1-4 僕と君のエーデルワイス
「天音ちゃんは、両親の仕事、嫌い?」
ある日、ブランコに揺られながら雪渚が尋ねてきた。
「……嫌い」
天音は迷わず答えた。足を前に出す度、鎖がぎいぎい鳴る。
「だって、お父さんとお母さんを連れてっちゃうんだもん。お仕事がなかったら、きっと天音ともっと遊んでくれるもん」
「そっか」
雪渚は小さく頷いた。
「僕も、勉強がなかったら、きっとお母さん、あんな顔しないんだろうな」
「あんな顔?」
「テストの点数見る時の顔。……天音の言う『お仕事』と、だいぶ似てるよ」
二人は顔を見合わせる。
「……なんかさ」
「うん」
「わたしたちの『敵』、似てるね」
笑いながらそう言うと、雪渚も吹き出した。
「勉強と仕事が敵って、親が聞いたら怒りそう」
「怒ってもいいもん。だって本当だし」
天音はふん、と顔を背けてみせる。少年の目が、優しく細められた。
「天音ちゃん、そうやってはっきり言えるの、すごいと思う」
「え?」
「僕は……逃げるばっかりだから。言わないで、黙って出てきちゃう」
その声には、自嘲とも後悔とも付かない響きがあった。天音の胸が、少しだけちくりとする。
「……逃げてもいいんだよ、せつくん」
「いいの?」
「うん。だって、せつくん、ちゃんとここに来るもん」
「ここ?」
「ここで、一緒に遊ぶでしょ。お話も聞いてくれるし」
天音はブランコから飛び降り、雪渚の前に立つ。
「せつくんは、逃げてるんじゃないよ。ちゃんと……生きる場所、探してるんだよ」
言ってから、自分でも少し照れ臭くなるような言葉だった。けれど雪渚は目を丸くして、それからゆっくりと笑う。
「天音ちゃんって、時々凄いこと言うよね」
「え、すごい?」
「うん。なんか、大人みたい」
「ふふん。当たり前だよ。わたし、いつも頑張ってるもん」
「そうだね」
その一言だけで、胸がふわ、と軽くなる。
――天音を見てくれてる人が、ちゃんといるんだ。
家にはない何かが、この小さな公園には確かにあった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ある日、天音は公園に着くなり、ランドセルをベンチに置いて、ビニール袋を取り出した。踞み込み、砂場の端に散らかったお菓子の袋やペットボトルを、一つ一つ拾い始める。
「んしょ、んしょ……」
ペットボトル。お菓子の袋。タバコの吸い殻。ビニール袋を片手に、一つ一つ拾っていく。
誰に頼まれた訳でも、宿題でもない。ただ、ふと目に付いたゴミが気になって、気付けば体が動いていた。
――きれいなほうが、せつくん、きっと好きだもん。
そんな理由も、少しだけ混ざっていた。
「天音ちゃん、何してるの?」
背後から聞き慣れた声がして、天音はぱっと振り返る。
「せつくん!」
雪渚が立っていた。いつもの、少し縒れたリュックサックを片方の肩に掛けて。
天音は誇らしげに、ゴミ袋を掲げる。
「見て、ゴミ拾い!公園、汚いのやだもん」
「へぇ……」
雪渚は近付いてきて、袋の中を覗き込んだ。
「結構いっぱいだね」
「でしょ?なんかさ、誰も拾わないから、わたしがやろうかなって」
「すごいね、天音ちゃん」
その言葉は、驚く程真っ直ぐな声色で降ってきた。
「誰も見てないところで、こうやってちゃんとやるの、ほんとに偉いと思う」
「──っ」
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。目の奥が熱くなって、慌てて空を見上げた。
「べ、別に……偉くないもん。ちょっと、気になっただけ……」
「いや、偉いよ」
雪渚は躊躇いなく言い切る。
「僕だったら、『どうせ誰も見てないし』って思って、きっと放っておく」
その言葉が、天音の中の「何か」を、はっきりと揺らした。
──どうせ誰も見てないなら、頑張らなくてもいい。
それは、天音がいつの間にか覚えてしまった考え方だった。賞状を見せても、テストを見せても、上の空の返事。褒められることに、だんだん意味を感じなくなっていった。
――見てくれないなら、頑張っても意味ない。
そう思ったからこそ、勉強もピアノも、前程は燃えなくなっていた。
けれど──
「僕が見てるよ」
雪渚の声が、唐突に落ちてくる。
「天音ちゃんが頑張ってるの、ちゃんと見てる」
「……っ」
「だから、少しは意味あると思う」
