1
現在連載中の小説が行き詰ったため、心機一転を計ってミステリに挑戦することにしました。題名からも分かるとおり、アガサ・クリスティーの名探偵ポワロのオマージュとなっております。楽しんでいただけたら幸いです。
男は焦っていた。手に汗を滲ませながら、一心不乱に動き回っている。
みずぼらしいが、キレイに整理されている部屋。ブラシ、化粧品……、鏡台の上に置かれたものを次々と手に取る。それらを、手当たり次第に布の袋へとぶちこんでいく。
窓から射した日の光は、男の恐怖と焦りにまみれた顔を照らし出す。
まるでその場所を侵すかのように、男の行動はせわしなく、乱暴だった。
ひじがぶつかり、家具の上に置かれた花瓶がひっくり返る。だが男は意に介する事もなく、自分の作業を続けていた。
部屋……、いやその家にはその男以外の気配は無い。彼を見ている人は誰もいない。
傍らに置かれたひとつのトランクだけが、ただ彼の様子をみつめている。
中身は一体なんなのか……?
その答えは、部屋の中の男にしか分からない。
今日も何事もなく、私はのんびりとした日々を過ごしていた。
いつも通り、こうして馴染みの喫茶店で紅茶をすすっている。大都市の一角にポツンと佇む小さな店。だが、不思議と心が休まる。まるで砂漠の中のオアシスにいるような感覚だ。
まったりとした気持ちで新聞を手に取り、印刷された文字を一字ずつ目で追っていく。
このブリテンという国に来てからというものの、昔ではとても考えられないような生活を送っている。朝起きて、何事もなくただ時間を過ごし、安らかに寝る。その日々の繰り返しが、これほどありがたいものとは思わなかった。
傭兵だったころは、あちこちの戦場を転々として気が休まる日などなかった。どこから銃弾が飛んでくるかも分からないし、今まで隣で笑っていた奴が一瞬のうちに帰らぬ人になることもある。私が今日まで生き残ってこれたのは、日頃の行いが良かったからだろうか? いや、戦争と言う人殺しに加担していた以上、それはないだろう。直接人を殺したことがないとはいえ、そういうことを考え出すとどうにも気分が悪くなる。
この国では世界は平和だと謳われているが、そんなことは無いと思う。現に私のような傭兵を必要としている国は、いまだに存在している。どんなに言いつくろったとしても、戦争の火種はあちらこちらに転がっているのだ。宗教、資源、過去の遺恨……、数えあげればキリがない。
ナニが人々をそこまで駆り立てているかは知らないが、戦争がなくならないというのは悲しいことだ。傭兵という職業から身を引いた今でも、それはイヤと言うほど感じる。戦争で飯を食ってきた人間が言えたことでもないが……。
そんなことを考えつつ、私は目の前にいる女性にに目を向ける。彼女は皿にのっかったケーキを見つめ、ただ黙々と頬ばっていた。
清楚な顔立ちで、緑色の瞳が輝いている。セミロングの黒い髪。端は外側に向けて跳ね上がり、まるでかもめが翼を羽ばたかせているように見える。小柄で細身だが気品に溢れ、幼さは一切感じない。どことなくミステリアスな雰囲気を醸し出しており、得体の知れない何かを内包しているようだ。
「ん……。やはりここのチョコレートケーキは良い。……この甘さと苦さの絶妙なバランス。まさに絶品だ」
「……君はいつもそうだな。たまには世間のことにもう少し目を向けたらどうだい?」
「そんなことをいちいち気にしてもしょうがないな、ヘイスティングス……。最も、私が興味を惹かれるような出来事があれば話は別だけど」
何を言っているんだといった目線を向けながら彼女……、ポアロはフォークでケーキをつついた。
「……そうだな。じゃあこういうのはどうだ? "白昼の恐怖! 哀れな夫人が焼身自殺か?"」
