支店長が豚の大腸を表彰タスキにして私を晒し者にした結果、私は彼の直属上司になりました
導入
年末表彰会の日、関東共栄銀行・新宿第三支店の会議室は、いつになく華やかに飾りつけられていた。入口から壇上まで赤いカーペットが敷かれ、壁には「年間優秀社員表彰会」と書かれた横断幕が掛けられている。支店の全社員は正装で席に着き、支店長の桐谷翔吾が自ら賞を授与するのを待っていた。
最初のいくつかの賞が発表されると、会議室には絶えず拍手が響いた。
「橘莉奈、最優秀預金獲得賞!」
「杉本拓也、最優秀融資業務賞!」
受賞者の首に表彰タスキが掛けられるたびに、客席からは拍手と歓声が上がり、口笛まで聞こえた。橘莉奈は封筒と最新型のスマートフォンを抱え、目を細めて笑っている。杉本拓也は賞品を掲げ、まるで支店の英雄にでもなったようだった。
司会者が私の名前を読み上げた瞬間、場内の熱気はぴたりと止まった。
「佐倉真央……」
司会者の声は明らかにそこで詰まった。彼は桐谷翔吾の顔を見た。続きを本当に口にしていいのか、判断に迷っているようだった。
桐谷翔吾は苛立った様子で司会者からマイクを奪い取ると、壇上に立ち、冷たい笑みを浮かべた。
「佐倉真央。本年度のKPIはすべてゼロです」
「収益面、リスク面、個人営業、法人営業、どの評価項目から見ても、彼女は本支店における本年度最下位の社員です」
そう言い終えると、彼はゆっくりとビニール手袋をはめた。
食堂の田中さんが壇の脇に立ち、顔を青ざめさせながら、ビニール袋で何重にも包まれたものを差し出した。桐谷翔吾がそれを受け取り、袋を破った瞬間、鼻を突く生臭い悪臭が一気に広がった。
それは、処理されていない豚の大腸だった。
太く長く、表面には脂がぬらぬらと光り、汚れも十分には落とされていなかった。それが取り出された途端、壇に近い社員たちは慌てて鼻を押さえた。後ろの席からは、こらえきれない笑い声が漏れた。
桐谷翔吾はその豚の大腸を、本物の表彰タスキのように掲げた。
「さあ、佐倉真央」
「今年の実績がゼロなら、君に一番ふさわしい表彰タスキを贈ってあげよう。しっかり反省材料にするといい」
客席から、押し殺しきれない嘲笑が起こった。その豚の大腸が私の首に触れようとした瞬間、私は桐谷翔吾の手首をつかみ、その力を利用してひねり上げた。彼が痛みに口を開けた一瞬、私は一番太く、一番汚れの残った先端を、その口の中に押し込んだ。
「支店長、口がずいぶん臭いますね」
「これで歯でも磨いてください」
1.年末表彰会で、あの臭気を放つ豚の大腸が出てきた
昼休みのあと、食堂の冷蔵庫の前を通りかかった時、私はすでに彼らの企みを聞いていた。
冷蔵庫の扉はきちんと閉まっておらず、中から橘莉奈と杉本拓也の、声をひそめているのに興奮を隠しきれない会話が聞こえてきた。田中さんはどうやら困惑しているらしく、なぜ表彰会のために処理されていない豚の大腸を買うのか、恐る恐る二人に尋ねていた。
「橘マネージャー、桐谷支店長って、こういうものを好んで食べる方じゃありませんよね。買うのはまだしも、どうしてわざわざ未処理のものをって言われたんですか?」
「そうですよ。会議室に持っていって本当に大丈夫なんですか? この臭い、かなりきついですよ」
橘莉奈は小さく笑った。その声には、隠しきれない悪意と愉悦がにじんでいた。
「田中さん、これは食べるためのものじゃないんです」
「支店長が、成績の悪い社員に用意したサプライズなんですよ。年末表彰会ですからね。優秀な人だけを褒めるんじゃなく、足を引っ張った人も叱咤しないと」
杉本拓也がすぐに口を挟んだ。その声は軽薄だった。
「そうそう。優秀な人には表彰タスキがあるんだから、最下位の人間にも首に掛けるものくらいないと不公平でしょう。支店長の発想、最高ですよ」
田中さんは息をのんだように黙り込み、やがて声を落とした。
「首に掛けるって……? それはさすがに人を侮辱しすぎじゃありませんか。いったい誰がそんな目に遭うんですか」
杉本拓也は馬鹿にしたように舌打ちした。
「誰って、今年この支店で一人だけですよ。預金の新規獲得ゼロ、融資実行ゼロ、法人顧客開拓もゼロの人間なんて」
私は冷蔵庫の外に立ったまま、指先に力が入っていくのを感じた。それは、私のことを指しているに決まっていた。
すぐに橘莉奈の声が続いた。
「数年前まで、あの人ずいぶん目立っていたじゃないですか。何年も連続で成績一位、賞状もボーナスももらって、本部に呼ばれて講演までして。ようやく今年は白紙回答ですよ」
「桐谷支店長は、前から彼女のことを目障りに思っていましたからね。新任の支店長が威厳を示すなら、誰か一人を見せしめにしないと。ちょうど彼女がそこに転がり込んできたんです」
田中さんは長いこと黙っていた。やがて、ためらうように低く言った。
「それでも、こんなものを使うのはあまりにもひどいです。みんな働きに来ているのであって、踏みにじられに来ているわけじゃありません」
