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「空の魔女」シリーズ

魔女のいる丘

作者: 人鳥

あらすじにもある通り『星空のレヴァリエ』のリメイクです。大学の課題として執筆、提出をしたものです。

 その夜、彼女は僕のもとにやってきた。数年、いや、何十年振りにか僕の前に現れた彼女は、あの頃とあまり変わっていないように見えた。彼女に付き従う黒猫も、あの時と変わらず鋭い視線を僕に向けている。

 僕は彼女とは違って、あの頃よりも歳を取った。けれど、僕にはそれが嬉しかった。彼女が若い姿を保ち、僕が彼女よりも二倍は歳をとっているように見えることを誇りに思った。そう思えるようになったのも、やはり彼女のおかげだった。

 彼女はあの頃と同じような微笑をたたえ、僕から少し離れた席に座っている。閉店してしばらく経つ店内には、僕と彼女以外には誰もいない。僕は手に持っていたグラスの水気を拭き取り、彼女に声をかけた。


 最後のトロッコの処理を終え、ようやく帰路についた。汗と土に汚れた体を濡らした布で拭きながら、これからのことを考えた。あの鉱山で働くのはもう何年になるか……あまり考えたくはないし、この仕事にやりがいを感じているわけでもない。僕にはこれとは違う夢があった。いつか鉱山から出て、その夢を掴みたいと思っている。今はその勉強をしている最中で、本当ならばこのまま直帰してしまうのが良いのだろう。そんなことは頭ではわかっているはずなのに、足は自然と町の外に踏み出していた。

 足は町の外れにある丘に向かっていた。その丘は辺りに明かりがなく、夜空に光る星がよく見えた。これまでもここにはよく来ていて、何か嫌なことがある度に星空を見上げた。そして何かがどうにかなるような――僕を取り巻くいろいろなものが変わってしまうような何かが起こらないものかと、そんな子供じみた妄想をしていた。

 当然、何かがどうにかなることは起きなかった。

 まるで導かれるように丘に上って、あまり背の高くない草に寝転んだ。夜空一面に輝く星の輝きは、まるで地上に降り注いでいるかのようだった。こんな空を見ていると、自分たちがいかに小さいところで生きているのかを思い知らされる。どんな喜びも、どんな悲しみも、どれもこれも取るに足らないものなのではないか――そんな思いがよぎるのだ。

 ぼうっと時間を潰して、さて帰ろうかとランタンを手に取ろうとした時、丘の下に動く光があることに気づいた。誰かがいるのだろうか、そうでなければ物の怪と出くわしてしまったのか――震える心を落ち着かせながら、ランタンを持って少しでも相手が見えるようにかざした。

 丘の下の光はゆっくりとではあるけれど、確実にこちらに近づいてきていた。時折、その大きな光の周りで、一瞬だけ光るふたつのものがある。その光が近づいてくると、それがランタンの明かりで、それを持っているのはどうやら人間だと確認することができた。

「誰だ?」

 まだ顔までは見えないが、長い棒のようなものを持っていることがわかり、少し離れたところから声をかけた。人影はそこで足を止めた。

「はじめまして、こんばんは。わたしは空に生きる魔女」

 声は若い女の声だった。姿が見えないから断定はできないが、もしかしたら少女の声と言って差し支えないくらいかもしれない。

 魔女。

 それは人間であって人間ではない存在だ。物の怪という程ではないにせよ、確実に〝人外〟であることに変わりがない。本来なら今すぐ逃げ出して、教会に駆け込まなくてはいけないのだろうが、しかし、不思議とそんな気持ちは起こらなかった。恐怖の代わりに、なんとも言えない安心感があった。

「魔女? 本当か?」

 声の主がこちらに近づいてくる。ランタンの明かりでその姿ははっきりと見え、そしてその姿はやはり少女のものだった。黒を基調としたシンプルなドレスを着て、背の丈ほどの箒を持ち、足元には鋭い眼光を放つ黒猫が控えている。少なくとも僕の町では見ることのできない格好だ。

 魔女を名乗る彼女と目が合い、少女はくすりと笑って、歌うように高らかに言った。

「デ・アーヌ・ラ・ヴィーレ! わたしが魔法の箒に跨り空を飛べば、あなたは信じてくれるのかしら? それともここに満開の花を咲かせば良いのかしら。わたしが本当に魔女かだなんて、些細なことでしょう」

 少女はステップを踏みながら、なおも僕に近づいてくる。手を伸ばせば届くほどの距離まで接近して、少女は「そうでしょう?」と繰り返した。彼女の言葉には歌うような響きがあった。

「そうかも……知れないね」

 それ以外に何が言えただろうか。

「驚いたな。ずいぶんと若いみたいだ」

「あら、レディに対して失礼ね。少なくとも、わたしはあなたよりも年上よ」

 どう見ても僕より若く見える少女は、至極真面目にそう言った。

「それは失礼」

 本人がそう言うなら、きっとそうなのだろう。さっきも空に生きる魔女と名乗ったのだから。人外に対してこれくらいで驚いていては、これから付き合っていられない。

 少なくとも。

 僕にはこの魔女との関係が、今ここだけで終わるような些細な関係だとは思えなかった。

「きみが空の魔女だというなら、この世界をどう見る?」

 人外から見て人の世は一体どう映っているのか――そんなことがふと気になった。僕の前に立つこの少女なら――空に生きる魔女なら答えてくれる気がした。

「わたしの世界は空よ。地上のことは知らないわ」

 けれど、返ってきたのは冷めた回答だった。そしてそれは当然のことでもあった。そもそも人外が人の前に姿を現すこと自体が稀なことなのだ。それなのにどうして、人の世界のことを聞くことができるだろう。