「私が手を出さなくても、警察がなんとかする」
「"デイビスはいずこに? 銀行有価証券の行方は?"」
「……横領したの? 額は?」
「うーんと……、9万ポンド」
「なるほど。でも興味はない。それが国王陛下の身代金だというのなら、自ら調査に乗り出してもいいけれど……」
「身代金としては十分な値だと思うけどね。……"騒然! 天才ピアニストが行方不明"。これならどうだい?」
「……論外」
「そうかい? どれも興味がひかれそうなものだと思ったんだけどな……。まぁ、分かってはいたけれど」
私の話に対する興味が失せたのかのように、視線をケーキに戻すポアロ。どうやら彼女にとって、どの事件も興味を惹くほど重要なものではないらしい。
彼女は優秀な犯罪コンサルタントだ。警察などの依頼主に対して犯罪捜査に関する助言を与え、事件を解決に導いていく。私がポアロの助手となる以前も、かなりのモノを扱ってきたようだ。私が知る限りでは、大統領の誘拐事件、大使館での殺人事件など、国家にとって重大な事件にいくつも解決している。誰もが認めざるを得ないほどの実績を持っているのだ。
「そんなものよりこっちのほうがよっぽど問題だ。このケーキの味付けが何度食べてみても分からない。私でも解けない謎……、大変興味深い」
「店の人に聞いてみれば? 週に三日は通ってるんだし、常連のよしみでヒントくらいはくれるかも」
「駄目だ。それは私のプライドが許さない。この謎が解けるまではここに通い続けるつもりだ」
「そうなったら出費がかさむな」
「金が足りなくなったら君を部屋から追い出せばいい。そうすれば気兼ねすることもなくなる」
無表情で聞き捨てならないことを言ってのけるポアロ。そもそも君の稼ぎなら多少の贅沢はできるじゃないか? そう言いたいのをグッと堪える。いつもの冗談だと思いたいが、本当に追い出される可能性もありうる。それは絶対に避けたい。
ある出来事を境に、私はポアロの住居兼事務所であるWへヴンマンションの一室に居候している。どこにも行く当てのない私を、ポアロが誘ってくれたのだ。
始めのうちは、女性と同じ屋根の下で過ごすことに思うところはあった。だが私とポアロの関係は、男と女といった単純なものではない。少なくとも、私は彼女のことを最高の友達として認識している。多分ポアロもそうだろう。
だからこそ今まで余計な気をかけることがなく、満足した日々を送ってこれた。それがなくなるのは、以前の孤独な生活に戻ってしまうようでつらい。あと数年くらいはこの生活を続けていたいのだ。
「そうかい? 僕が出ていったら、買い出しとかの肉体作業はみんな君ひとりでやることになると思うけど?」
「…………いじわる」
うらめしそうな視線で睨みつけられる。ポアロは頭がいいし、料理や掃除などにはある種のこだわりがあるので家事は得意だ。だが肉体労働はあまり好きでは無いらしい。そういう類の仕事は、もっぱら私の担当だ。頭では到底かなわないが、体力ならこちらのほうが有り余っている。そういう点では、私もポアロの役に立っていると思う。
「とにかく、そのケーキを食べ終わったらはやく部屋に戻ろう。紅茶も飲み終わっちゃったし」
「まだだ。……あともう少し堪能したい。何かが掴めるかも」
「ポアロ……」
結局のところ、少しでも長くデザートを味わいたいだけではないのだろうか? ケーキに夢中になっているポアロを見ると、そんな疑念が頭をよぎる。だからと言って彼女のひと時を邪魔をするつもりは毛頭ない。時間はまだたっぷりとあるのだ。焦る必要はないだろう。
さて、何をしようかな? 私が思考の海に沈もうとしたとき、不意に違和感を感じた。
誰かに見られている……?