冷蔵庫の中が一瞬静まり返った。次の瞬間、橘莉奈と杉本拓也が同時に笑い出した。
「踏みにじる?」
「銀行だから、あの人はまだここにいられるんですよ。ほかの業界なら、末位淘汰でとっくに荷物をまとめているでしょう」
「半年も森川モビリティ株式会社を追いかけて、結局何も取れないんですからね。解雇されても文句は言えませんよ」
私は扉の外に立ったまま、耳の奥で血の音が鳴るのを感じていた。
最初は、橘莉奈と杉本拓也の悪ふざけなのではないかとさえ思った。桐谷翔吾と私は、ただの上司と部下ではない。彼は、私の元恋人だった。
2.元恋人は支店長になっていた
桐谷翔吾が新宿第三支店に配属されたのは、一年前のことだった。
彼は本部採用の総合職、いわゆる幹部候補として入行した。わずか半年で法人営業担当から副支店長に上がり、その後すぐ支店長に任命された。支店の誰もが、彼の昇進が実力によるものではなく、本部の上層部の後ろ盾によるものだと知っていた。
私と彼が別れてから、一年以上が経っていた。別れたあと、こんな形で再会するとは思ってもいなかった。まして、彼が私の上司として目の前に立つことになるなんて、想像もしなかった。
それでも私は、公私を混同する人間ではない。桐谷翔吾もそうだと、私は一度は思っていた。彼が赴任してきた初日、彼は私を支店長室へ呼び出した。広いデスクの向こうに座った彼は、誠実そうな表情で、少しだけ懐かしさをにじませていた。
「真央、こんな状況で再会するとは思わなかった」
「安心してほしい。君が僕の元恋人だからといって、私情を仕事に持ち込むつもりはない」
「むしろ、君を重用したいと思っている」
そう言って、彼は私に一冊のファイルを差し出した。
中に入っていたのは、森川モビリティ株式会社に関する資料だった。森川モビリティは関東地方でも知られた自動車電子機器とスマートモビリティ関連の企業で、車載制御システム、自動運転支援部品、新エネルギー車向けの関連設備を手がけている。どの銀行にとっても、必ず取りにいきたい大口顧客だった。
桐谷翔吾は、まるで本当に私にチャンスを与えているかのような目で私を見た。
「森川モビリティのA銀行での大口融資が、もうすぐ満期を迎える。まだ継続するかどうかは決まっていないそうだ」
「各銀行がこの案件を狙っている。僕も新任の支店長として、当然成果を出したい」
「ただ、僕は銀行員としての経験が浅い。経験のある人に伴走してもらい、推進してほしいんだ」
私はその資料をめくりながら、これは甘い肉ではなく、かたい骨だとすぐに理解した。利益は大きいが、難易度も極めて高い。
もし私が森川モビリティに専念すると決めたら、これまで自分で維持してきた顧客をすべて手放さなければならない。ひとつひとつの規模は大きくなくても、合計すれば、それは私が何年もかけて積み上げてきた実績の土台だった。
私は迷った。
「桐谷支店長、これほど重要な案件を私に任せるのは、少し……」
彼は私の言葉を遮り、わずかに身を乗り出した。
「分かっている。君にとっても挑戦になる」
「でも真央、君は一生小さな支店にいて、毎月数万円のために必死に働き続けるだけで満足なのか?」
「君には背景がない。ここで勝負しなければ、ここが君の終着点になるかもしれない」
その言葉は、私の一番痛いところを正確に突いてきた。
私は地方の小さな町から銀行に入り、東京に足場を作るだけで精一杯だった。家庭の人脈も、大口企業のつてもない。顧客はすべて、自分の足で一人ずつ訪ね、一人ずつ関係を築いてきた。家に電話を一本入れただけで大口預金を取ってくる同僚たちが次々と上がっていくのを見て、焦らなかったわけではない。ただ、私にはほかの道がなかった。
私が黙り込むと、桐谷翔吾は少し声を和らげた。
「こうしよう。今日から君は森川モビリティに専念してくれ」
「顧客リストにあるほかの顧客は、いったん別の担当へ移す。君はこの案件だけを追えばいい」
「君がこれまで開拓した顧客から今後発生する実績は、引き続き君につける。そこは僕が責任を持って見る」
私は、地元で倹約して暮らす母のことを思い出した。そして最後には、うなずいた。
「分かりました」
その日から、私はほとんど二十四時間動き続ける生活に入った。
昼間は森川モビリティ本社の近くに通い、なんとか財務部の人たちと距離を縮めようとした。財務部の先輩たちが残業していれば、コーヒーや差し入れを届けた。資料が必要だと言われれば最優先で整え、急な質問があれば、すでに支店へ戻っていてもまた駆けつけた。夜には支店に戻り、その日の会話をもとに提案書を修正した。
私はほかの銀行員のように社長を待ち伏せしたり、自行の金利の低さだけを大げさに売り込んだりしなかった。各銀行の強みとリスクを客観的に比較した分厚い資料を作り、融資構造、キャッシュフロー、今後のサービスコストまで、完全に企業側の立場から分析した。