 魔女はくすりと笑い、

「わたしの世界は広いわ。そしてとても美しいの。信じられないくらいにね」

 両手を広げ、やや芝居がかった口調で言った。その動きに合わせて、足元にいた黒猫がさっとその場から動いた。そしてちょうどその場所に、魔女の足が置かれる。

「あなたには信じられるかしら」魔女の目は僕にではなく、空へと向けられた。つられて見上げた空には、大きな満月が雲の合間から顔をのぞかせている。「空ではね、星が降るのよ。無数の星屑がわたしを包むように降りそそぐの」

 信じられないでしょう?

 少女は歌う。この少女の言葉は常に歌の響きがあって、その声を聞くと心が洗われるような気分になった。彼女の声は静かで、少女のものとしてはやや低い。とにかく穏やかな、透き通る声なのだった。

「それは綺麗だね。僕もその世界を歩いてみたいものだよ」

 これは本音だった。鉱山の中は暗く湿気がひどい。快適とは正反対に位置する場所で、そもそもその必要性さえ考慮されない場所だ。僕は一日のほとんどをそんな場所で過ごしてきた。だから、彼女が生きている世界が――その美しい空の世界が、心の底から羨ましい。そしてそれと同時に、そんな世界に思いを馳せることが楽しくて仕方がない。

 僕の目に映っているだけが世界ではないのだと、僕の前にいる魔女が証明してくれているからだ。

「簡単に信じるのね。一笑に付すと思ってたわ」

 魔女は意外そうに首を傾げる。

「それをするなら出会い頭にやってるよ。それに僕は、それを積極的に信じたいね」

「あら。どうして?」

魔女は首を傾げ、不思議そうに僕の顔をのぞき込んだ。不意に近づけられた顔が恥ずかしくなって、少女の顔から目をそらした。逃げた視線の先では、剣呑な眼光を放つ黒猫が退屈そうにあくびをしているところだった。

「僕には夢があるからさ」

 意味もなく早口になる。

「素敵ね。どんな夢なのかしら」

「自分の店を持ちたいんだ。今は鉱夫だけど、いつかは自分の店を持って商売をしたい」

 不思議と、彼女に対しては饒舌になった。普段はこんなに話したりはしないのに――ましてや夢のことなんか絶対に話さないのに、いつの間にか自分から話していた。

「それとわたしの話を信じることに、どんな関係があるの?」

「現実ばかりを見てられないって話さ。きみの話を完全に信じるには、もう少し時間が必要だね」

「それでも信じたい、と。なるほど、わかったわ」

 少女はうなずいて、彼女はそのまま僕の手を取った。あまりにそれが自然な動きだったから、僕の汗や油で汚れた手に少女の手の温かさが伝わるまで、自分の手が取られたことにさえ気づけなかった。

「なんだい?」

 やっとの思いでそれだけを言う。彼女は気のせいかと思うほどに小さく笑い、「成功を祈っているわ」と僕の手をなぞった。

「でも、そんな頑張らなくちゃならないあなたが、どうしてこんな時間にこんな場所で油を売っているのかしら?」

 はて、油を売るとはどこの言葉かと思ったが、その意味するところはわかった。要するに、どうしてこんなところで怠けているのかと聞きたいのだろう。

「疲れたんだよ。だから休憩に来たのさ。夜が明ければまた日常が始まる。それを乗り切る英気を養いにね」

「毎日来ているの?」

「まさか。いつもはもう寝ているか、店を持つための勉強をしているよ」

 どうしてそんな質問をするのか、僕にはわからなかった。僕が毎日ここに来ようがそうでなかろうが、この少女には何ら関わりのないことではないのだろうか。

「そう」

 それなのに、どうしてこの娘はこんなにも寂しそうな顔をするのだろうか。

 彼女と別れて家に帰っても、最後に見たその顔が頭から離れなかった。


 空に生きる魔女と出会ってから、今日でちょうど三日になる。昨日の夜にたまたま会って、少しだけ、挨拶程度に言葉を交わした。もう少し話そうと誘ってくれたのだが、あまりに疲れていて辞退させてもらった。彼女は残念そうにため息を吐いた。

 そんな翌日。今日は久々の休日だ。久々に訪れた自分の時間は、しかし、僕にとっては持て余すしかないものだった。勉強をすれば良いのだろうが、今はそんな気分にはなれなかった。

 町を歩いていれば彼女に会えるかもしれない。

 そんな期待が僕の中にあって、その期待が胸を打って、勉強ができる精神状態ではなくなっていた。それに考えてみれば、「会えるかもしれない」と思う事自体が馬鹿げている。彼女がまだここに留まっているとは限らないし、彼女が人外の民であることを考えれば、むしろもう町を出ていると考えたほうが自然といえば自然なのだ。

