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06.どうぞ、ごゆっくり。

※以前投稿したものを修正いたしました。

 腕時計は動かない。空も相変わらず赤黒いまま。暁は息を潜めて山吹を待ち続けた。それこそ、全てが悪い夢であって欲しい。しかし鼻をつく悪臭は逃避も許さない。彼女は渇いた唇を舐めた。

 先ほどの光景が脳裏をちらついて、離れない。山と積まれた、マネキンの入ったずた袋。彼に何があったのか、自分には分からない。

 山吹は少しも驚かなかったが、あんなものを見慣れているのだろうか。化け猫だから、人間には興味がないだけなのか。何にしても、金色の瞳が早くも待ち遠しい。

 膝に額を押し当ててひとつ息をする。一人になってから、耳鳴りが止まない。不安のせいだろうか。耳を塞ごうと両手を持ち上げたその時。金属が擦れる音がした。肝が冷えた暁は、恐る恐る顔を上げる。

 その音は確かにこちらへ近付いて来ていた。音を立てない様、暁はゆっくりと立ち上がる。嫌な汗が体中に浮かんできた。無意識に生唾を呑み込む。耳鳴りは、強くなるばかりだ。

 近くに身を潜めて、山吹を待つべきか。

 全力で、この場から離れるべきか。

 残念ながら体力はそこそこでも、足に自信はない。ならば、隠れてやり過ごすべきだろうか。思ったよりも冷静な頭に、暁は自分でも驚いた。

 辺りを見渡して目に入ったのは、ひしゃげたロッカーや、何が捨てられてあるのか不確かな、異臭を放つごみ箱だった。入りたくない。と言うのが、正直な所だ。けれども、それ以上に入り込んだ先で見つかったが最後、逃げ場はない。

 ずだ袋からはみ出た作り物の手足が脳裏をよぎり、背筋がす、と冷めた。暁は身を屈めて、音のする方から後退を始める。音を立てない様に、細心の注意を払った。一歩ずつ。嫌な汗が背中を伝っていく。

 しかし、ただの不運か、それともここがあの男の夢だからかは分からない。彼女の足元でガラスが渇いた音を立てた。途端に、頭が真っ白になる。案の定。金属が擦れる音はその間隔を速め、こちらに向かってきた。

 暁は考えるより先に走り始める。どこに向かうでもなく、この場から離れなければならないと言う衝動に突き動かされるまま。彼女は廃墟の中を走る。

 空気が重く、すぐに息苦しくなった。こんなに体力がなかっただろうか。自分の足につまずきながらも、建物の影から広い場所に出た。

 気付けばあの音はもうしない。気持ちの悪い、耳鳴りだけだった。振り返っても追いかけてくる影が見えない事に、暁は大いに安堵した。

 息を切らしながら、足を止めてしゃがみ込む。胸がつっかえて吐き気がする。悪臭が強くなったせいもあった。汗を手の甲で拭って、暁はふとそこで我に返った。なぜ、悪臭が強くなったのだろうか。

 革靴が地面を踏む音がした。暁は顔を上げようにも上げられず、その場に固まっていた。足が動かないばかりか、手が震え始める。これでも動けと念じている。動けと念じると同時に、それを上回る恐怖が阻む。呼吸は不規則になり、正しい息の仕方すら分からない。


「君に恨みはないけど、すまない」


 男の声は、店で聞いた時よりも、よほど落ち着いていた。この状況では落ち着き過ぎて、違和感を覚える。どうにか、彼女は顔を上げた。意外にも、彼の表情は穏やかだった。それがまた異様だ。


「ここは私だけの夢なんだ」


 その手には鉄のパイプが握られている。本当に鉄のパイプなのかは分からない。なにせ、それは真っ赤なのだ。

 逃げなければならないのに、どうでも良いことばかり。頭をめぐる。

「目覚めなければ、ここからは出られない」と、山吹は言っていた。ではもし、ここで死んだら。現実の体はどうなってしまうのだろう。目覚められないとはつまり、そういう事なのだろうか。


「お嬢、夢に呑まれるな」


 不意に降ってきた声は、やけにはっきりと、暁の耳に届いた。

 目の前で男の体が文字通り、すっ飛ぶ。人形の様に。

 男の体は、砂煙を上げ、その先にあった廃屋と、埃の中へ消えていった。瓦礫が崩れる音が開けた空間に鈍く響き渡る。

 蹴り上げたと思われる脚を下ろすと、山吹は暁へ手を差し伸べた。


「どうやらお嬢の存在には、気付いてたみたいだな。一人にして悪かった」

「あ、あの人は……」

「これはあの男の夢だ。痛みも傷も、無かったことにするくらいは、造作も無い」


 険しい表情で、山吹はそこに立っていた。長い髪が風もないのになびいている。

 どうにか力を入れ、彼女は立ち上がろうと彼の手を取った。体温に触れた途端。あれほど動かなかった体が軽くなる。


「すいません……。待っていろと言われたのに、その……」

「仕方ない。ここは夢の中だ。全ては夢の主に都合が」


 山吹は唐突にそこで言葉を切った。差し出していたその手で暁を突き放し、彼はもう片方の腕で、自身の頭をかばう。彼女が倒れ込んだ瞬間。彼の横顔へ向かい、大人の拳ほどのツブテが一直線に飛んできた。何かが割れる嫌な音が、暁の鼓膜を震わせる。

 呻き声と共に山吹は倒れる。暁は悲鳴を上げた、つもりだった。実際の彼女の喉からは、ひきつり、掠れた声だけが漏れている。

 悪態をついて、山吹が僅かに身じろいでいた。彼の切れた腕や額から落ちた赤が、コンクリートを染める。目の当たりにした暁は、息をするのを忘れた。

 早く助けなければならない。はやく、はやく、はやく―

 唇を噛み締め、彼女は冷たい地へ手をついた。その体に、音もなく人影が重なる。


「痛いじゃないか……。俺が、何をしたって言うんだ……」


 見上げると、先ほどの穏やかな顔が、再びこちらを見下ろしていた。心臓が早鐘を打っている。山吹を助けるだなんて。そんな場合ではない。


「俺が何をしたって言うんだ……。俺が何をしたって……」


 男は同じ言葉を繰り返している。その間にも、手にした凶器はこちらに向けられ、高く振りかざされていく。

 山吹が逃げろと叫んでいる。分かっている。けれど、指先ひとつ動かなかった。頭は正常に動いているはずなのに、体が、それに応えない。次第に、思考すらも不確かになっていく。自分は一体、どうすれば良いのだろうか。

 一定の高さに達した凶器はそこで一度、動きを止めた。そして、それは暁の顔を目掛け、真っ直ぐにふり下ろされたのだ。





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