森川モビリティの財務本部長である佐伯美紀は、先週ようやく態度を少し軟化させた。私の提案書を自ら社長に渡すと言ってくれたのだ。
だが、私のもともとの顧客から生じる実績は、最初の二か月だけ給与に反映された。三か月目から、それは消えた。
私の顧客を引き継いだ橘莉奈は、軽い調子で一言だけ説明した。
「今お客様に入っている新しい商品は、私が改めて提案したものですから」
私は桐谷翔吾に確認しに行った。けれど、彼の返事はいつも同じだった。
「真央、もっと先を見ろ」
「森川モビリティを取れれば、今失っているものは全部戻ってくる」
私は信じた。年末表彰会の日まで、すべてが最初から私を陥れるための穴だったとは知らなかった。
3.その豚の大腸は、最後に彼の首へ掛かった
午後六時、年末表彰会は予定どおり始まった。
一連の形式的な流れが終わると、いよいよ全員が最も待っていた表彰の時間になった。受賞者たちは一人ずつ壇上に上がり、表彰タスキと賞金、賞品を受け取って、得意げな顔をしていた。客席では拍手、撮影、冷やかしが飛び交い、会議室はきれいに包装された狂宴のようだった。
「橘莉奈、最優秀預金獲得賞!」
「特別賞金五万円、職能等級一級昇格、最新型iPhone一台!」
「杉本拓也、最優秀融資業務賞!」
「特別賞金十万円、職能等級三級昇格、ドローン一台、最新型スマートフォン一台!」
職能等級が一つ上がるたびに、月給は目に見えて上がる。桐谷翔吾が今回、かなり大きく出たことは明らかだった。
私は客席に座り、晴れやかな顔をした彼らを無表情で見ていた。次に私を待っているものが、表彰などではないことは分かっていた。
司会者は手元のカードを見つめ、顔色をどんどん悪くしていった。桐谷翔吾は待ちきれなくなったのか、マイクを奪い取り、壇上から私に向かって笑った。
「次は、新宿第三支店が始まって以来初めて設けた賞を発表します」
「この栄誉を受けるのは、いったい誰でしょうか」
会議室の空気が、たちまち微妙なものに変わった。
多くの社員がうつむいて笑いをこらえていた。杉本拓也に至っては、わざと私に向かって口笛を吹いた。
この羞辱は、最初から秘密でも何でもなかったのだ。
「佐倉真央さん、おめでとうございます」
「本年度、年間最下位社員賞です」
客席が一斉にざわめいた。
桐谷翔吾はそのざわめきなど聞こえていないかのように、刺すような声で続けた。
「一年間働いて、彼女と同じ成果を達成した社員は一人もいません」
「つまり、すべてのKPIがゼロという成果です」
「佐倉真央、壇上へ」
その瞬間、無数の視線が針のように背中へ突き刺さった。私は立ち上がり、一歩ずつ壇上へ向かった。歩くたびに、客席から押し殺した笑い声が聞こえた。
桐谷翔吾は待ちきれない様子でビニール袋を持ち上げた。彼は黄色く脂ぎった豚の大腸を取り出し、悪意に満ちた笑顔を浮かべた。
「早く頭を下げろ。掛けてやる」
「昼は表彰タスキ、夜はおかず。ずいぶんお得だろう」
彼の顔には笑みが浮かんでいたが、目の奥はどんどん暗く冷たくなっていった。
「銀行に入ったからといって、安心していられると思うな」
「今は景気も悪い。どの業界も、貢献しない人間を抱えておく余裕はない」
「今回は減給しない。だが第一四半期の評価が出たあと、佐倉真央と同じようにゼロを取る者がいたら、ただタスキを掛けるだけでは済まない」
客席の嘲笑はさらに大きくなった。
机を叩く者、スマートフォンで録画する者までいた。妊娠中の女性社員が口を押さえて外へ駆け出したのに、ほかの者たちはますます楽しそうに笑った。まるで私の羞辱が、年末最高の余興であるかのようだった。
豚の大腸の悪臭は、すぐ鼻先にあった。私は、この半年で森川モビリティのために何度も門前払いを食らったことを思い出した。深夜まで提案書を直したこと、奪われた顧客、消えた実績を思い出した。そして、桐谷翔吾が何度も軽く口にした「君の能力を信じている」という言葉を思い出した。
彼の言う信頼とは、私を一番難しい案件に押し込み、ゼロ実績という名目で公開処刑するための道具だったのだ。
ぬめりのある冷たい豚の大腸が私の頬に触れた瞬間、私は悪夢から覚めたように動いた。桐谷翔吾の手首をつかみ、力任せにひねる。彼が痛みで口を開けた瞬間、私は最も汚れた先端をその口に押し込んだ。
「支店長、口がずいぶん臭いますね」
「豚の大腸で歯でも磨いてください」
桐谷翔吾は目を見開き、怒鳴ろうとした。だが口は豚の大腸でしっかり塞がれ、漏れるのはくぐもった、みじめな音だけだった。
私は止まらなかった。もう一方の端をつかみ、彼の首へまっすぐ巻きつけた。
「この表彰タスキは、私にはもったいないようです」
「桐谷支店長には、とてもよくお似合いですよ」
認めたくはないが、桐谷翔吾の準備は実に念入りだった。
