1-9 それを救いと呼ぶの
牧歌郷アルカディア・王都アルカグラ。夜の帳が降りた宿屋の一室で、俺達は布団に包まっていた。裸の肌に、窓の隙間から入り込む外気が生温く触れていく。
「せつくん、次は何処に行きましょうか」
幸せそうな笑みを浮かべたアマネが、枕元でスマホを弄る俺を優しく見守っていた。手の中の端末には、アマネに聞いた通り、色々な機能が詰め込まれていた。
SNS。画面に映るフォロワーは一人――アマネシエル。彼女の真名――希空雨天音という文字列と共に、彼女のアイコンだけが、闇に浮かぶ灯のように光っている。
「せつくん……?」
「あ、ああ……悪い。なんだっけ」
脳裏を掠めたのは、フランのあの表情だ。別れ際に見せた、何か言い残したような寂しげな目。ただの名残惜しさじゃない。もっと、深い何かを訴えていた。
「あの、次は何処に向かわれるのか、と……」
「ああ……」
スマホを伏せ、アマネを見る。
――ここで言えば、きっと彼女を傷付ける。それでも、言わなければいけない。
「――アマネ、一つ、酷いことを言ってもいいか」
彼女は小首を傾げ、けれど直ぐに真剣な表情へと変わった。純白の髪が、月明かりを受けて淡く揺れる。
「はい、せつくんの仰ることなら」
「――俺は、マザー・エニスを信用出来ない」
その一言に、部屋の空気が張り詰めた。アマネにとってはマザー・エニスは親も同然だ。酷いことを言っているのは自覚している。ただ、それでも……。
「それは……どうしてでしょうか」
天才と謳われた俺には、幼少期から様々な悪意ある大人が近寄ってきた。マザー・エニスは、神聖な笑みを浮かべながら、彼らと同じ目をしていた。
「マザー・エニスの目は……悪意ある人間の目だ」
「そう、ですか……」
「もし俺の思い違いなら誠心誠意謝罪する。だが今は――確かめたい」
アマネは僅かに俯き、それから小さく頷いた。その瞳には、覚悟と、微かな怯えが同居している。
「……かしこまりました。せつくんがそこまで仰るなら、お供します」
――こうして、俺達は再びあの教会へ向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――再びの王都郊外、マザーロマリオ教会。鐘の音が遠くで鳴り終える頃、教会の敷地内は死んだように静まり返っていた。石造りの壁は昼間よりも冷たく、月明かりが尖った十字の影を床に落としている。
孤児院の棟の窓は、外から中が覗ける造りになっていた。
「せつくん……変です。フランちゃんがいません……!」
アマネの声が震える。眠る孤児達の寝室を抜け、俺達は足音を殺して廊下を進んだ。靴底が石を踏む度、心臓の鼓動が一拍遅れて胸の奥で響く。
胸の奥が粗つく。孤児院の裏手にある扉。教会の裏口に続く位置だ。その扉の錆びた金具を回すと、微かな音を立てて開いた。中は薄暗い階段。空気が重い。湿った鉄と油の匂いが鼻を突いた。
「地下倉庫なんて……昔はなかったはずです……」
アマネの囁き。壁に沿って並ぶ蝋燭の火が揺れ、その揺らぎが階段を歪んで見せる。
――声だ。
微かに声が聴こえた。低く、くぐもった声。女の声と、男の声。俺は息を止め、影の中に身を沈める。アマネも直ぐにそれに倣った。
階段の下、鉄格子の向こう。黒い修道衣の裾が見えた。金の刺繍。あれは――マザー・エニス。
その向かいに立つのは、黒い外套の男。厚い革袋を持ち、床に広げている。袋の中には金貨の山。袋の中で、金貨が鈍い音を立てた。
「いつもながら見事な『品』だ」
男の声が低く響く。マザー・エニスは優雅に首を傾げ、慈悲深く笑った。
「神は、彼らに新たな『使命』をお与えになったのです。貧困も、孤独も、彼らを縛る鎖。――それを断ち切ってあげるのが、私の務め」
笑っていた。昼間と同じ、慈母の顔で。ただ、口から出る理屈だけが、徹底的に腐っていた。
鉄格子の奥では、数人の子供が膝を抱えて震えている。目には布が掛けられ、腕には縄。声も出せない。誰かが嗚咽を漏らすと、マザー・エニスはそっと手を伸ばし、その頬を撫でた。