 何気なく、空を見上げる。そこに彼女――空に生きる魔女がいるかもしれない、そんなことを思いながら。けれど、僕の目に映る空は彼女のいない空で、ただ当たり前のように青く澄んでいる。思えば彼女が空を飛んでいる姿を見たことがない。彼女は人外で、魔女で、空に生きるという。ならばきっと空を飛ぶのだろうけれど、彼女が空を飛ぶ姿も、降り立つ姿も、もちろん飛び立つ姿も見たことがない。

 彼女は本当に魔女なのだろうか。

 そんな疑問が頭をよぎる。もしかしたら彼女は空想家で、僕は彼女に踊らされているだけなのかもしれない。後向きな思考はとめどなく溢れ、それから目をそらすために町の喧騒の中に紛れた。

 大通りは人で溢れていた。買い物をしている婦人や、あちこちを駆けまわる子供。露店の前で品物を物色しながら、店主と言葉をかわす行商風の若者。耳をすませば昼から酒場で呑んでいる男たちの声が聞こえて、何かが壊れるような音も紛れている。威勢の良い客引きの声は、すぐに喧騒の中へ埋もれて聞こえなくなった。

「さて」

 目的がない。勉強をする気分ではないからと家を出てきたが、ここへ来たからといって、それに何らかの目的があったわけではない。それこそ逃げるように飛び出してきただけだ。せっかくの休日なのだから有意義に過ごしたいものだが、あるいは酒場で男たちと一緒に笑い合うのも悪くはないかもしれない。

ポケットに手を突っ込み、中にあった硬貨を数える。

「たまには、悪くないさ」

 歩いてきた道を戻り、顔見知りのいる酒場へ向かう。前に行ったのはいつだったか。少なくとも半年は顔を見せていないはずだ。最初は気が引けたが、そう思えば心も踊るというものだ。

 やや上向きな心持ちで通りを歩いていると、道の先――ちょうど僕が向かおうとしている酒場の近くの場所で、人が不自然に道の端へ寄り始めた。何かあったのだろうか。それとも何か「良くないもの」が来たのかもしれない。

 正直なところ、あそこには近づきたくないというのが今の心境なのだが、しかし、あそこに近づかなければ酒場に行けない。さらに家にも帰れない。帰れないは言い過ぎにしても、そこそこの遠回りを余儀なくされてしまう。気は進まないが、突入するしか道はなさそうだった。

 僕とその奇妙な人だかりとの距離が半分ほどまで縮まった時、とうとう人の壁はふたつに分かたれ、その中心をこちらに向かって歩いてくる人物の姿が見えた。その人は壁の人よりも身長は低いが、その誰よりも存在感があり、異彩を放っていた。

 彼女は背の丈ほどの箒を携え、腰にはランタンを吊るしている。周りの人を意に介した様子もなく、堂々と胸を張って、大衆の真ん中を歩いている。足元を歩く黒猫はそんな主を守護するように、主を遠巻きに見ている住人たちに剣呑な視線を飛ばしている。

 間違いようもない。

 空に生きる魔女だった。

 彼女に出会えたことが嬉しくて、思わず表情が緩んでいく。彼女も僕に気づいたようで、軽く箒を揺らした。それはあまり大きな動作ではなかったが、「相手」がいることにそこにいる人たちは敏感に気づいたようだ。一斉に僕に視線が集まり、辺りがざわめき始める。

 僕はその理由がすぐにわかったが、彼女はどうもわかっていないようだった。突然ざわめきだした群衆に戸惑い、さっきまでの堂々とした威厳は陰を潜め、外見通りの少女になった。

 どうしてこんなことになっているのか、その理由を僕は理解していたし、理解してるならばここから離れるべきなのはわかっていたが、どうしても彼女をここに置いていくことはできなかった。早足に彼女に近づき、その手を引いて、僕は大通りから路地に逃げた。予定とは違ってしまったが、こればっかりは仕方がないだろう。

「やあ」

 ある程度路地の奥まで入ってきたところで足を止め、きょとんとしている彼女に向き直る。我に返った空に生きる魔女は「魔女憑きとは何かしら?」と、不機嫌そうにため息を吐いた。

 魔女憑き。

 それは人間が人外を――特に魔女を忌避していることを如実に表している言葉だ。魔女は人間の男を惑わし、人の道を外させる。そんな教えがある。魔女に魅入られた人間のことを魔女憑きと呼び、魔女憑きは人外も同然に扱われる。

 きっと今、僕は魔女憑き――もしくはそれに限りなく近い存在として疑われているに違いない。さっきの出来事は、そういう疑惑を与えるのに十分すぎた。否。動かざる証拠として扱っても何ら問題のない出来事でさえあった。