その豚の大腸は本当に長かった。私は彼の首に二重に巻きつけても、まだかなり余っていたので、そのまま上半身に回し、腕まで一緒に縛りつけた。さっきまで威張り散らしていた支店長は、今では豚の大腸に絡め取られ、床に転がるしかなかった。どれだけもがいても、脂で滑るそのものは彼の体にぴったり張りついたままだった。
会場は死んだように静まり返った。
つい先ほどまで一番大きな声で笑っていた人間たちは、今では口を開けたまま固まっていた。まるで突然、音声を切られたかのようだった。
しばらくして、杉本拓也が震える声を上げた。
「佐倉真央! 正気かよ。早く桐谷支店長をほどけ!」
彼はそう叫びながら、無意識に両腕を胸の前で交差させていた。自分の首にも豚の大腸を巻かれるのではないかと、恐れているようだった。
私は床の上で醜態をさらす桐谷翔吾を見下ろし、冷たく笑った。
「実績で語れ、でしたよね」
「営業管理システムに私の実績がない理由を、桐谷支店長はご存じないんですか」
激しい怒りのあと、私はむしろ静かになっていた。桐谷翔吾の目をまっすぐ見つめ、一語ずつ問いかけた。
「威厳を示したかったんですか。だから、わざと私を見せしめにした?」
「私の家に後ろ盾がないから、職場いじめを受けても黙って耐えると思った?」
「それとも、私が元恋人だから、声を上げられないと踏んだんですか」
会議室は再び騒然となった。
「えっ? 佐倉真央って、桐谷支店長の元カノなの?」
「だから支店長が来た初日に彼女を部屋へ呼んだのか。知り合いっぽいとは思っていたけど」
「元カノを見せしめにするって、さすがにえげつないな」
橘莉奈の顔色が一瞬で変わった。桐谷翔吾が支店に来てから、彼女は彼への好意を隠そうともしなかった。私が元恋人だと聞いた途端、まるで尻尾を踏まれた猫のように反応した。
「ありえない!」
「佐倉真央が嘘をついているに決まってる!」
「桐谷支店長から聞いています。あなたがずっと彼を誘惑して、断られてもつきまとっていたんでしょう!」
彼女は言えば言うほど焦り、桐谷翔吾への忠誠心を見せつけようとしているようだった。
「どんな事情があっても、あなたが仕事を怠けていい理由にはなりません。今ここで暴れる言い訳にもならない!」
そう言うと、彼女は歯を食いしばり、ラインストーンのついた長いネイルの手で、桐谷翔吾に絡みついた豚の大腸をほどこうとした。だが大腸はぬるぬると滑り、長いネイルでは力が入らない。焦れば焦るほど手元は震え、最後にはぱきりと音を立てて爪が一本折れた。
入口で待機していた警備員が、ようやく慌てて駆け寄ってきた。彼は大きなはさみを手に、豚の大腸をめちゃくちゃに切り始めた。
桐谷翔吾はようやく解放された。彼は跳ね起きると、口を開けて吐こうとした。私はとっさに隣にいた杉本拓也を前へ引っ張った。
びしゃびしゃという音とともに、桐谷翔吾は杉本拓也の顔に吐いた。噛み切られた豚の大腸の一部は、さらに滑稽なことに杉本拓也の耳に引っかかり、悪趣味なイヤリングのように揺れていた。
桐谷翔吾は怒りで全身を震わせた。
「出ていけ!」
「お前は解雇だ!」
「今すぐ出ていけ!」
私は小さく笑い、落ち着いた声で答えた。
「桐谷支店長、怒りで判断力を失っていませんか」
「ここは銀行です。私は違法行為も規律違反もしていません。どんな理由で私を解雇するんですか」
「もっとも、そこまでお手を煩わせる必要はありません」
「この場所はもう、臭いが染みつきすぎています。明日、私から人事部へ退職届を提出します」
4.豚の大腸より醜い身体検査
会議室を出たあとも、背後では表彰会が続いていた。
橘莉奈は折れたネイルを押さえ、泣き崩れるような顔をしていた。杉本拓也は水の入ったコップをつかんで顔にかけたが、それは注いだばかりの熱湯で、彼は豚の悲鳴のような声を上げた。桐谷翔吾は全身から悪臭を漂わせたまま、私の背中をにらみつけていた。目だけで穴を開けたいと言わんばかりだった。
角を曲がる時、私は入口の警備員が身をかがめ、桐谷翔吾の口元に耳を寄せているのを見た。桐谷翔吾は何かを低く命じていた。その顔には、なんと笑みまで浮かんでいた。
席へ戻ると、食堂の田中さんがいつの間にか私のデスクのそばに立っていた。彼女は段ボール箱を抱え、目を真っ赤にしていた。
「真央ちゃん、豚の大腸のことで、辞めるの?」
「私、本当にあれが人をいじめるためのものだなんて知らなかったの。知っていたら、絶対に用意なんてしなかった」
彼女の声は震えていた。言い終える前に、涙がこぼれた。
「おばさんが謝るね。でも、子どもじゃないんだから、あなたもよく考えて。今は景気もよくないし、外で仕事を探すのは簡単じゃないよ」
私は段ボール箱を受け取り、デスクの私物を一つずつしまいながら、彼女に笑いかけた。
「田中さんのせいではありません」
「あなたも仕事として命じられただけだと、分かっています」
段ボール箱を抱えて入口へ向かうと、ちょうど表彰会が終わったところだった。三々五々に出てきた社員たちは、全身臭い桐谷翔吾を囲みながら、それでも彼を持ち上げていた。
