1-2 神話級
――目を覚ます。
視界を満たしたのは、光だった。瞼の裏に刺すような光が溢れ、俺は思わず目を細めた。頬を撫でる風の温度も、鼻を擽る土の匂いも、さっきまでいたあの凍て付いた海底のものではない――それだけは直ぐに理解出来た。
ゆっくりと瞼を持ち上げ、思わず息を呑む。
「これは……」
そこには、白銀の海が広がっていた。無数の星を地上に零したような、一面のエーデルワイス。高山に咲く筈のその花が、何処までも――地平線の向こうまでも続いている。柔らかな風が吹き抜ける度、花々は波のように畝り、静かに煌めいた。
さっきまで冷たい海水に焼かれていた皮膚に、今は陽光の温もりが優しく染み込んでくる。
――ここは何処だ?
耳を澄ませば、遠くで鈴の音のような鳥の声がする。疑問より先に、胸の奥から溢れたのは歓喜にも似た震えだった。現実では有り得ない景色。けれど夢にしてはあまりに鮮明で、風の温度も、花弁の触れる音すらも感じ取れる。
――何故だ。俺は死んだ筈だ。
腹も胸も刺して、相模湾の底まで沈んだ。冷たい闇に包まれて、後は意識が途切れるだけだった、筈なのに。
肺は苦しくない。血の匂いもしない。代わりにあるのは花と土と、澄んだ風の匂いだ。
足下のエーデルワイスの花弁を一つ、指先でそっと摘む。淡く透き通った白が、太陽に炙られ、ほんのりと金色を帯びた。
「綺麗だな……」
指先に触れる感触は、夢の中の曖昧さではなく、確かな現実のそれだった。
――ここが天国とでも言うのか。それなら幾分か、納得は出来る。
花畑の奥へ歩みを進めると、いつからか──遠い筈の音が近付いてきた。人の声。笑い声。そして、誰かが風を切る音。
花々の隙間から姿を覗かせたのは、小さな村のような空間だった。エーデルワイスの海を割るように土の道が伸び、その中央に子供達が集まっている。青い空へと吸い込まれた赤い風船を見上げて、一人の少女が泣きそうに顔を歪めていた。
「わたしの風船……」
隣で困り果てた少年が頭を掻く。そこへ、背の高い青年が一歩前へ出た。砂を巻き上げる風を背に受けながら、日向に出来た影のような、静かな気配を纏っていた。
青年は少女の頭を軽く撫で、空を見上げる。そして、小さく口の端で呟いた。
「――『風の梯子』」
空気が形を持った。足場のない空に、半透明の階段が展開する。淡い風が巻き上がり、花弁を巻き込みながらそっと青年の身体を押し上げた。彼は当たり前のことをするような足取りで宙を登っていく。その光景は、魔法でも夢でもなく、この世界の日常の一部なのだと告げていた。
青年はひょいと風船の紐を掴み、宙に浮いたままくるりと振り返る。
「ほら。ちゃんと捕まえておけよ」
少女が目を丸くし、涙の代わりに笑顔が零れた。青年が地上へ着地すると、『風の梯子』は砂の煙のように掻き消える。
その奥では、少年達が剣を打ち合わせていた。粗末な木剣ではあるが、空気を裂く音は鋭い。土の上には踏み込みの跡が幾重にも刻まれ、掛け声は低く、まだ幼い喉からは似合わぬ熱が迸っている。
「足が甘い!」
「どこ見てんだよ!構え直せ!」
剣の先が僅かに摺れるだけで、風向きが変わる。全身の体重を乗せた踏み込みには、兵士のそれと同じ覚悟が宿っていた。エーデルワイスの静謐は、その一角だけ熱によって歪められ、模擬戦の気配が地面から立ち上っている。
俺は、その光景から目を離せずにいた。
――見慣れない風景。
――魔法のような超常現象。
――子供が自然に剣技を学ぶ村。
――そして誰も、その異様を不思議と思っていない。
理解が、遅れて胸に落ちる。ここは、日本ではない。想像の産物でもない。夢と呼ぶには、あまりにも世界そのものが呼吸をしている。
この世界では、風は梯子になり、子供達は明日のために剣を振るう。空は青く、エーデルワイスの花畑は永遠に続いている。そして俺は、そのただ中に立っている。
――俺は、異世界に来たのだ。
そう認識した瞬間、風が一陣、足元から吹き抜けた。花々の波が、まるで俺を迎えるように揺れていた。
「……異世界、転移……」
口にした言葉が、世界の輪郭を確かなものにしていく。無数の花と、自分だけが存在するこの一瞬の静寂。それなのに、誰も俺を見ていないのに、歓迎されているような温もりがあった。
俺は足元の花を踏まぬよう注意しながら、そっと村の方へ歩き出した。
――村の通りに敷き詰められた石畳は午前の陽を柔らかく返し、まるで温もりそのものが道となって村を包んでいるかのようだった。白壁と木枠で組まれた家々は古い伝統を守りながらも何処か軽やかで、花壇のエーデルワイスが風に揺れては、色とりどりの影を地面へ落とす。
「いらっしゃい!焼き立てのパンだよ!」
