01.いらっしゃいませ
※以前投稿したものを修正いたしました。
こんな所に本屋だ。
暁は小道の途中で足を止めた。林の中、蝉の声があちこちから聞こえてくる。普段使っている道は工事中だった。そのため少し遠回りをしてきたが、思わぬ発見であった。
『古書店 夢想堂』とだけ書かれた小さな黒板が、入り口の前に立てかけてある。古めかしい赤レンガの洋館は蔦に覆われ、まるで幽霊屋敷だ。
腕時計を見ると、友人たちとの約束まではまだ時間があった。ここまで登ってきて、もう汗だくなのだ。少し涼んで行こう。そう思った暁は入り口のドアに手をかけた。
ドアは軋みながら開き、彼女を迎え入れる。入った途端に、紙の匂いがした。図書室の端の匂い、とでも言えば良いのか。少しカビ臭い、紙の匂いが充満していた。首を回している扇風機以外の空調は見当たらない。のだが、案外、中は涼しかった。
店内には、誰もいない。ドアを閉めると、あれ程うるさかった蝉の声さえ遠くに聞こえた。電球が上から下がってはいたが、灯りはついていない。天窓からは夏の容赦ない太陽が真横から壁を照らしている。
驚いたのは、無造作とも言える本の山だった。壁の棚からはみ出した本は、机の上から足元まで。ぎっちりと積み上がっている。一番奥にはカウンターらしき物も見えるが、それも半分は本に埋まっていた。
暁は呆れながらも店の中へと足を進める。
どの本も、古めかしい表紙や背表紙。和綴じの本も少なくはない。棚の上の方には、巻物みたいな物も見える。こんな置き方で痛まないのだろうか。そんな疑問に答えてくれそうな気配は、やはり無い。
不意に、棚を眺めていた彼女の足元へ何かが触れた。暁が驚いて声を上げると、それはにゃあと鳴いてその場に腰を下ろす。それは、猫だった。
胸を撫で下ろした彼女は、同時に少しばかり恥ずかしい。辺りを見回した後。しゃがんだ暁は猫の頭を撫でた。赤い首輪は黒い毛並みに映えている。よく手入れされたその毛は艶やかだった。
「こんにちは。君がここの店主かな」
喉を撫でると黒猫はごろごろと鳴いて目を閉ざす。人馴れしているのか、抱き上げても腕に収まっていた。カウンターまで足を運ぶが、奥を覗き込んでも人影ひとつ見えない。店の中央にある柱時計も、2時を少し過ぎた所で止まっている。
猫を撫でて、暁は首を傾げた。
「店主は君に店番を任せて怠けているの?」
「初対面にして、怠けているのか? とは、失礼だなお嬢ちゃん」
後ろから聞こえてきた男の声に肩が跳ねた。暁は慌てて振り返る。入り口からは本棚で見えなかったが、棚の後ろは階段になっている様だ。
薄暗い更にその上から、声は聞こえてきた。顔は見えない。辛うじて素足と着物の裾が見える。ここからでも、煙草の匂いがした。
「まあ、否定は出来ないな」
気の抜けた声に、暁の肩からも力が抜けた。猫を抱えたまま、暁は階段を見上げる。
「お昼休みですか」
「ああ。お客様が来るまでな」
ここにいるのは紛れもない、そのお客様ではなかろうか。息をついて、暁は足元の本に視線を落とす。そしてふと気づいて回りを見渡し、不思議に思った。
「ここにある本には、タイトルが無いものが多いですね」
ちらほらと、そんな本が見られた。どんなに古くとも。どんなに綺麗な装丁があっても。表紙に文字が一つもないのだ。作者名も。
腕の中の猫がみゃあ。と鳴いた。
「ああ。そうだね」
「どうしてですか?」
「その本の題目がまだ決まっていないからだ」
「売っているのに?」
暁はますます首を傾げる。外見も内装も去ることながら、奇妙な古本屋だ。ついでに店主も。
階段が軋む音が聞こえた。見ると、声の主がゆっくりと高い階段を下りてくる。
「題目を決めるのは、買い主なんだよ」
「買い手がタイトルを決めるんですか?」
「お嬢ちゃんも一冊、買ってくかい?」
男は紫煙を吐いて、笑みを浮かべた。その口元には無精髭が見える。無造作に後ろで束ねた黒髪が肩にかかり、よれた浴衣からはやはり煙草の臭いがする。
猫を胸の前に抱え直して、暁は彼から一歩だけ距離を取った。
「この後、用事があるので。今回はご遠慮します」
「そうか。では、またの機会に宜しく」
彼はカウンターに腰を下ろす。畳みの上でなく、カウンターその物に。足を組んで、彼は懐から紙切れを一枚取り出し、暁へ差し出した。
「まあ、その機会があれば、ね」
「かしわ、ぎ……そうま……?」
「そーま、です。蒼いに真で、そ、う、ま」
と、読むらしい。暁は柏樹蒼真と手書きで書かれた名刺を鞄にしまうため猫を下ろした。蒼真はそれで、とこちらに視線をやる。
「お嬢ちゃんのお名前は?」
「椚暁と言います。あかつきと書いて、あきら」
「ほお。そいつは良い名前だね」
蒼真は笑って自身の顎をなでる。
「実に良い名だ」
一言で言うと。男の第一印象は胡散臭い、だった。思わせ振りな彼の言葉に、暁はありがとうございます。と無難な相づちを返す。
待ち合わせもある、このくらいにしておこう。
腕時計を見ると、彼女が思っていたより進んでいなかった。暁は猫を一撫でして、蒼真へ一言、そろそろ失礼します。と軽く頭を下げる。気の無い返事が彼女に返ってきた。
店を出ると蒸し暑さが一気に顔にかかる。蝉の声は変わらず耳障りだ。
額に浮ぶ汗を拭いながら、ゆっくりと待ち合わせ場所に向かった。しかし駅前で待っていた友人たちは暁を見るなり、眉をつり上げる。それもそのはずで、駅の時計は一時間も約束の時間を過ぎていたのだ。暁がため息をつきながら腕時計を見ると、針はあの古書店に入った時間で止まっていた。