「馬鹿馬鹿しいわね」

 けれど、少女は人の風習をばっさりと斬り捨てた。その目には侮蔑の色がにじんでいる。

「馬鹿馬鹿しいわ」

 魔女はもう一度繰り返した。

 馬鹿馬鹿しい。

 彼女の言葉は、妙に僕の耳に残った。昔から「人外には関わってはいけない」と教えられてきて、今までそれを信じてきた。だが、今、僕はその教えに反している。それは僕が心のどこかで、彼女と同じように馬鹿馬鹿しいと思っているからなのかもしれない。

「そうかもしれないね。いや、きっとそうなんだろうさ」

 人間というのは、そういうものだ。自分たちと違う者を恐れ、少数派を排斥する。そうすることで自分たちを守っている。そうして少数派の――人外の民は人の世界から追い出され、姿を見ることさえ稀になってしまった。

 彼らは孤独になってしまった。

 だからといって、それが自分たちの責任だとは思わないけれど。馬鹿馬鹿しい、そう思う程度のことだけど。そしてきっと、人外たちも――空に生きる魔女だって、そんなことを嘆いてはいないのだろうと思う。どうしようもない人間の小ささに呆れているのだと思う。

「あら……ということは、あなた、少しばかり立場が危うくなっているのかしら?」

「うーん……まあ、もしかしたらそうかもしれない」

 今更といえば、今更の話なのだが。

「そう。だったら今からでもあちらに戻ったほうが良いんじゃないかしら。もしかしたらまだ、言い訳の余地は残っているかもしれないわよ」

 少女は大通りの喧騒を指さした。

「いや、僕はちょうどきみに会いたいと思ってたところなんだ」

「まあ……それはそれは。ではどこか料理の美味しいお店にでも連れて行ってもらおうかしら」

 少女は小さく笑い、僕の顔をのぞき込んだ。

「僕の手が届く範囲でね」

「安くて美味しいお店なんて、それは素晴らしいことだわ」

「違いない」

 と、ふくらはぎに柔らかくて温かいものが触れた。足元を見ると、あの剣呑な目をした黒猫が、どこか甘えるような目で僕を見上げている。

「あらあなた、食事の話になると甘えるなんて。現金な子ね」

 持っていた箒を脇で軽くはさみ、少女は黒猫を抱き上げた。主人に抱き上げられながらも、黒猫はなお僕を見つめる。「ミルクでいいかい?」と聞いてみると、彼はごろごろと満足そうに鳴いた。

 空に生きる魔女と黒猫を連れて僕が向かったのは、当初の予定通り、顔見知りのいる酒場だった。そこは魔女との約束である、安くて美味しい店であるという条件も十分に満たしている。

 店の中は男たちの喧騒で満たされていた。あちこちで笑い声と怒声が飛び交い、麦酒とぶどう酒の匂いに親父の料理の匂いが混ざって、店内にいる人間の食欲をそそる。誰もが料理と話に夢中で、空に生きる魔女に気づいている様子はない。もしくは、気づいていても気づいていないことにしているのか。

 適当な席に座り、親父を呼ぶ。

「おう、久しぶりだな」親父はこっちに歩いてきて快活に笑った。「たまには顔みせねぇと、忘れちまうぜ……ん?」

 快活というより豪快に笑っていた親父の声がぴたりと止み、僕の前に座っている空に生きる魔女をまじまじと見つめる。

「人外たぁ珍しい客だな」

 あごひげをいじりながら、親父は空に生きる魔女を品定めするような目で見ている。

「あ、この子は――」

「お邪魔だったかしら?」

 少女は特に気にした風もなく、平然としている。こういう対応は慣れてしまっているのかもしれない。

 人外。

 ただそれだけのことだけれど、それだけのことが問題なのだ。そうでないなら魔女憑きなんていう言葉は、存在しない。

「邪魔? どうしてだ」

 親父はしかし、少女の問いかけに意外そうな顔をして、ひげをいじっていた手を止めた。

「人というのは人外というだけで、それが何者であっても疎むものよ。それに加えてここは酒場、楽しみに来た場所で人外など見たくないのではなくて?」

 空に生きる魔女はきっと、今までそういう扱いを受けてきたのだろう。当然のことだが、僕と出会う前から彼女は空に生きていて、時折、今回のように地上に降りてきては町の中を散策していたのだろう。その時に彼女がどういう扱いを人から受けてきたのか――今の短い会話の中で、僕はそれを垣間見たような気がした。

