02.店主と黒猫
※以前投稿したものを修正いたしました
それから。暁は時間が空くと、学校帰りに夢想堂へ寄るようになった。夢想堂のある丘は、家と学校のちょうど間にある。登校はこれまで通りの道。帰りは丘の林を通り、あの軋むドアを開いた。別段、何を買いたい。と言う事もなかったが、不思議と足がそちらに向いていた。
夕方の林は、昼間よりずっと涼しくなる。夕陽が店内を赤く染める中で、暁は蒼真が出してくれる茶を飲んでいた。それは絶妙に、生温い。
「最近の若い子は大人びてて、オジサンには学生に見えんね」
「蒼真さんは何歳ですか」
「ひ、み、つ」
蒼真は口元に指を立てた。女子か。と突っ込みたい暁だったが口をつぐむ。
温い茶を湯のみへ注いでいると、黒猫が膝の上に乗ってきた。暁は視線を落として丸い猫を撫でる。
「そう言えば、この猫の名前は何て言うんですか?」
「あー……なんだっけ」
「ええ……?」
蒼真は眉を下げて頭をかく。彼を見上げ、猫がふーっと唸る。
「ほら、蒼真さんがバカにしてるの分かって、猫ちゃん怒ってますよ」
「馬鹿にしてる訳じゃないって。普段めったに呼ばないから、オジサン忘れちゃったんだよ」
なんだっけなー。と蒼真は顎を撫でて視線をそらす。可哀想に。暁は彼を恨めしげに見上げている猫を撫でた。
そんな所へ、ドアが軋んだ音を立てる。暁は驚いた。客のようだ。暁が見る限りでは初めての。
客は女性だった。麦わら帽子の下から、長い髪が流れる様に艶めく。赤い口紅が目を惹いた。
気の抜けたいつもの声で、蒼真が「いらっしゃい」と声をかける。言われた覚えのない暁は、じとりと彼を睨んだ。女性はしばらく店内を見回して、中央の棚の前で足を止めた。そしてしばらく棚を眺めた後、本を一冊、手に取った。
「おいくらですか」
「逆にお聞きしましょう。おいくらでならお買い上げに?」
蒼真の口角がにぃ、と持ち上がる。その笑い方が実に胡散臭い。
女性が彼に差し出した本は文庫本だった。橙色の表紙は夕焼けを彷彿とさせる。今日のような真夏の夕焼けでなく、秋の肌寒い夕焼け空。タイトルは、無い。
暁は猫を抱えたまま、ちらりと女性の顔を盗み見た。蒼真の問いかけに、彼女は目を伏せて考え込んでいる。
「ああ。因みに、ウチではカード利きませんよ」
片手で煙草を弄んで蒼真はにやついている。
そんなに価値がある本なのだろうか。暁は目を凝らしてみた。確かに、白いはずの紙は黄ばんでいる。けれど、それ以外に特別、何かある様子もない。
女性は無言で財布を取り出すと、札を何枚か取り出して、蒼真に渡した。
「では、どうぞ。大切になさって下さい」
そして彼はあろうことか、数えもしないでそれをカウンターの中にしまい込んだ。暁は呆気に取られた。女性も一、二度、目を瞬いた。けれども彼女はひとつ頷いて、そそくさと財布と本を鞄に入れた。ヒールの音が足早に出て行く。店のドアが軋んで、再び閉ざされる。
「良いんですか。あんな風に売っちゃって」
「ウチの店ではずっとこうなんだよ」
「あの人が払ったお金が、1円だったとしても?」
「買った当人がその程度の価値だと思ったなら、その程度の価値だったんだろう」
まるで他人事だ。納得のいかない暁に、蒼真は紫煙をはきかけた。
「言っとくが、ウチの本はどれも一級品でね。はした金で買ってく様な輩はいないのさ。ま、あの本ならもう少し払ってくれても、いい気はするんだが……」
「制服が、煙草臭くなったらどうするんです……」
むせながら暁は煙を手で払う。
蒼真の言っている意味がよく分からなかったが、彼の着ている浴衣がどれもよれよれな理由を、彼女はそれとなく悟った。
「あ。そうそう。思い出した。黒丸」
ふいに蒼真は手を叩いて猫を指さす。猫は暁の膝の上から、蒼真へ向かって跳んでいった。男の悲鳴と、獣の唸り声が夕暮れの店内に響く。
どうやら、猫の名前は分かりそうにない。
また別の日。夏の終わりにも差し掛かったと言うのに、太陽は焼けつくようだ。
アイスクリームを差し入れにやって来た暁を見て、蒼真は目を輝かせて飛び起きた。彼はそれまで扇いでいた団扇をカウンターに置き、奥の勝手口へと向かう。空調が扇風機だけの割りに、ここは随分と涼しい方だ。
暁はアイスクリームのカップをふたつ。カウンターの上に置いた。冷たい汗がカウンターの上に円を描く。あまり溶けていなければ良いのだが。
もうひとつ、彼女は袋から猫缶を出した。名前が分からないのでとりあえず「猫ちゃん」と呼んでみる。すると、奥の方からのっそりとした様子で黒猫が現れた。いつもの機敏さがまるで足りない。
しかし缶詰の蓋を開けると、猫は鼻をすんすんと暁に向けた。足早に彼女の元へとやって来たと思えば、先ほどまでの気だるさはどこへ行ったのか。なあなあと鳴いて、猫は暁の周りをぐるぐる回り出した。
分かりやすい反応。暁は床に缶詰を置く。黒猫は鼻まで突っ込んでそれを食べ始めた。
「お嬢ちゃん、黒猫クンにまで差し入れ持って来ちゃったの?」
「あ……いけませんでしたか?」
もしかして何か食事制限でも。そう勘ぐる暁に蒼真は首を横に振る。
「いや別に。俺なんて黒猫クンに餌やったこと無いよ」