軽く警戒しつつ店内を見回してみる。私たち以外の客はニ、三名ほど。いずれもひとりで座っており、各々が自分の時間に没頭しているように見える。
その中で気になる人物がいた。ちょうどポアロの真後ろの席に座っている女性。注意深く見ていると、時折こちら側に顔を向けようとしている。直前でやめているところをみると、何かに戸惑っているように見えるが……。いずれにしてもこのままと言うわけにもいかない。気が散るし、もしかすれば私たちに害をなそうとするかもしれない。
私は静かに席を立ち上がり、女性のもとへ歩み寄る。
「もしもし? 私に何か御用ですか?」
「えっ……!? あの……その…………」
つとめてやさしく声をかけると、女性は一瞬驚いた後、うつむいてもじもじし始めた。細身で年は若く、顔はキレイでも不細工でもない。のんびりとした口調から、おとなしそうな印象を受ける。赤毛のセミロングが印象的だが、少なくとも私の好みのタイプではない。彼女の行動を観察していると、不意に彼女の口が動く。
「あの……、あなたの後ろの方はもしかして探偵さんなのですか?」
「はい?」
「その……、失礼かと思ったのですが会話の中身が聞こえてしまいまして……。そちらのお嬢さんが事件を調査するかしないかということを話していたものですから、もしかしたらと思いまして」
彼女の洞察力、いや想像力に思わず感心してしまう。確かにそれらしい会話をしていたが、それだけでポアロの職業を推定するとは……。他人から見れば、ポアロはどこかの育ちのいいお嬢様くらいにしか思わないはずだ。先入観で物事を判断しないのは、素晴らしいことだと思う。だが同時に、新たな疑問が芽生える。
はたして赤毛の彼女の目的は何なのだろうか?
「確かに探偵に近いことをしてはいますが……。失礼ですが、どうしてそのようなことをおっしゃるのですか?」
「……お願いしたいことがあるのです。私、マリアベルといいまして、クラパム・プリンス・アルバート通りにあるお家で家政婦をしています。お話だけでも聞いていただけないでしょうか……」
「お話……、と言われましても……」
正直困ってしまう。あきらかにマリアベルと名乗った少女は、ポアロに依頼をするつもりだろう。よもや探偵(正確に言えば犯罪コンサルタントだが)と世間話がしたいわけでもあるまい。だが肝心の歩アロはチョコレートケーキに夢中になっている。私だけで勝手に話を進めるわけにもいかない。
「……少しだけ興味がある。簡潔に依頼の内容だけ教えて」
「ポアロ?」
私たちに背を向けたまま、ポアロは抑揚のない声でつぶやいた。こちらを振り返らないのは、そこまでの興味がないのか、または面倒くさいだけだからなのか……。何にせよ、私は悩む苦しみから解き放たれた。マリアベルは話を聞いてもらえる喜びからか、少しだけ微笑み、ポアロの背中のほうを向く。
「人を探してほしいんです」
「人……? どんな人物?」
「私の先輩のコック、女性なんですけれど……」
おずおずと話すマリアベル。それを黙って聞いていたポアロは、音をたてることなく手元のハーブティーを口につける。こちらに振り返る事はなく言葉を発する。
「……時間を無駄にした。実にくだらない」
「くだらない……ですって?」
「そう。私の頭脳はそんな低次元なものには使わない……。国や大多数の人間が不幸になってしまうもの、私でしか解決できない事件。そういったモノにだけ使われる。コックの一人くらい警察にでも探してもらえばいい」
容赦のないポアロの言葉に、マリアベルは押し黙ってしまう。怒りと悔しさによるものだろうか、彼女の肩が小刻みに揺れている。
確かにポアロは犯罪コンサルタントとしては特殊な立ち位置にいる。自分の立場を世間にオープンしていないのだ。ポアロいわく、自分の存在が衆目の下に晒されるのが不快らしい。だから表立った依頼は受けていないし、興味の対象外である事件は進んで調査しようとしない。警察でも解決できそうな事件などもってのほかだ。私が助手になってからも、それは変わらない。
だとしてもポアロの先ほど言動は、少しばかり酷ではないだろうか。ポアロの自尊心が人並み以上で、他人に対してあまり心を開かないのは理解している。だが、相手はこちらの事情など知るはずもない。多少の齟齬があるのは仕方ないではないか。マリアベルの勇気ある行動をくだらないの一言で済ますのは、いくらなんでも度がすぎる。
しかしポアロの言うように、ただの人探しならば警察に頼めば済む話ではないだろうか。よほどの人格破綻者でもない限り、国民の税金分の仕事はしてくれるはずだ。それなのに何故、マリアベルは偶然遭遇したポアロに依頼する必要があったのか?