「嬢ちゃん、馬鹿にしちゃあいけない。何者であっても疎むなら、その馬鹿はどうなんだ? 嬢ちゃん連れてこの店来てるじゃねえか」

 彼女は今気づいたように、「ああ」とうなずいた。

「あなたの言うとおりね。少なくとも――」少女は僕を見た。「――この人はわたしの知っている人間とは少し違うみたいだわ」

 空に生きる魔女に認められたような気がして、なんとなく嬉しかった。親父は満足そうに笑い、僕は「いつもの」を注文した。

「きみもぶどう酒を飲むかい?」

「ええ、いただくわ」

 親父はうなずき、テーブルから離れた。空に生きる魔女は親父の背中を見送り、カウンターの奥に消えたのを確認してから、呆れをにじませた小さなため息を吐いた。

「レディを誘うにはいささか不向きな場所なのではないかしら?」

 そうは言うが、彼女は別段、この場所を嫌がっているわけではなさそうだ。むしろこの場の喧騒を楽しんでいるようでさえある。

「そうかもしれないね」

 もちろんそんなことは言わず、素直にうなずいた。

「でも、あの親父の料理は絶品なんだ。だからきみを誘うのなら、あるいは正解だと言えるかもしれないよ」

「ふふ。それは楽しみだわ」

 少女は笑い、僕も笑った。

 姐さんがぶどう酒をテーブルに運んできて、僕たちはそのぶどう酒でグラスを合わせた。僕の安い給料では良い酒は買えないが、酒を楽しむのには十分だ。

 グラスを傾ける少女は、少女とは思えないほどに絵になった。この酒場の中で最も異彩を放ちながら、もっとも場の雰囲気に溶け込んでいる。彼女がグラスを傾け、ピンク色の唇にぶどう酒が流れていく様は、完成された一枚の絵画にさえ見えた。

「あまりそうやって見すぎてしまうのはマナーが良くないわ」

「……あ、ああ、すまない」

 少女に見とれてしまっていて、こんな簡単な返事でさえ、反応がやや遅れてしまった。少女は苦笑して、一口、ぶどう酒を口に含んだ。

「きみは……どうしてこの町に?」

 何度か少女と話す機会はあったが、この町に来た理由についてはまだ話したことがなかった。観光というのが一番それらしい理由ではあるが、ここは鉱山町で観光をするような場所はない。では行商なのかと考えても、人外の彼女がそんなことをするとは思えなかった。そもそも、彼女は箒とランタン以外に荷物を持っているようには見えない。

「別に……目的なんてないわ。この子とただ世界を回っているだけよ」

 姐さんが気を利かせて持ってきてくれたミルク飲む黒猫を見つめながら、少女はぽつりと言う。黒猫は口の周りに白い毛を生やしていて、目つきは危ういのだが、それのせいでいくらか雰囲気が和らいでいる。

「人外は……みんなそうなのかい?」

「そう、というのは?」

「みんな何かに縛られず、自由に生きているのかい?」

 少なくとも、目の前に座る少女は、僕にとってはそう見えた。空飛ぶ箒で世界を周り、世界を見下ろし、何ものにも囚われない。人間から受ける迫害も、彼女のように「馬鹿馬鹿しい」と言えるなら、本当にそういう生き方ができるように思えた。

「縛られているのは……」彼女はおもむろにグラスを傾けた。「……人間たちだけよ。人外の民も、動物も、植物も、誰も、何者にも縛られてなんかいないわ。たったひとつだけ、暗黙の了解となっているものがあるにはあるけれど」

「暗黙の了解?」

 この暗黙の了解がわからない時点で、僕は――ひいては人間は、いつまでも彼女たち人外の民とは相容れないのだろう。この価値観が自然とわかるようになれば、あるいは僕たちの間にある巨大な壁は崩れるのかもしれない。

「ええ。簡単なことよ。あなたにだってできる」

「僕にも?」

「ええ」

 空に生きる魔女はうなずいた。

「自分に対して誠実であること」

 自分に対して誠実であること。人外の民が共通して持っているルールとは、とてもシンプルだった。これ以上なくわかりやすい、明確なルールだ。しかしだからこそ、そのルールを破った時、彼らは自分を責めることになるのだろう。自分に対してさえ誠実であれない自分を、他でもない自分自身が責め立てるのだろう。

 そして人間はきっと、そのルールさえろくに守れないのだろう。

「簡単でしょう?」

 空に生きる魔女は微笑んだ。


 僕と彼女との関係は、鉱山ではほとんど問題視されなかった。というよりも、あの時魔女の手を引いていたのが僕だとは露見しなかったらしい。だから僕の仕事はいつもどおりに行われ、いつもどおり順調に進んだ。

 午前の作業を終え、昼食を取る。次の作業の準備をしなければならいため、それは食べるよりは詰め込むに近い食事になった。こんなことをしていては、また彼女にお叱りを受けてしまいそうだ。最後にスープを飲んで、黒く汚れた袖で口を拭いた。

 申し訳程度の休憩時間は終わりを告げ、僕はまた作業場に向かう。他の作業員たちはまだ談笑しているが、この中で最も若い僕は、彼らに先んじて働き始めなければならなかった。そろそろ後輩ができてもおかしくないのだが、未だに後輩には恵まれていない。鉱山町だとはいえ、鉱山での仕事を望む若者は少ない――結局はそういうことだった。

 僕の夢が叶うのはいつになるのだろうか――暗澹たる心持ちで殺風景な道を歩いていると、視界の端で小さな黒い影が動いたように見えた。この辺りで動物を見ることはあまりないのだが……珍しいこともあるものだ。それともこれまで、僕が気づいていなかっただけなのだろうか。

 作業場に近づくにつれ、機械の駆動音が大きくなった。作業効率は大きく向上したのだが、あまりに大きな駆動音のせいで精神的な負担は全く軽減されなかった。むしろ力仕事をしていた頃のほうが、疲労は少なかったようにも思う。便利なのかそうでないのか、なんとも言い難い。