「一つくださーい!」
通りにはハーブの香りと焼き菓子の甘い匂いが混じり、商人達が陽気に声を張り上げる。並べられた籠には素朴な木の実や野菜が山のように積まれ、小さな露店の天幕は緑と白の縞模様で、村の穏やかな色彩に溶け込んでいた。通りを行き交う人々は、旅人にもよそよそしさを見せず、一様に柔らかな微笑みを浮かべている。
ふと、建物の窓硝子に見慣れた姿が映り込んだ。白黒の豹柄シャツ。金縁の色付き眼鏡。赤いニット帽。ボサボサの白髪。ギザギザの歯。
そこに映っていたのは、俺が生前好んでいたファッションと大差ない男だった。体中に空けた筈の穴は何処にもなく、何処からも血は流れていない。
「……浮いてるなあ」
鏡像のように動く自分を見つめ、胸の内で苦笑する。けれど、「死んだ身体」が綺麗に修復されている事実が、どうしようもなく現実感を増していた。
その時、視線の先で水音がした。
一人のメイド服の女が、花壇のエーデルワイスに水を遣っている。純白の髪を肩で切り揃え、毛先は軽く外ハネ。豊かな胸元が目を惹く。左の前髪には黒いばってん型のヘアピン――小悪魔めいたアクセントが、落ち着いた雰囲気の中に愛嬌を添えていた。
――可愛い。
思考より先に、そんな感想が浮かんだ。
「珍しい格好ですね。旅の方、でしょうか?」
顔を上げた彼女が、柔らかな声で話し掛けてきた。
「……旅の方……まあ、そんなところだ」
「左様でございますか。長旅、ご苦労様です」
「このエーデルワイスの花畑は……君が管理しているのか?」
「はい。昔、ある女の子に大好きな男の子がいたのです。その男の子が道に迷っても、また再会出来るように――と、その女の子が植えたものだそうです。もう何百年も昔の、御伽噺のような話ですけどね」
――じゃあ、その女の子はもう亡くなっているのか。
彼女は右足を斜めに引き、左足の膝を軽く曲げ、ロングスカートの端を指で摘んですっと頭を下げた。所謂、カーテシーと呼ばれる貴族社会の挨拶法だ。仕草は淑やかで、しかし冷たさはない。笑顔は春の日差しのように柔らかだった。彼女のメイド服のフリルが動きに合わせてふわりと揺れる。
「申し遅れました、私はアマネシエルと申します」
「俺は……セツナ。雪村雪渚だ」
すると、彼女が大きく目を見開いた。
「雪村……雪渚……」
「どうかしたか?」
「い、いえ……なんでもありません。あの……『せつくん』とお呼びしても?」
「距離近くないか?」
「そうですか?では、セツナ様とお呼びします」
「……まあいいか。それで頼むよ、アマネシエル」
「長旅でお疲れでしょう。よろしければ、私の家でお休みになっていってくださいませ」
――考える。
さっきまで真冬の海の底で、誰にも看取られずに死ぬ筈だった俺が、今、エーデルワイスに囲まれている。目の前には、名前を呼んでくれる誰かがいる。たったそれだけのことが、滑稽な程眩しく思えた。美しい花畑と、メイド服の美女に囲まれながら、俺は思う。
――もう一度だけ、生きてみてもいいのかもしれない、と。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
村の端に聳えるアマネシエルの家は、質素ながら柔らかな空気に満ちていた。木の香りが残るダイニングには、焼きたてのパンや彩り豊かなサラダ、温かなスープが並べられている。キッチンから戻ったアマネシエルが、にこやかな笑みを浮かべながら、俺の正面の椅子に腰を下ろした。
「お味は如何でしょう。セツナ様」
「美味しいよ、ありがとう。……正直、久しぶりにちゃんとした飯を食べた気がする」
「ふふ、良かったです」
「ところで……アマネシエルはなんでメイド服を着てるんだ?」
問い掛けると、彼女はぱっと顔を輝かせ、そのまま一気に捲し立てた。
「私、世話好きなんです。色々な方のお世話をしているうちに、村の方々が『メイド服なんて似合うんじゃないか』なんて仰るものですから、試しに着てみましたら『やっぱりアマネシエルちゃんにはメイド服が似合うわね』ということになりまして――」
「お、おう」
「それから、『だったら普段から出来る限りメイド服を着るようにしてみよう』ということで、メイド服を着ている次第です」
「そうか、似合ってるよ」
「ふふ、お上手ですね。セツナ様」
「本心だよ」
アマネシエルは気恥ずかしそうに目を伏せ、白い頬をほんのりと染めた。その細やかな仕草一つで、この世界に流れる時間が、少しだけ優しく感じられる。
――さて。聞きたいことは山程あるが、「異世界転移しました」とぶっ込んでも、真面に取り合ってもらえる気はしない。どう切り込むか。
「なあ、アマネシエル、少し聞いてもいいか」