その瞬間、世界の色が少し変わった気がした。いや、本当は変わっていないのかもしれない。変わったのは、天音の中だけだ。
「……ほんとに?」
「うん。僕、嘘吐くの苦手だから」
雪渚は少し照れ臭そうに笑う。
「天音ちゃんはさ、頑張る理由を、人から奪われてきたんだと思う」
「……理由?」
「褒められるために頑張ってたのに、褒める人がちゃんと見てくれなくなったらさ、そりゃ頑張る意味、わかんなくなる」
まるで、天音の胸の中を全部読んだみたいな言い方だった。心臓がドクン、と大きく鳴る。
「でも、僕はちゃんと見てるよ。天音ちゃんが何してたか、どんなことができたか、失敗しても、成功しても」
雪渚は真っ直ぐに天音を見つめる。
「だから、もし天音ちゃんが頑張りたいって思えるなら……その理由の一つに、僕を混ぜてくれてもいい」
ビニール袋が、くしゃりと音を立てる。天音は、それを握り締めながら、掠れた声を絞り出した。
「……せつくんが、見ててくれるなら」
「うん」
「わたし、頑張る。また、頑張ってみる」
涙と一緒に、言葉が零れる。雪渚は驚いたように目を見開き、それから、ふっと優しく笑った。
「じゃあ、その一歩目が、このゴミ袋だね。手伝うよ」
「……うん!」
天音は、涙を拭って笑い返した。誰かに「見てもらえる」ことが、こんなにも温かいなんて、知らなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
──だからこそ、その後の日々は、天音にとって宝物だった。鬼ごっこ。かくれんぼ。木登り。時には雪渚が持ってくる本を一緒に読んで、天音が意味のわからないところを質問して、雪渚が得意げに説明する。
「せつくん、漢字詳しいね」
「当たり前でしょ。勉強ばっかりしてるんだから。舐めるなよ」
「ふふ、何それ」
揶揄い合いながらも、その一つ一つが楽しかった。
天音にとって雪渚は──寂しさを紛らわす「友達」なんかじゃない。胸を張って、頑張る理由を取り戻させてくれた、「大切な人」だった。
ある日、夕方の公園。砂場の脇に、小さな花壇があることに天音はふと気づいた。
「……あれ?」
低いレンガで囲われた土の上に、ぽつん、ぽつんと白い花が咲いている。マーガレットよりずっと小さくて、でも、真ん中まで雪みたいに白い。
天音は踞み込み、その隣で本を読んでいた雪渚の袖を引っ張った。
「ねえ、せつくん」
「ん?」
「このお花、名前なに?」
指先でそっと触れながら訊ねると、雪渚は本から目を離し、天音の視線の先を追った。一瞬だけ、彼の瞳が驚いたように見開かれる。
「……エーデルワイス」
「えーでる……わいす?」
舌が縺れて、天音は変なところで区切ってしまう。雪渚はくすりと笑った。
「エーデルワイス。山の上の方に咲く花なんだって。昔、本で読んだ」
「山の上?こんなとこにも咲いてるのに?」
「誰かがここに植えたんだと思うよ。普通、勝手には咲かないから」
そう言いながら、雪渚も天音の隣に踞み込む。天音は赤く頬を染める。同じ高さで並んで覗き込むと、白い花弁が夕日を受けて、ほんのり金色に縁取られて見えた。
「なんか……雪みたい」
「だよね。だから『エーデルワイス』って、ドイツ語で『高貴な白』って意味なんだって」
「こうきな、しろ……」
天音は口の中でゆっくり転がすように繰り返す。意味はちゃんとはわからないけれど、その音の響きが、なんだか少し特別な呪文みたいに思えた。
彼女はそっと花に顔を近付ける。殆ど匂いはしない。ただ、冷たい空気と土の匂いがした。
「じゃあさ」
天音はぱっと顔を上げる。
「このお花、天音とせつくんのお花にしよ」
「え?」
「天音、せつくんと遊ぶの、ぜんぶ大切な思い出になるもん。だから、この花見たら、今日のこともぜんぶ思い出せるようにする!」
宣言するように両手を腰に当てると、雪渚は一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。
「……じゃあ、約束だね」
「やくそく?」
「うん。どっちかが忘れそうになっても、この花見たら思い出す。ここで一緒にいたこと」
その言葉が、天音の胸の奥にそっと刺さって、温かく広がる。
「うん!やくそく!」
天音は、エーデルワイスの直ぐ上で、小指をぎゅっと握った。雪渚も少し可笑しそうに笑いながら、自分の小指を天音のそれに絡める。
「じゃあ、証人はこの花だね」
「うん。この、えーでる……」
「ワイス」