 さて働くか、気合を入れてドアを開けようとすると、ドアが勝手に開いた。そして作業場から出てきた誰かとぶつかった。

「失礼。大丈夫かしら」

「こちらこそ……って、どうしてきみがここに?」

 入り口に立っていたのは、この場にはふさわしくない、黒を基調としたドレスを着た少女だった。左手に箒を持ち、腰にランタンを吊るしている。僕とぶつかって少し乱れた髪を、少女は手早く整えた。

「どうしても何も、あなたを探していたのよ」

「僕を?」

「ええ。お話をしたいと思ってね」

 少女は指先で髪を弄びながら言った。彼女には珍しい所作で、細かいことなのだが意外だと思った。

「光栄だけど、僕は仕事中なんだ。夜にしてくれないかな」

 僕の今の気分としては、彼女の誘いに乗ってしまいたいのだが、人間というものはどうにもままならないことが多い。下手なことをして職を失いでもしたら、それこそ夢がどうのという話ではなくなってしまう。

「あらそう。そうね。あなたたちにとって仕事はとても重要だものね」

 その何気ない言葉は、彼女――空に生きる魔女が僕とは違う世界の住人なのだと、改めて僕に突きつけてくるようだった。僕もさっき似たようなことを考えたが、いざ言葉にされると、その意味の重さを思い知らされる

「わかってくれて、嬉しいよ」

「ふふ。あの丘で待っているわ」

 少女は僕の脇を抜け、軽やかな足取りで――踊るように去っていった。上機嫌な彼女の背中が見えなくなってから、作業場に入った。中には僕よりも早く作業を始めていた人たちがいて、作業はいくらか楽になった。

「お前、憑かれるなよ」

 作業の都合で隣に並んだ男が、周りには聞こえない程度の小さな声で言った。とはいえこの騒音の中、中途半端な声では周りには聞こえないだろうが。どちらにせよ、あまり周りに聞いてほしくない話題なのは確かだ。

 憑かれるなよ。

 魔女憑き――か。

「ああ、もちろんさ」

 普段ならこう受け答えすることに、なんら抵抗はなかっただろう。しかし決して長い時間ではないが、彼女と言葉を交わしてきた今、すんなりとそう言うことはできなかった。

「奴らは心の隙を突く。極力付き合わんことだ」

 どうしてこんなことを言われなければならないのだろう。人外の民だというだけで、空に生きる魔女だと言うだけで、どうして彼女はそんなことを言われなければならないのだろう。

 理不尽だ。

 しかしこの理不尽さは、僕たち人間が作り上げたものだった。

「わかってるよ。今夜が最後さ」

「賢明だ」

 男はほっとしたように、息を吐いた。

 今のは、こう答える他になかった。もし僕が思ったことをそのまま口にしたなら、僕はこの鉱山に――あるいはこの町にいられなくなっていただろう。だから気に病む必要なんかない。

 けれど、ふと彼女の言葉が頭をよぎった。

 自分に対して誠実であること。

 今の僕は誠実だったのだろうか。それとも自分に対して不誠実だったのか。

 人外の民ではない僕に、その答えはわからなかった。

 答えが見つからず、このまま彼女に会っても良いものか迷いがあった。だがここで約束を破ってしまっては、それこそ誠実であることとは正反対のことだと考えなおし、その夜、約束の丘へ向かった。

 彼女は丘の上に座っていて、少し欠けた月を見上げていた。その横に黒猫が控え、主と同じ場所を見ている。夜空を見上げる彼女は、やはり絵になった。酒場での彼女も絵になったけれど、今の彼女はあの時以上に完成されていた。彼女は僕と同じ場所にいるはずなのに、僕が立っているこことは別の世界のように思えた。

 声をかけることもためらうほどに。

「あら、いたの? 声をかけてくれればいいのに」

 少女は僕に気づいて、苦笑交じりにそう言った。僕の前にあった別世界は消失し、今は同じ世界になった。ほっとした反面、もっと別世界にいる彼女を見ていたいという思いがあって、少し残念だった。

 黒猫は僕を一瞥すると「にゃあ」と鳴いて、どこかへ歩いて行った。

「昼はすまないね。何か用があったのかい?」

「用がなくちゃいけないのかしら?」

「そういうわけじゃないけど――」むしろ用もなく会いに来てくれるほどに打ち解けたのだと、それは喜ばしいことなのだが。「――きみはきみの立場を自覚するべきだ」

 自分が人外の民であること。

 自分が魔女であること。

 それによって町の人間から疎まれてしまうこと。

「それはわたしが魔女だということを言っているのかしら?」

 空に生きる魔女はどこか不機嫌そうで、寂しそうだった。

「それとも……魔女憑きと呼ばれることを恐れているのかしら?」

「きみを心配して言っているんだ」

「心配されるような間柄ではないわ」

「用もなく呼び出してよく言うよ。それに魔女憑きと呼ばれるのが怖いなら、そもそもあの時に逃げ出しているし、ここにも来なかった」

 魔女憑きと呼ばれることに不都合はあるが、それ自体が怖いというわけではない――そう思う。否、日中のことを思えば、やはり僕はそれを恐れているのかもしれなかった。けれども今、彼女に対して言ったのは、本当に彼女の身を案じてのことだった。

