最後の花束
花束を持ち、立ち尽くす。
あと数歩の距離なのに、どうしても前へ進むことが僕には出来なかった。
「行こう」
僕は呟き、踵を返す。
この後、何が起こるか薄々と知りながら。
*
三十年前。
僕は彼女の部屋の前に立っていた。
花束を持ちながら。
あと数歩の距離なのに、前へ進む足が実に遅く感じた。
「何をしている」
扉を開いた先に居た彼女は振り返らないままに僕へ尋ねてきた。
彼女の前に置かれた巨大なテーブルに広がる作戦図。
床に散らばる戦況報告書。
火薬と血の臭いがむせ返る。
「お前の生きている時間は多くの兵が捧げた命によってもたらされたものだ。一刻も無駄にするな。私と同じように――」
傍らに置かれた万が一に備えた護身用の銃。
彼女のそれが役目を果たせず、最後には自決用に用いられたと僕は知っていた。
だからこそ。
「閣下」
彼女の身体がびくりと震え、直後に片手で銃を持ちながらこちらへ振り返り――そして、困惑する。
「誰だ? この非常時に」
当然だ。
今は戦時中、そしてここは最終防衛地点――もっとも直に崩壊するが。
そんな場所に礼服と花束を持った初老の男を見れば彼女であっても混乱する。
「俺です」
分かるはずもない。
そう理解しているのに僕は馴染みの言葉をかけた。
銃口は心臓を捉えている。
そのまま銃弾が放たれてもおかしくないと僕は知っていた。
いや、彼女なら撃つだろうとさえ信じていた。
そして、それで構わないと本気で考えてさえいた。
――それなのに。
「何をしている。お前には寄り道をする時間などないはずだが」
彼女はすぐに僕の正体を見抜いた。
見抜いてくれた。
「分かるのですか」
嬉々として問う僕に彼女は答える。
「夢でも見ているのだろう。しかし、これを夢と思えば自ずと答えは分かる」
彼女は僅かに笑う。
そして、僕から視線を外す。
見つめる先は戦況図。
彼女らしいと思った。
彼女らしいと安堵した。
そして、彼女らしさに腹が立った。
「閣下。お聞きください。俺は――」
「黙れ」
ぴしゃりと彼女は僕に言う。
時間がない。
それなのに僕は何も言えなくなってしまった。
三十年の時間が繋がってしまったかのように。
「お前がどのような事情で老いたのか、どのような心境でここに来たのかも分かる。だが、だからこそお前になど構っていられない」
本能的に彼女に襲い掛かろうと思った。
仮に予期していようとも今の僕ならば彼女を拘束するのは十分に可能だ。
後はそのまま彼女を連れ去ってしまえばいい――この時代から。
そんな思いを反射的に止めた。
この状況を僕は十分に想定していたから。
そして、こうなってしまえば僕は全てを受け入れると心に決めていたのだ。
だからこそ。
「閣下」
僕は告げる。
「ご武運を」
震える声で。
もう決して叶わない光景を夢想しながら。
踵を返す。
その刹那。
「おい」
彼女の声が響き僕は振り返る。
彼女は相変わらず戦況図を見ていたが、それでも言葉を僕へと向けていた。
「その花は私のだろう。置いていけ」
「閣下。墓に備える花がなくなってしまいます」
「知るか。没収だ」
「ははは……」
上官命令。
僕は震えたまま花を彼女の傍らに置いた。
彼女は相変わらず僕を見ない。
それでも。
「ありがとう」
彼女は確かに僕へ言った。
「あなたのお陰で私は戦える」
二人きりの時しか口から出てこない穏やかな声。
この声だけで、僕はこの場所に来て良かったと心から思えた。
名前を呼ぶ。
彼女はもう僅かにも反応しない。
それでも告げる。
「愛しています。永遠に」
「私も」
踵を返す。
タイムマシンの方へ向かう足取りは重かった。
しかし、それでも止まることはなかった。
*
花束を持っていないのに立ち尽くす。
あと数歩の距離があまりにも遠い。
それでも前に僕は進めた。
先ほどと同じように。
三十年前と同じように。
「閣下」
冷たい墓に眠る英雄に告げる。
「花を買ってまいります。三十年前に置き忘れてしまいましたので」
踵を返す。
花のない墓は陽光に照らされるばかり。