「桐谷支店長、やっぱりお見事です。私たち、前から佐倉真央が気に入らなかったんですよ。これで彼女のほうから辞めると言い出しましたね」
「本当に。彼女の顧客は小口ばかりとはいえ、数が多いですからね。全部合わせると、支店の実績のかなりを占めていた。あんな一人勝ち、よくありませんよ」
「森川モビリティという難題を彼女に投げたのも最高でしたね。実績を出せないように苦しめられるし、彼女の元の顧客はみんなで分けられる」
彼らは大げさに笑い、私に聞こえているかどうかなど気にしていないようだった。あるいは、わざと聞かせていたのかもしれない。
これは最初から、私を狙って張られた罠だったのだ。私はただ、ここを出たかった。悪臭と偽善と悪意に満ちたこの場所から、一刻も早く離れたかった。
しかし、私が入口に差しかかった瞬間、一本の警棒が目の前に横たえられた。
「止まれ!」
低く荒い怒鳴り声が響いた。横を見ると、さっき桐谷翔吾とひそひそ話をしていた警備員の佐藤だった。私は表情を変えなかった。
「何ですか。退勤もできないんですか」
佐藤は眉をひそめ、警棒の先で私の段ボール箱を叩いた。
「さっき、明日退職するって言ったな」
「銀行には機密書類が山ほどある。辞める前に内部資料を持ち出さないと、誰が保証できる?」
「箱を置け。中を開けて検査する」
彼はそこで言葉を切り、不快な目つきで私の体を見た。
「それから、お前も両手を上げて壁につけ」
「身体検査をする」
私は目を細めた。
「身体検査?」
周囲の監視カメラを指さし、唇に冷たい笑みを浮かべた。
「私はまだ退職していません。たとえ退職者だとしても、警備員が社員の身体を勝手に調べていいという規定が、いったいどこにあるんですか。このカメラの前で、その規定を読み上げてください」
佐藤の顔色が変わった。逆上した彼は警棒を揺らしたが、実際に私へ振り下ろす勇気はなかった。ただ首を突き出すようにして怒鳴った。
「俺に命令するな! さっさとしろ!」
「検査が終われば俺も帰れる。お前一人のせいで全員を待たせるな!」
私は、少し離れた暗がりで桐谷翔吾がこちらを見て笑っているのに気づいた。彼は私のそばまで歩いてきて、声を低くした。
「真央、警備員を困らせるな」
「知らないのか? 社員が監視カメラの映像を確認するには、支店長の承認が必要なんだ」
「それが嫌なら、警察に通報するしかない。警察の正式な文書があれば、映像の確認はできるだろうな」
彼の笑みはさらに深くなり、声は冷たく陰湿になった。
「でもその頃には、佐藤は僕から謝礼を受け取って、別の現場に異動している」
「僕は、これは彼の個人的な行動だったと言えばいい」
そう言いながら、彼の手はすでに私の襟元をつかんでいた。
「賢くしたほうがいい。うちの制服はあまり丈夫じゃない。警備員が力を入れすぎて、うっかり服が破れたら、みっともないだろう」
人前での身体検査。それは、豚の大腸よりさらにひどい羞辱だった。私は拳を握りしめ、彼を見据えて一語ずつ言った。
「誰が私に触れるつもりですか」
「これは違法です」
桐谷翔吾が口を開く前に、杉本拓也がわざとらしい心配顔で割り込んできた。
「もういいだろ、佐倉。男の社員は目を閉じて見ないようにすればいいじゃないか」
「今はリスク管理が最重要なんだ。まして君が追っていたのは、うち最大の潜在顧客である森川モビリティだ。これだけ長くやって成果が出ないとなると、もしかして誰かが競合銀行に資料を売って、見返りをもらっている可能性だってあるよな」
橘莉奈はすぐに手を打ち、わざとらしく納得した顔をした。
「だから実績がゼロでも焦らなかったんですね」
「もう十分に稼いだから、辞めると言い出したんだ」
彼らは口裏を合わせ、身体検査にもっともらしい理由をいくつも積み上げた。私は彼らを無視し、桐谷翔吾だけを見た。
「もし、私が拒否すると言ったら?」
彼は笑みを消し、目を一瞬で冷たくした。
「拒否?」「それは君が決めることじゃない」
彼の手にさらに力が入り、首元が痛んだ。息が詰まりそうになった。
その一触即発の瞬間、外からエンジンの轟音が聞こえた。全員が音のほうを見ると、正面入口の前に黒いメルセデス・ベンツのGクラスが停まっていた。まぶしいヘッドライトがガラス扉越しに差し込み、その場にいる全員の顔を照らした。
車のドアが開き、濃い色のスーツを着た女性がハイヒールで降りてきた。彼女はガラス扉を強く叩き、氷のように冷たい声を響かせた。
「あなたたち、何をしているの?」
「取り調べでもしているつもり?」
5.大口顧客は、私だけを信じた
現れたのは、森川モビリティ株式会社の財務本部長、佐伯美紀だった。彼女はこの半年、私が最も必死に向き合ってきた相手であり、森川モビリティ内部で最も重要な意思決定の推進者でもあった。仕事は鋭く、判断は速く、銀行の派手な売り文句にはまったく乗らない。私は彼女と長い時間をかけてすり合わせを重ね、ようやく「あなたという人を信じる」と言ってもらえたのだった。