「エーデルワイスさんに、見てもらうの!」
そう言って笑った天音の横で、雪渚はふっと目を細めた。小さな白い花が、二人の間で黙ったまま揺れている。その約束が、後に天音の胸を締め付けることになるとも知らずに。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
だから、ある日を境に雪渚が公園に現れなくなった時。
「……あれ?」
最初は、ただ不思議に思っただけだった。いつもの時間。いつものベンチ。いつもの砂場。何処にも、見慣れた黒髪の少年の姿はない。
「たまたま、だよね」
天音はブランコに座り、自分に言い聞かせる。
翌日も、その次の日も、天音は公園へ足を運んだ。
「今日は、来るよね」
ベンチに座り、足をぶらぶらさせながら空を見上げる。時間だけが、伸びた影のように長くなっていく。
──来ない。
週が変わっても、季節が少し進んでも、雪渚は現れなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……わたしが、何か言ったから?」
ある日、ゴミ拾いの袋を握り締めたまま、天音は呟いた。
「逃げてもいいよって、言ったから?……それで、嫌になっちゃった?」
雪渚が最後に何を言っていたか、一言一句思い出そうとする。笑っていたか。困っていたか。傷付いていなかったか。
思い出そうとすればする程、胸の奥がぎゅうっと締め付けられて、息が苦しくなった。
「せつくん……」
名前を呼んでも、風が少し木の葉を揺らすだけ。返事なんて、返ってこない。
「……ごめんね」
誰にともなく謝って、天音はその場に踞み込んだ。ゴミ袋が手から滑り落ち、カサリと音を立てる。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」
ぽろぽろと涙が零れて、土に小さな濡れた跡をつくる。
天音は泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。
雪渚が来ない公園は、こんなにも広くて、こんなにも寒い。
――わたし、きっとなにか、ひどいこと言っちゃったんだ。
証拠なんてないのに、そうとしか思えなかった。理由もなくいなくなってしまうなんて、あまりにも怖すぎるから。
だから、きっと自分の所為なのだと。天音は、まだ幼い心で、理不尽な結論に辿り着いてしまった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
日が暮れ掛けた頃、天音は立ち上がった。涙でぐちゃぐちゃになった顔を、袖で拭う。
空はいつの間にか群青色になっている。街灯の明かりが点き始め、公園に白い光の輪が落ちる。
──もう、やめよう。
胸の奥で、何かがひっそりと音を立てて崩れるのを感じた。
――わがまま言ったら、きっと、また誰かがいなくなる。
天音が本音を言うから。天音が「嫌だ」と言うから。天音が、相手と同じ場所に立とうとするから。
そうしたら、また突然、目の前から消えてしまうのだと――幼い彼女は、恐ろしく一方的な「ルール」を心に刻み付けてしまう。
「いい子に、なる」
声に出して、宣言する。
「わがまま、言わない。……ちゃんと、言うこと聞く」
誰に向かって言っているのか、自分でもわからない。お父さん、お母さん。そしてもう一人――大切な、名前を呼ぶだけで胸が痛む人。
天音は、ぎゅっと拳を握った。
「もう、逃げない」
本当は、逃げたかった。でも、自分が逃げた先には、もう「せつくん」はいない。ならば──残された道は一つだけだ。
「いい子になったら……もう、誰もいなくならない、かな」
答えは返ってこない。それでも、そう信じるしかなかった。
天音は、公園を振り返らずに歩き出した。背中に、さっきまで泣き続けていた自分が取り残されているような気がしたが、それでも前に進んだ。夜風が、涙の跡を冷たく撫でていく。
この日を境に──天音は「我儘を言う子供」をやめた。
そして、両親の前で笑う時の自分と、あの小さな公園で泣きじゃくっていた自分とを、心の奥深くで、きっちりと分けるようになった。
従順な子供として生きることが、誰かを失わないための、唯一の方法だと信じながら。――例えそれが、将来自分だけが傷付く選択だとしても。
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