。本をここに返しに来る、夢を叶えられる人間ってのは。それほど現実と向き合って、努力している人間だ。俺はまず、そんな人間にこの本たちが必要だったのか、疑問にも思うが……」
蒼真は紫煙を吐く。煙たいと言わんばかりに、山吹が低く鳴いた。彼は構う様子もなく足を組み直しもう一息つく。
「大抵の人間は、誰にも言えない夢を墓まで抱いて見続けるもんさ。けれど、別に夢に囚われて生きる必要もない。現実は現実で、楽しけりゃあ構わんだろう。辛くなったら夢を見て、それでまた明日も頑張れるってなら、それを咎める必要なんてドコにある。だから俺は良薬として、ここで、この本を売っている」
「蒼真さんも……白紙の本を開いた事はあるんですか?」
「もちろん、あるよ。一番使っちゃいけない使い方まで一通りやったねぇ、オジサンは」
その言葉に暁は耳を疑ったが、蒼真は謎のウィンクを返してくる。こう言った所は冗談なのか本当なのか、未だに掴みきれない。
「この店に入ってこれるのは、ここの本を必要として、望むお客様だけなんだよ。オジサンはその人たちに、本を売って。あわよくばそれが助けになって……。いつの日か、ここにこうして、返ってきてくれるのを待ってるの」
それが、俺の仕事。
笑みを消して、蒼真は暁の手から本を取る。それがちょっと残念で。まだ先が見てみたくて、名残惜しい。これがそうなら、夢に溺れると言う意味が、暁も少しだけ分かった気がした。
彼が本をしまうのを眺めながら、彼女は山吹から聞いた疑問をそのまま伝えた。
「それなら、私はどうして夢想堂に入れたんですか……?」
山吹も分からないと言っていた。本を買わない自分が、お客とはまた別物なのは明らかだ。
蒼真は本を元に戻すと、再び片手間に煙草を弄ぶ。
「ああ。前置きがすっかり長くなっちゃったな。それで、お嬢ちゃんはここにある本をどう思う?」
その問いが、何か関係あるのだろうか。暁は昼間、自身に起きた出来事を頭の中で反芻した。そして、いま蒼真に見せて貰った、暖かく、鮮やかで、綺麗な世界。どちらも、同じ物。違うものと言えば、その書き手だけだ。
「蒼真さんや山吹さんが言うように……薬みたいなものだと思いました……」
上手く説明できそうにはないが、彼女は取りあえず、頭の中に浮かんでくる単語を切り貼りする。目を伏せれば、瞼の裏に毒々しい空と、歌う鳥が交互に現れた。
「使い方さえ間違わなければ、とても素敵な物です。夢を見るのは……個人の自由ですし……。だから、私が見たような怖いだけの物では、ないと……思いたい、です……」
「そう。それは良かった」
良かったとは、どういう意味だろうか。その声は満足そうだった。
暁は顔を上げる。煙草を灰皿に押し付け、蒼真は火を消す。そして暁へ、親指から順に指を立てて見せた。
「この夢想堂が見える存在は3通り。まずはお客。本を、夢を必要とするお客様。次に、この店と縁がある人間。店主である、オジサンとかね。そしてその他。黒猫クンみたいな、特別な存在。」
「……どれも、私には当てはまりませんが」
謎は深まるばかりだ。自分はここの本を手に取ることもない。夢想堂の存在も知らなかった。何より平々凡々な学生。
山吹も暁の膝の上で首を傾げている。答えが分かっているのは、蒼真だけの様だ。
「オジサンが思うに、お嬢ちゃんは二番だ」
人差し指以外を折り畳み、彼は目を細める。
納得がいかず暁は眉を寄せた。
「私はここに来て、初めて夢想堂を知りました……。友人に、ここの関係者はいません。たぶん……」
「そう。お嬢ちゃんはここの存在を知らなかった。身近に関係者もいない。それでも入れたのは、恐らくこれから先、この夢想堂に縁がある人間になるからだ」
「つまり……?」
簡単に答えを教えてくれない辺り、やはり意地が悪い。暁と山吹の視線を受けてか。蒼真は立てていた人差し指を、そのまま暁へと向けた。
「椚暁クン。君には、この夢想堂の店主になる才能がある」
彼はゆっくりと、そう告げた。
はっきりと、確かにそう聞こえたから、間違えはないはずだ。けれども、暁は耳を疑った。と言うよりも、事態が飲み込めない。開いた口が塞がらないとは、このことだ。
蒼真は彼女に手を差し出し、その口元にあの自信に満ちた笑みを浮かべた。
「そこで提案なんだけどね、暁クン。ここでバイトをする気はないかな?」
猫がみゃあ、と鳴く。
外から聞こえていた雨音は、いつの間にか消えていた。