彼女は扉を開けて入ってくると、囲まれている私を見て、さらに床に散らばった段ボール箱と乱れた制服に目をやり、顔を一瞬で険しくした。
「うちの担当者を囲んで、手を出しているんですか。新宿第三支店のリスク管理とは、こういうものなんですね」
桐谷翔吾は佐伯美紀を知らず、とっさに怒鳴ろうとした。だが外に停まる車を見て、無理やり怒りを飲み込んだ。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
杉本拓也と橘莉奈も、昨年森川モビリティを追いかけたことがあった。二度断られてすぐ諦めただけに、二人は当然、佐伯美紀の顔を知っていた。杉本拓也は顔色を変え、すぐに媚びた笑みを浮かべて前へ出た。
「佐伯本部長、どうしてこちらへ?」
「真央、佐伯本部長が来られるなら、前もって言ってくれればよかったのに。きちんとお迎えしたのに」
橘莉奈も慌てて続き、まるでさっきまでのことなど何もなかったかのように、親しげな口調になった。
「こちらが当支店の桐谷支店長です」
「桐谷支店長、こちらが森川モビリティ財務本部長の佐伯様です」
桐谷翔吾の目が輝き、彼はすぐに手を差し出した。
「佐伯本部長、初めまして。新宿第三支店の桐谷で……」
佐伯美紀は彼をまったく見なかった。まっすぐ私のもとへ来ると、床に落ちた段ボール箱を拾い上げ、私の乱れた襟元を確認した。
「真央、大丈夫?」「本当は今日、森川社長があなたの提案を認めたことを、直接伝えに来たの。細かい条件を詰めるために、うちへ来てほしいと」
「まさか、こんな場面に出くわすとは思わなかったわ」
彼女は床に散らばった私物へ目を落とし、さらに眉をひそめた。
「これは異動? それとも退職?」「先に言っておくけれど、森川モビリティが認めたのはあなたという担当者よ。あなたが異動するなら、異動先と話す」
「あなたが退職するなら、こちらもお互いの時間を無駄にしないため、予備案に切り替えるだけ」
私が説明しようとした瞬間、桐谷翔吾が先に口を開き、無理やり笑顔を作った。
「佐伯本部長、誤解です。佐倉は当支店の中心人材です。本部が異動させたいと言っても、私たちは手放したくありません」
「今日は表彰会をしていただけです。先ほどのはゲームの一環で、少し盛り上がりすぎてしまっただけでして」
そう言いながら、彼は必死に私へ目配せした。
私は彼に一切の逃げ道を残さなかった。
「佐伯本部長、これはゲームではありません。ご覧のとおり、私は本当に退職するつもりです」
「森川モビリティがまだ関東共栄銀行との契約を望まれるなら、今後は別の担当者が引き継ぐことになると思います」
空気がその場で凍りついたようだった。
桐谷翔吾の顔に貼りついていた笑みが固まった。杉本拓也と橘莉奈は私を憎々しげににらみつけ、それからすぐ佐伯美紀の前へ回り込み、頭を下げながら彼を取り繕った。
「そうですそうです、佐伯本部長。私たちにお任せいただいても同じです。佐倉は若くて感情的になりやすいだけで、私たちは違います」
二人は声をそろえ、必死にその大口案件をつかみ留めようとした。
佐伯美紀は、まるで道化を見るような目で彼らを見た。
「言ったはずです。佐倉真央以外、私たちは誰も信用していません」
彼女の声は大きくなかったが、一言一言が重く響いた。
「あなたたちの支店内でどんなくだらない権力遊びをしているのか、私は知りません」
「ただ一つ分かっているのは、これまで私たちとすり合わせてきたのは彼女だということです。彼女は森川モビリティの必要としているものを理解し、私たちの判断を尊重してくれた。彼女が主導しない案件なら、これ以上話す必要はありません」
そう言うと、佐伯美紀は私の肩を軽く叩いた。
「私はこの人たちと話すことはないわ」「あなたも同じでしょう。行きましょう、家まで送るから」
わずかな言葉だけで、佐伯美紀はその場の主導権を完全に握った。
帰り際、彼女は桐谷翔吾の横を通り過ぎる直前に足を止め、鼻先で手を振った。
「桐谷支店長」「何か食べてはいけないものでも召し上がったんですか。ひどい臭いですね」
桐谷翔吾の顔は、青白くなったり赤くなったりした。
私は段ボール箱を抱え、佐伯美紀についてその支店を出た。外の空気は冷たかった。それでも私は初めて、まともに息ができる気がした。
6.彼らは私に戻ってきてほしがった
佐伯美紀の車を降りてすぐ、桐谷翔吾から電話がかかってきた。私が出るなり、電話口からは一方的な怒声が飛んできた。
「佐倉真央、調子に乗るなよ。僕の顔をあんなふうに潰すとはな」
「実績ゼロだと言われたくらいで何だ? 仕返しのつもりか? 全員を巻き込んで支店の業績を潰す気か?」
私は何も言わず、彼がわめくのを静かに聞いていた。彼は荒い息をついたあと、何かを思い出したように声を抑えた。
「こうしよう。さっき橘マネージャーと杉本マネージャーとも話した」