何か特別な事情があるのかもしれない。警察には話すことができないような……。だとすれば、それを聞いてから判断しても遅くは無いはずだ。もしかしたらポアロが依頼に興味を持ち、マリアベルの助けになってくれる可能性もある。
いまだにそっぽを向くポアロに忠告しようと口を開きかけたその時……、マリアベルが突然立ちあがった。
「……何ですかそれはっ!? 確かにいきなり話を持ちだした私も悪いですけど……、そんな言い方あんまりじゃないですか!? あなたにとってはたかがコックかもしれません。でも私にとっては重大なことなんです! 突然いなくなるなんておかしいのに、警察はまじめに取り合ってくれないし……、ひとりじゃどうしようもないんです。あの人は私にとってとても"大事な人"なんです! かけがえのない! それって国や貴族が大事なモノをなくすのと同じことではないんですか!?」
いままで肩を震わせていたマリアベルが叫んだ。怒気と悲しみとが入り混じった彼女の訴え……。あまりの迫力に店内が静まり返る。私も気圧されている。いままで草食動物のような印象だった彼女が、ここまで感情をあらわにするとは思ってもみなかった。
マリアベルの叫んだ"大事な人"という言葉……。そのコックが彼女にとって本当にかけがえのない人物なのか、それともただ病的に依存しているだけなのかは分からない。だが、ここまで感情的になれるということは、少なくとも彼女の言う"大事な人"であることは間違いないようだ。
私にはマリアベルの想いが他人事のようには思えない。脳裏にポアロのことを思い浮かべてみる。私にとっての"大事な人"はおそらく彼女だ。その彼女に何かあったとして、はたして私は他人のように振舞っていられるだろうか? おそらく無理だろう。平常心を保っていられる自信がない。
身の回りの人間が消える悲しみは、よく分かっているつもりだ。だからあの筆舌しがたい喪失感は、できることならもう二度と味わいたくはない。
当のポアロはこちらに背を向けたまま微動だにしない。不気味なほどに静かだ。
その顔にどんな表情が浮かんでいるかはうかがいしれない。彼女が何を思っているのかも分からない。ただ時だけが流れていく。
「大事な人……か」
不意にポアロがつぶやいた。その言葉に、先ほどの刺々しさはない。むしろ憑き物が落ちたかのように透きとおっている。彼女がこちらに顔を向ける。
「先ほどは失礼した……。私が間違っていた。先ほどの指摘は実に合理的で、正当性のあるモノだ」
「ポアロ……」
振り返ったポアロの顔には、優しい笑みが浮かんでいる。それは間違いなく私の知る中で最高の犯罪コンサルタント、ポアロのものだ。
「珍しいケースだよヘイスティングス。今まで誘拐された貴婦人は探したことはあるけど、失踪したコックを探すなんてこれが始めて。でもこれは国家的大事件に等しいものだ。気を引き締めないと……」
「えっ!? じゃあ……」
マリアベルが笑顔を浮かべる。それに対し、ゆっくりとうなずいて応えるポアロ。どうやら話は決まったようだ。
「……その依頼、お受けしましょう。さぁ、こちらに座って。詳しい話を聞かせてほしい……」
ポアロはマリアベルを席へ招き、本来の仕事に取り掛ろうとしていた。
灰色に染まった真実を見つけ出す、彼女にしかできない仕事を……。
こうして、実に珍妙で興味深い、新たな事件の幕が上がったのである。
いかがでしたでしょうか? 意見や感想などがあれば、遠慮なくお願いします。これからも何卒よろしくお願い申し上げます。