「泣かないで。これは罰ではありません。あなた達はこれから『王国のため』に働くのです。神はね、あなた達を誇りに思ってくださいますよ」
拳が震えた。歯を食い縛っても、奥歯の軋みが耳に届く。胸の奥で何かが焼け付くように疼いた。それは、縛られた子供達の中に、見覚えのある少女の姿があったからだ。
白ブラウスの上から黒いタータンチェック柄のジャンパースカートを着た、内巻きの銀髪ボブスタイルの可愛らしい女の子。――フランだった。
――「養子に出された」なんて、全部嘘だったんだ。
「くくっ、これから奴隷として働くというのに、『王国のため』か。詭弁だな」
奴隷商の男が笑い、革袋を脇へ置く。マザー・エニスは帳簿を開き、さらさらとペンを走らせた。
「これで、今月分は最後です。来月には王都の祭典。子供達の『処理』が終わり次第、またご連絡を」
マザー・エニスの声は、澄み切っていた。聖歌のように美しく、そして吐き気がする程に残酷だった。
隣でアマネの肩がびくりと揺れる。その震えが、布越しに伝わってくる。
俺は震える指でスリングショット――〈エフェメラリズム〉を握る。だが、踏み出せなかった。今ここで飛び出すことは、アマネが「聖母」として信じてきた存在を、俺の手で叩き壊すことになる。その痛みを、アマネに背負わせることになる。
逡巡した――その時だった。
足下の石が、コツ、と鳴った。
マザー・エニスがふと、こちらを振り向く。白い顔に、蝋燭の灯りが揺らめく。暗がりの中、その瞳が、はっきりと俺とアマネを捉えた。
「――そこにいるのは、セツナさんとアマネシエルですね?」
血の気が引いた。名を呼ばれた瞬間、世界が崩れ落ちるように思えた。一本の蝋燭の火がふっと消え、残りの炎がざわざわと騒めくように揺れた。
「懐かしいわ。アマネシエル、あなたも『神の子』だったものね。……ようやく、帰ってきてくれたのね」
マザー・エニスの微笑みは、祈りにも似て美しい。だが、その背後で鳴る鎖の音だけが――確かに、地獄の音を立てていた。
「くっ……!侵入者か!マザー・エニス!だから戸締まりはアレほど念入りにと……!」
奴隷商が吠える。一歩前へと踏み出たのは――アマネだった。何処からともなく現れた、美しい水の軌道。それは瞬きする間に形を取り、槍のように鋭く伸びて、奴隷商の男の胸部を貫いた。
「ぐっ……!がっ……!」
「大丈夫です。殺してはいません」
アマネが淡々と告げる。血飛沫が床石を赤く濡らす。俺はマザー・エニスを見据えた。
「最初から胡散臭かったんだよ、アンタ」
「あの子達はね、世界で必要とされる場所に行くの。買われるってことは、価値があるってことよ。それを『救い』と呼ぶのよ?」
その笑顔は神を語る聖女ではなく、人を弄ぶ悪魔そのものだった。名目上は「孤児院を兼ねた慈善施設」だが、実情はマザー・エニスが孤児達を金で売り捌くための中継点。孤児院という名の、合法の牢獄。彼女の作り笑いを疑う者は、誰もいなかったのだ。
「違うね。最期に笑って死ねない人生なんて、救いじゃない」
自分でも驚く程、声は冷静だった。
「神様ってね、いつだって沈黙してるの。誰が悪いかなんて、言ってくれないのよ」
その狂信の言葉に、俺の怒りは恐怖へと変わる。——この女は、本当に「自分が正しい」と思っている。アマネが、静かに息を吸った。
「……クズ過ぎて、涙も出ませんね」
声は震えていた。だが、その瞳は凍て付いた炎のように燃えていた。
「アマネ、子供達は任せるぞ」
「はい、せつくん。仰せのままに」
アマネが素早く鉄格子の鍵を開け、フラン達の拘束を解いていく。縄を外されたフランが、震える声で俺の名を呼んだ。
「おにいたま……!おねえたま……!」
「フランちゃん、私達が来ましたから、もう大丈夫です。誰も奴隷にはさせません」
涙で濡れた頬の向こうから、フランが俺を見上げる。掠れた声が、耳に届いた。
「……たすけて」
フランの頭にぽんと手を置く。そして、静かに笑って答えた。ギザギザの歯を覗かせて。
「ああ、今助けてやる」
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