「二人とも、年末賞与から半分ずつ君に渡してもいいと言っている」
「十分だろう?」
「個人的な感情はいったん置いておけ。僕が出口を用意してやる。そこから降りれば、全員が丸く収まる」
私は笑った。
「丸く収まる?」「では、私に掛けるはずだった豚の大腸を半分に切って、皆の前で二人の首に掛けましょうか。それで十分だと思いますか」
電話の向こうが、一瞬で静まり返った。
しばらくの間、桐谷翔吾の荒い呼吸だけが聞こえた。次の瞬間、電話の向こうから橘莉奈の焦った声が割り込んできた。
「どうしましょう、桐谷支店長。今、佐伯本部長の投稿を見ました。森川モビリティが、改めて取引銀行を探すと公表しています!」
桐谷翔吾は声を失った。
「何だって? 信じられるか。森川モビリティほどの大企業が、佐倉真央一人のために取引先を変えるというのか?」
私は電話の向こうで彼が取り乱すのを静かに聞き、ようやく口を開いた。
「私のためではありません」「あなたのせいですよ、桐谷支店長」
帰り道で、私は支店で起きたことを佐伯美紀にすべて話した。森川モビリティの利益を第一に考えてほしい、私のために取引を切る必要はないとも、何度も伝えた。
だが佐伯美紀は、その場で笑った。
「佐倉さん、森川モビリティが小さな町工場からここまで来られたのは、目先の金利だけを見ていたからだと思う?」
「あなたの支店長のあの品性を見ただけで、たとえ向こうがお金を払うと言っても、私たちは彼とは取引しません」
桐谷翔吾は電話の向こうでさらに崩れていった。私はもう彼に話す機会を与えず、そのまま通話を切った。
その夜、私は行内システムで一か月分の有給休暇を申請し、続けて退職手続きを進めた。銀行の規定では、退職手続きは一か月前から始めなければならない。私はもうあの支店に戻りたくなかったし、冷血で偽善的な同僚たちの顔も見たくなかった。
スマートフォンは何度も鳴った。すべて桐谷翔吾からだった。私はそのまま電源を切った。
それから数日間、私はようやく静けさを手に入れた。少し旅行に出て、戻ってからは金融関係の求人サイトを見るようになった。この業界を離れたいとは思わなかったし、あの腐った人間たちのために、自分が積み上げてきた専門性まで捨てるつもりもなかった。
ところが、一か月が近づいた頃、本部人事部長の三浦が二人の同僚を連れて、私の自宅を訪ねてきた。
ドアを開けた私は、少し驚いた。三浦部長はすぐに本題へ入った。
「佐倉さんですね。何度かお電話しましたがつながらなかったので、人事記録の住所を頼りに伺いました」
「実は、森川モビリティの森川社長は私の旧友でして。佐伯本部長からあなたの件を聞いたあと、直接私に連絡してきました。あなたのような優秀な人材を手放してはいけない、と」
胸が小さく跳ねた。私は淹れたばかりのお茶をテーブルに置いた。
三浦部長は茶碗を手に取り、ゆっくりと言った。
「ちょうど本部法人営業部の副部長ポストが空いています」
「候補者数名の過去三年間の実績と顧客対応を比較した結果、あなたが最も適任だと判断しました」
「給与、待遇、権限については、あなたもお分かりでしょう。すぐに返事をする必要はありません。よく考えてください」
本部法人営業部の副部長。つまり私は関東共栄銀行を辞めずに、本部へ移り、昇給と昇進を同時に得られるということだった。
それ以上に重要なのは、業務管理上、私は新宿第三支店の法人営業を管轄する立場になるということだった。考えるまでもない。私はその場で、つい何度も大きくうなずいた。
「お受けします。必ず一生懸命働き、本部と森川モビリティの期待を裏切らないようにします」
三浦部長と二人の同僚は笑った。
そのうち一人の若い職員は、危うくお茶を吹き出しそうになっていた。
三浦部長は大きく手を振った。
「では決まりです。明日、元の支店へ戻って引き継ぎを済ませ、三日後に本部へ出社してください」
私は少しためらってから、一番気になっていたことを尋ねた。
「森川モビリティとの契約は、どうなるのでしょうか」
さっきお茶を吹きかけた若い職員が、笑いながら答えた。
「森川社長は、関東共栄銀行とは引き続き取引すると言っています。ただし、その契約はあなたの元の支店とは結ばないそうです」
「ですから、佐倉副部長の最初の仕事は、森川モビリティにふさわしい支店を選ぶことになります」
7.私が戻ると、彼らは私を佐倉副部長と呼んだ
翌日、私が新宿第三支店に着くと、遠くから桐谷翔吾が杉本拓也と橘莉奈を連れて入口に立っているのが見えた。三人は、まるで私の到着時間を見計らっていたかのようだった。私の姿を見るなり、すぐに歩み寄ってきた。その笑顔は熱心すぎて、滑稽なほどだった。
「佐倉副部長、お待ちしておりました」
「先日のことは、どうかお気になさらないでください。私たちも業務発展のために、少しやり方が行きすぎただけで……」
「そうそう。狼性文化が社員を成長させると言うじゃないですか。私も新任支店長として、行動が少し過激だったかもしれませんが、出発点は間違いなく善意でした」