「あらそう。優しいのね」

「初めて会った魔女がきみで良かったよ。そうでなけりゃ、もしかしたらきみの言うとおりになっていたかもしれない」

「ふふ、空に生きる魔女は優しいのよ。というよりも……人が勝手なのよ」

「そうだね。そうだと思うよ」

 今まで付き合ってはならない、関わってはならないと教えられてきた人外の民と出会い、こうして話してみれば、人のそれとたいして違わないことを知った。僕たちと人外の民の違いなんて、本当に些細なことのように思える。

「きみはもうこの町から出ていくのかい?」

 この丘に来た時から、僕にはそんな確信めいた予感があった。用もなく呼び出したのではなく、その別れをしようと呼び出したのだという思いが、閃きのように湧いてきたのだった。こんなことを聞くのは、もしかしたら野暮なのかもしれない。けれど、聞いておきたかった。

「そうね。美味しい物も食べられたし、この町に留まる理由もないわ」

「美味しいもの?」

「ええ。私たちは美味しい物を食べるために地上に降りてくるの」

 それは明らかな嘘だった。いや、嘘は言っていないが、本当のことを言っていなかった。彼女は何かを隠していて、その隠していることこそが、真に地上に降りた理由なのだ。しかし僕はそれを聞く術を持たない。

 かける言葉を見失い、彼女は空を見上げるだけで何も言おうとはしない。耳に入ってくるのは風の音と虫の声だけになった。この夜闇に月明かりは少し頼りなく、揺れるランタンの明かりは僕そのものに見えた。

「空は心地良いかい?」

 このまま黙っていると、彼女がどこかへ行ってしまう気がした。だから無理矢理にでも話題を作って、彼女を地上に縛る。

「ええ。でも、少しだけ寂しいわ」

「寂しい?」

 その意味が、僕にはよくわからなかった。空は自由で束縛がなく、寂しさも悲しさもない、世界だと思っていた。だからこそ人は空に焦がれ、夢を馳せているのだから。

「そうよ」

 空に生きる魔女は、しかし、寂しいのだとうなずく。

「贅沢な悩みだと思うかしら? でもそれは第三者から見た意見よ。当事者からしてみれば、どんな悩みも悲しみも切実なの」

 いったい何が彼女を寂しくさせているのだろう。僕にとって空は自由な世界で、苦しみのない場所だ。彼女が抱える寂しさ、悩みというものは、あるいはその自由さ故に抱えるものなのかもしれない。もしそうなら、僕がそれについて考えることはあまり意味がない。決して――決して、その答えにたどり着くことはないのだから。

「あのさ」

「何かしら?」

 いったい何を言おうとしたのか。身の程知らずな、手前勝手な理屈をこねようとしていたことは確かだ。

 口に出す寸前で、僕はそれを胸の奥にしまいこんだ。

「いや、やっぱりいいよ」

 魔女は怪訝そうに僕を見たが、すぐにふっと笑った。

「あらそう」

「あのさ」

「何かしら?」

「きみといっしょに行きたい」

 空に生きる魔女は驚きに目を開いた。

「あなた、夢はどうするつもりなのかしら?」

「それにはまだ時間があるさ。夢に達成には期日なんてない」

 そうは言うものの、彼女と共にいられるなら、それはどうでもいいとさえ思っている。彼女と共に生きられるなら、それも悪くはない。

「そうね。あなたの言うとおりだわ」

 魔女は嘆息して、しかし、僕の言葉にうなずいてくれた。

「じゃあ――」

 共に行くことを許してくれるのか。

 しかし、少女が続けたのは否定の言葉だった。

「でも駄目よ。そうしたらあなたはあなたじゃなくなるわ」

 生きる世界が違うのよ。

 魔女は言う。

「でも、わたしが地上で生きるなら、あるいはできるかもしれないわよ?」

 だが、その提案はすでに、認められないものになっている。

「それをしたら、きみはきみじゃなくなるんじゃないか?」

 僕が魔女の世界で生きられないのなら、彼女だって僕の世界では生きられない。

「そうね、そのとおりよ」

 つまりそれは結局、そういうことだ。本来なら僕たちは出会うことはなく、すれ違い、それで終わるはずだった。それが何かの間違いで出会い、何かの間違いで言葉をかわし、何かの間違いで――こうなった。

 それでも結局、世界が違う。どれだけ間違えても、生きる世界が違うという事実はねじ曲げられない。

「それなら駄目だよ。きみがきみじゃなくなるなら、それじゃ意味が無い。僕はきみがきみだから、こんなことを言っているんだ」

 何かに縛られず、自由で気高い少女。そんな彼女だから、僕は世界の壁を超えたいと思ったのだ。たとえそれが――叶うはずのないことだと知っていても。

 知って、いたのだ。

「そうね。だからつまり、これはそういうことなのよ。わかっていたはずでしょう?」

 目が熱くなり、それが零れないように、必死にそれを押しとどめた。魔女はいつの間にか立ち上がっていて、どこかに行っていた黒猫もいつの間にか帰ってきていた。黒猫は魔女の足元に寄り添って、剣呑な目で僕を見上げる。