「え? 蒼真さんの猫ちゃんじゃないんですか?」
「あーないない。オジサン、陰気な黒猫よりも三毛猫の方が好きだし」
蒼真は腰を下ろすと、暁に冷たい茶を差し出す。汗で小さな水溜まりを作るアイスクリームを開封し、蒼真は白く輝く平面にスプーンを差した。
「黒猫クン、可愛げないし」
「可愛いじゃないですか。賢いし」
「賢いのが過ぎるから嫌いなの。女の子と一緒」
蒼真はアイスクリームを一口食べて、至福のため息をついている。そんな彼を、その黒猫はじっとりと睨み付け、口の周りを舐めていた。この様子では、一人と一匹の仲は改善されそうにない。
暁も息をひとつつき、スプーンでアイスクリームを掬い口に運んだ。冷たく甘い塊が喉を滑り落ちる。たいへん美味しい。
ここは良い避暑地だ。坂道の上り下りさえなければ、なおさら嬉しいのだが。
「おや、いらっしゃい」
足元の猫を眺めながら暁がそんな事を思っていると、客が来た。蒼真は声をかけておきながら、相変わらずアイスクリームを掬っている。
「すいません……。ここの本は……だいたい、どれくらいのお値段ですか」
少年の声だった。暁が顔を上げると、制服を着た学生だ。見覚えがある制服だった。私立だったと思ったが、どこの制服だったろう。暁は首を捻る。
蒼真は食べかけのアイスクリームを置いて彼に向き直った。
「まず欲しい本を選べば良い。ここの本の値段は、買い手が決めるんでね」
「……僕が?」
「そう。君がここにある本の値段を決める」
戸惑う彼に、蒼真は例の胡散臭い笑みを浮かべる。目を細め、まるで蒼真が相手を品定めしているようだ。口元から隠しきれていないその自信は、一体どこからくるのか。
目を泳がせて辺りを見回す男子学生に、暁は同情した。指が冷たい汗に濡れる。
男子学生の目は、彼女の隣にあった棚でぴたりと止まった。手にとって眺め、彼はそう考えることもなくそれをカウンターの隅へと置いた。
先日の女性もそうだった。何となく足を運んだ様子で。しかし、あの女性もこの彼も。どれを買うかはすでに決まっている様子で、蒼真へ本を差し出す。
「あの……今、財布の中身、あんまり無くて……」
「俺の言い方が悪かったかな。値段でなく価値を決めてくれ。君が今、出せる金額。それをこの本になら、どれだけ出せるかを」
あまり見る機会もない大判サイズ。水色の表紙だった。和綴じの本だ。表紙に花の模様がある。けれどやはり、タイトルは無い。
彼はくたびれた財布を取り出すと、カウンターに札を手のひらで広げ、更に指で財布の底にある小銭を漁っていた。じゃらじゃらと一円玉や十円玉がカウンターに広がる。それらを手で纏め、彼は蒼真を見上げた。
「これで、足りますか?」
「それで君が後悔しないなら、その本を大切にすると良い」
蒼真の声は穏やかだ。けれど暁が見る限り、札が1枚と、小銭が狭いカウンターに小山になっているくらいだった。
礼を蒼真にひとつ残して。彼は本を抱え、足早に店を出て行った。蝉の声が少しだけ大きくなり、またすぐに小さくなる。
「あの本って、高いんじゃないですか」
暁が空になったアイスクリームのカップを置く。蒼真はスプーンをくわえて、先ほどの彼が置いていった小銭を手で仕分けている。
「良いの良いの。恐らく、これは今の彼が出せる、最高額だ」
つまり、あの男子学生は手持ちの全財産をひっくり返したのだろう。タイトルの分からない本を喜んで抱えて行った横顔を思い出して、暁は首を傾げる。そうまでして欲しかった本なのか。
蒼真はくしゃくしゃな札を摘まんで、小さく笑った。そこにあの、胡散臭い含みはない。
「あの本は幸せじゃないか。本当に必要として貰える主人に、最高の価値をつけて貰って、ここから出ていったんだから。売る側としても嬉しいもんだ」
「なら、カウンターの中身。もう少し整理したらどうですか?」
暁は蒼真が札をカウンターの中に詰め込もうとするのをひき止めた。
中身は酷い有り様だ。小銭は区切ってはある。が、ちらほら別の物が混じっているし。札は全て一緒だ。
彼がなけなしのお金をはたいて買ったと分かっているのなら、もう少し大切にしてあげても良いのでは。
「オジサン、整理整頓苦手でさー」
「そんなのはお店を見れば分かります」
暁はカウンターの中身を取り出した。奥の方から福沢諭吉さんがごっそり出てきて、流石に彼女の額にも冷や汗が浮かぶ。諭吉さんどころか、初代総理大臣まで出てくる。いつから整理してないのか、聞く気にもなれない。
暁が黙々と札と小銭を仕分ける隣で、蒼真は溶けかけのアイスクリームを食べていた。猫がにぁあにゃあと鳴いている。缶詰の縁を持ち上げては下ろして、を繰り返しているのが聞こえた。
生憎と、お代わりはありません。暁は聞こえないフリをした。
カウンターの奥の方にはまだ小銭が見える。食べ終えた蒼真は、暁の隣でスプーンをくわえたまま。彼女が視線で訴えると、目をそらした彼は煙草に火をつける。
仕方のない人だ。全くもって。暁はため息をつき、ひたすら古銭を取り除く作業を始める。足元では諦めたのか、お腹を満たした猫が眠りについている。
椚暁の今年最後の夏は、そうして終わった。