以前、私に身体検査をしようとした警備員の佐藤も、慌てて扉を開けた。腰は別人のように低かった。
「佐倉副部長、ほかにお持ちになるものはありますか。私が運びます。お疲れにならないように」
私は笑った。
「同じ銀行内とはいえ、私はこの支店を離れる身ですよ」「機密書類を盗むとは思わないんですか」
佐藤の笑顔も動作も一緒に凍りついた。桐谷翔吾はすぐに彼を押しのけ、鋭く叱りつけた。
「上に媚び、下に強く出るだけのやつが。どけ!」
私は桐谷翔吾を見上げた。
「桐谷支店長、彼も命じられて動いただけでしょう。言われたことを忠実にした部下を、どうして責めるんですか。器が小さいですね」
桐谷翔吾の目の奥に一瞬、陰りが走った。それでも彼は頭を下げた。
「佐倉副部長のご指摘のとおりです」
杉本拓也と橘莉奈は彼の左右に立ち、私に向かって何度もうなずいていた。
私は段ボール箱を抱えて支店内へ入った。かつて私を笑った人たちは、まるで合図を受けたように一斉に立ち上がり、ぎこちなくも媚びた笑みを浮かべた。最初に我慢できなくなったのは杉本拓也で、彼はおずおずと近づいてきた。
「佐倉副部長、森川モビリティと契約する支店は、あなたがお選びになると聞きました」
私は彼を軽く一瞥しただけで、答えなかった。橘莉奈がすぐに後を追い、これまでで一番甘い笑みを浮かべた。
「それは本当に良かったです」
「新宿第三支店は、佐倉副部長にとって元の場所ですし、いわばご実家のようなものですよね。私たちはみんな、身内のようなものですから」
杉本拓也はすぐに大きくうなずいた。
「そうです、そうです」
「当時、桐谷支店長の一言で、あなたは手持ちのお客様を私たちに任せて、森川モビリティという難しい案件に専念されました。ようやく成果が出た今、情に厚い佐倉副部長なら、私たちを忘れるはずがありませんよね」
私は足を止めた。三人の切実で緊張した視線を受けながら、静かに首を横に振った。
「森川社長が言っていました」「ゴミとは取引しない、と」
三人の顔から、笑みが一瞬で消えた。
桐谷翔吾の体がかすかに揺れ、顔は紙のように灰色になった。かろうじて保っていた体面も、この瞬間に完全に砕け散った。
私は私物を片づけたあと、最後に食堂へ向かった。
田中さんは私を見るなり、赤い目で何かを言おうとした。私はそれより先に、本部の食堂で働かないかと誘った。
彼女は固まった。
「私が?」
私はうなずいた。
「あなたは、この場所で唯一、私に善意を向けてくれた人です」「善良な人が悪意のある環境に長くいると、とても苦しくなります」
田中さんは口元を押さえ、また涙をこぼした。
新宿第三支店を出る時、私は振り返らなかった。
森川モビリティは最終的に、私が推薦した別の支店と契約した。今後の取引でも関東共栄銀行を優先すると約束してくれた。新宿第三支店はこの大口案件を逃し、年間順位を一気に地域最下位近くまで落とした。
桐谷翔吾は年末表彰会における職場いじめの件で、支店長職を解かれた。その後の内部監査で、彼と杉本拓也、橘莉奈が長期にわたって顧客からリベートを受け取り、外部金融商品を私的に販売し、さらに営業実績の帰属を偽装して同僚の実績を奪っていたことまで発覚した。
三人は懲戒解雇となった。関与した金額は刑事事件として扱われる水準に達しており、最終的には警察へ送致された。
8.忘れる。でも、許さない
本部に入ってから、私の仕事は以前よりも忙しくなった。森川モビリティは始まりにすぎなかった。その契約をきっかけに、私はいくつもの大手製造業やテック企業と関わるようになった。かつて奪われた顧客や実績は、もう私の職業人生で証明できない悔しさではなくなっていた。
一年のうちに、私は二段階昇進した。年末、前任の法人営業部長が退任し、私は正式に部長の座に就いた。
また一年が過ぎ、年末表彰会の日が来た。今度、壇上に立っているのは私だった。
私は一人ひとりの社員に、表彰の内容と贈り物を用意した。優れた成績を出した人には報酬を、成長が目立った人には賞を、裏方で黙々と支えてくれた人にも感謝を形にした。今年まだ成績が伸びきっていない新人にも、羞辱ではなく、励ましの賞を渡した。
会議室は明るい光に包まれ、拍手は温かかった。そこにいる人たちの笑顔は、すべて本物だった。
その時、秘書が私のそばへ来て、声を落とした。
「佐倉部長」
「刑務所にいる桐谷翔吾から手紙が届いています。新年の挨拶をしたい、と」
「お読みになりますか?」
私は手にしていたシャンパンを持ち上げ、一息で飲み干した。
「桐谷翔吾?」
少し考えてから、私は静かに笑った。
「誰、それ」
かつて私にとって、骨身に刻まれるほど大きかった屈辱は、私がより良い自分になっていくうちに、少しずつ薄れていった。私を傷つけた人と出来事を、私は忘れることにした。けれど、許すことはしない。
――完――