「あなたは自分の夢に生きなさい。そこにわたしは存在し得ないはずよ。わたしはわたしの夢に生きるわ。そこにあなたは存在し得ない」

 それは決別の言葉だった。

 空に生きる民は――人外の民は、人間とは相容れない。地上の民と共に生きることはかなわない。そう突き放された気がした。

 気がした、ではなく、事実そうなのだろう。

「それでも僕は、きみを愛すだろう。いつまでもだ」

 偽ざる僕の気持ちで、それはきっと、言わないほうが良い言葉だった。

「明日のことは誰にもわからないわ。明日にはあなたは他の人と共に歩いているでしょう。それが自然で、そうあるべきよ」

 それは彼女自身に言い聞かせているようでもあった。

「あなたは――あなたの夢に生きなさい」

 少女は――空に生きる魔女は、ついに僕に背を向けて、ゆっくりと歩き出した。その背中にかける言葉はもう僕の中にはなくて、離れていく背中を見送る他になかった。

 本当に?

 そう思った次の瞬間には、僕の体は立ち上がっていて、彼女の背を追いかけていた。

「まだ、何かあるの?」

 少女は振り向かない。

「きみは結局――何のためにこの町に来たんだい?」

 自分の口から出た言葉は予想外のもので、すぐに口を塞いだ。こんなことを聞くために、僕は彼女を追いかけてきたわけではない。だがすでにしゃべってしまった言葉は取り返しがつかない。明らかな失敗だった。

「それを聞くの? 野暮だとは思わない?」

 魔女は少しだけ、ほんの少しだけ可笑しそうに笑った。

「そうだね。それじゃあ……その……」

 魔女は振り返らない。

「またこの町に来てくれないか」

 魔女は振り返らない。

「そうね。また来るわ」

 魔女は、軽やかにこちらに振り向いた。少女が浮かべる笑みは儚げで、このまま消えてしまいそうだ。

「その時には、そうね。あなたのお店に寄らせてもらうわ」

「ああ。その時には美味しいものを用意しておくよ」

「期待しているわ。あなたは自分を信じなさい。全てはそれからよ」

 魔女は抱えていた箒に跨って、今まで見た何よりも美しく微笑んだ。その頬に何か光るものが見えたような気がしたが、僕は何も言えなかった。少女もそれを拭わなかった。揺らぐランタンの明かりは、何度かそれを輝かせた。

 魔女が何かを呟く。

 声は聞こえたが、何と言っているのかはわからなかった。それはきっと魔法の言葉で、僕とは違う世界の言葉なのだ。

 魔女の体がふわりと浮いた。腰で揺れていたランタンを箒の先端にかけて、黒猫は魔女の手の前に行儀よく座る。

「短い間だったけれど、楽しかったわ」

 空飛ぶ箒に跨って、空に生きる魔女は夜闇に消えた。遠くに光るランタンの明かりも、程なくして見えなくなった。

 夜闇に散らばる星屑の明かりでさえ、今の僕にはまぶしく映った。


 最後まで店に残っていた酔っぱらいを帰らせ、ようやく店の片付けを始めることができた。閉店後の静寂は、客がいる時の喧騒とのギャップで必要以上に寂しく感じる。決して寂しくなどないのだが。

 空いた食器を洗い、明日の食材の仕込みも済ませる。作業が終わり、窓から夜空を見上げる。大きな満月が空から夜闇を照らしている。いつの頃からか、こうして夜の空を見上げることが習慣になっていた。もしかしたら、彼女の姿を見ることができるかもしれない――そんな夢のようなことを考えていた。そんなことは一度たりとも起きなかったが。

「はあ……」

 意味もなく漏れてしまうため息。それに追い打ちをかけるように見つかる、洗い残しのジョッキ。

「辛気臭いわね。ため息なんか吐いていたら、お客が逃げるわよ」

「なあに。ここに来る連中は酒目当てさ。僕の顔も飯の味にも、それほど関心なんか払っちゃいない」

 声が聞こえて何気なく答えたが、はて、店の中に客はまだ残っていただろうか。声がしたほうを見ると、カウンターの端の席にひとりの女性が座っていた。

「お久しぶり」

 その女性は黒を基調としたドレスを着ていて、カウンターに箒を立てかけている。隣の椅子には剣呑な目つきをした黒猫が座っていて、退屈そうに毛づくろいをしていた。

「もう店じまいをしたんだけどね」

「あら。つれないわね」

 女性は悪びれることなくそんなことを言う。

「まあ……ひとつくらいなら作ってあげてもいいさ」

 手元にあったメニューを滑らせて、彼女に渡す。女性はそれを見ようとはせず、それどころか、メニューを後ろへ投げ捨ててしまった。メニューが無様に舞って、床に落ちた。

「こんなものはいらないわ」

「ふうん?」

「そんなものよりも、とっておき美味しい物を頂戴な。それとミルクもお願いね」

 食いしん坊の魔女は意地悪な笑みを浮かべ、剣呑な黒猫は「にゃあ」と鳴いた。

「それじゃあ、僕のとっておきを」

 何十年もこらえ続けた熱いものが、ひとつ、静かにこぼれた。

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