「なんでしょう、セツナ様」
「『日本』という国を知っているか?」
アマネシエルは一瞬だけ瞬きをし、それからにこりと微笑んだ。返ってきた言葉は、俺の予想とはまるで違うものだった。
「はい、存じております」
「まあ知らないよな、そりゃそう――えっ、知ってるのか?」
思わず椅子を蹴って立ち上がる。
「はい。太平洋に囲まれた、東アジアの島国……ですよね?」
「え、あ、ああ……」
勢いに任せて立ち上がったことを誤魔化すように、再び腰を下ろす。
「今となっては昔の話ですが……」
「昔の話?」
「ご存知ありませんか?三百年前、世界各地で発現した異能。それは、世界人口の殆どが武器を手にしたことを意味します」
「ユニークスキル……」
聞き慣れた「ライトノベル的単語」が、現実の口調で語られる違和感。だが彼女は、恰も当然のことのように語る。
「中でも、極めて優れた才覚を持つ者だけに発現する神話級ユニークスキル……彼らによって、多くの国は亡び、大陸は消滅しました。今のこの世界は新世界と呼ばれています」
アマネシエルは淡々と告げる。その声音に、誇張や脚色の気配はない。まるで教科書を読み上げるように、それでいて自分の言葉として。
「それで……日本も亡びたのか」
「はい。かつて存在した多くの国々と同じく、今はもうありません。ここは、牧歌郷アルカディアという国のエーデル村という場所になります」
――成程。ということはここは「異世界」というよりは「現実世界の延長上」か。
「エーデル村……そうか。アマネシエル、今は西暦何年だ?」
「えっと……西暦二四一〇年になります」
――西暦二四一〇年。ということは……俺は何かしらの理由によって、三百八十五年の時を経た時間転移をしたことになる。
「あの、セツナ様、どうしてそのような質問をされるのですか?」
「ああ、いや、ちょっとな」
日本が亡びたと聞いても、不思議と心は静かだった。あの国で遣り直す選択肢は、そもそも二度と取るつもりがなかったのだ。
「そうですか……。ふふ、わかりました、セツナ様」
アマネシエルはぱん、と小さく手を打った。
「セツナ様は新世界の初心者さんなんですね?」
「初心者……?まあ、そうかもな」
「わかりました!では、私が先輩として、セツナ様に色々教えて差し上げます!」
瞳をきらきらと輝かせるアマネシエル。外ハネの純白の毛先が、その動きに合わせて揺れる。――やっぱり、可愛い。
「じゃあアマネシエル、ユニークスキルについて詳しく教えてくれないか?」
「かしこまりました。多くの人は十歳で、才覚に応じた階級のユニークスキルが発現するとされています。階級には下から、何もない無等級、下位級、中位級、上位級、偉人級、英雄級、神話級です」
「運ゲーじゃないんだな。才覚に応じてとは残酷なモンだ」
「ふふ、そうですね。特に神話級ユニークスキルを持つ方は新世界に十数人といません。新世界の頂点――十傑と呼ばれる方々も揃って神話級ユニークスキルをお持ちです」
「十傑か……」
「先程申し上げた、『国を亡ぼした』ですとか、『大陸を消滅させた』というのも十傑様の逸話ですし、他にも、『一振りの剣で空を割った』ですとか、『拳一つで巨大隕石を粉砕した』というお話もあります」
「まるで神話だな……。成程、神話級だ」
笑い混じりに返しながらも、その規格外さは嫌という程伝わってきた。そんな存在が十数人もいて世界が均衡を保っていること自体、奇跡みたいなものだ。
「ふふ。それでは――」
そう返事をしてアマネシエルが食卓の上に置いたのは、一冊の古びた書物。しかし、何処か神々しさすら感じさせる。革表紙には金の装飾、内部は黄ばんだ羊皮紙。しかし、この世のものではないような、不思議な存在感を放っていた。
「これは……」
「〈審判ノ書〉。ユニークスキルを鑑定するための魔道具です。これに手を翳せば、セツナ様のユニークスキルを知ることが出来ます」
――俺の……ユニークスキル……。
俺は小さく頷き、一気に〈審判ノ書〉へと手を伸ばす。〈審判ノ書〉に右の掌を向け、神経を研ぎ澄ます。胸の奥底では微かな期待と、不吉な予感が同時に蠢いていた。アマネシエルは少しだけ姿勢を正し、静かにその様子を見守っている。
すると、〈審判ノ書〉の白紙のページに、じわじわと金色の光が滲み出す。それはゆっくりと形を成し――神聖な文様となって浮かび上がった。
「セツナ様……っ!これは…………」
アマネシエルが息を呑み、驚愕がそのまま声になった。軈て、光が完全に文字の形を取った。黄ばんだ羊皮紙のページには、こう、記されていた。
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