1-1 入水
何時だって限界は唐突だ。満たされたグラスに水を注ぎ続ければ、何れ静かに縁を越えて溢れ出す。音もなく、しかし確実に。
雪村雪渚の人生は、そうして崩壊した。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、そして、音もなく崩壊を迎えたのだ。大学入試共通テスト全科目満点。誰もが羨む「天才」の称号の裏で、彼は常人の理解を超えた闇を抱えていた。
――二〇二五年十二月、ある冬の夜。俺は東京・渋谷のとあるマンションの一室、そのベランダに立っていた。オイルライターの火が小さく灯り、紙巻き煙草の先端を焦がす。フィルターを咥え、深く吸い込むと、肺の奥で煙が刺すように広がった。吐息と共に白い煙が夜気に散る。満月が雲間から覗き、漂う煙を銀色に照らしていた。
短くなった煙草を灰皿――もとい、シケモクの山となった何かに押し付けた。足下には無数の吸殻が散乱している。ベランダの掃き出し窓を開け、ベランダでの喫煙用に購入した穴空きサンダルを脱いで部屋に上がった。
部屋は暗かった。フローリングに散乱するインスタント麺の容器、弁当の残骸の塵芥。ゲーミングモニターの画面から放たれる僅かな光だけが、暗闇の中で辛うじて空間の輪郭を浮かび上がらせていた。
机の引き出しの隙間から、白黒の紙片が覗いているのが見えた。取り上げてみると、それは四年前の新聞記事の切り抜きだった。
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「天才」大学入試共通テスト満点の受験生を生み出した雪村家へ直撃取材
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「はっ……何が天才だ……」
写真の中で笑う母の姿。その後ろに、当時の俺――黒髪の青年が写っていた。カメラから逃げるように顔を背けている。母はその年の冬、事故で死んだ。
「本当に天才なら人生詰んでねーよ……」
スクラップの下には、俺宛ての借金の督促状がぎっしりと詰め込まれている。真っ赤な封筒。見るだけで吐き気を催す色だ。
その机の上に無造作に散らばる大量の錠剤。誰にも届かない声音には、何か恨み節のようなものが込められていた。大学で精神医学を学んでいた筈の俺が今じゃ引き籠もりで精神科通い。笑えない冗談だ。
「ヤブ医者が……」
十二年。十二年間もの間、ずっと鬱病の症状は出ていたのだ。診断書を貰うために「通院出来る」精神が必要だという矛盾。痛みを知らぬ医者が、上っ面の共感を語る滑稽。――救いなど、最初から存在しなかった。
「さて……」
時計の針は深夜一時を指していた。ふと姿見の前に立つと、そこに映る自分の姿は、酷く醜かった。ストレスで真っ白になってしまったボサボサの髪。大学で舐められないように、と買った茶色のカラーレンズが入った金縁の眼鏡。過剰な喫煙によってボロボロになったギザギザの歯。全身グレーのパジャマ。その全てが、今の俺の現状を雄弁に物語っていた。
「クソみたいな人生だった。それも今日で……終わる」
玄関へと向かうと、暗闇の中に、まだ新品同然のスニーカーがぽつんと置かれている。スニーカーを履き、ドアノブを捻って扉を開ける。共用廊下に吹き付ける冷たい風が、俺の白髪を靡かせた。
「寒いな……」
扉を施錠しないまま、仄暗い共用の階段を駆け足で降りる。マンションを出て裏手へ回ると、駐車場の奥に放置車両が一台。その車両の下を覗き込み、隠されていた黒いスーツケースを引き摺り出した。立てたスーツケースの中から、金属が擦れ合う鈍い音が響く。
スーツケースを片手に、再びマンションの表、道路側に回ると、つい先刻までは停まっていなかったタクシーが停まっていた。助手席側の窓ガラスを軽くノックすると、それに気付いた初老の運転手が軽く会釈し、後部座席のドアが開いた。運転席から降りた運転手に声を掛ける。
「……予約させていただいた田中です」
「田中様ですね。お荷物はトランクに載せましょうか」
スーツケースに手を伸ばそうとする運転手に声を掛け、手で制する。
「――いえ、すみませんが潔癖症なもので」
「かしこまりました。ではどうぞ」
促されるまま、スーツケースを抱えたまま後部座席に乗り込む。ドアが閉まると同時に、タクシーは静かに動き出した。
「お客様、行き先はJR逗子駅でお間違いないでしょうか」
「はい、お願いします」
「かしこまりました。出発いたします」
ルームミラー越しに、運転手がちらとこちらを窺う。何処か怪訝そうな表情だった。
「あの、お客様。失礼ですが、逗子駅へはどうして……?」
――ハズレの運転手か。妙に察しが良い。
「ああ、いえ、バイトでして。撮影のロケハンなんですよ」
「へえ、何の撮影なんですか?」
「今度芸人の街ブラロケやるんですよ。学生なんですけど、勉強させてもらってて」
揺れる車両に合わせて、足元のスーツケースが揺れる。中で金属と金属が擦れる音が聞こえる。
「ああ、それでスーツケースから金属音が」
「撮影機材ですね。大した量じゃないんですけど」
運転席の若い男は、何処か安心したように頷いた。
「大変ですね~。頑張ってください」
「はは……ありがとうございます」
何でもない会話。でも、もう二度と交わすことはない。
「お客さん、知ってます?この辺にあの、大学入試共通テスト満点の天才が住んでるらしいですよ。雪村さん……でしたっけ」
「……へえ、そうなんですか」
「立派ですよね。ウチの息子も見習ってほしいものです」
「……見習うべきじゃないですよ」
聞こえるか聞こえないか――そんな声量で、伏し目がちに呟く。呟きは風に攫われて、車内に溶けた。
「……?」
運転手がきょとんとした表情を浮かべたのがルームミラー越しに見えた。軈て、タクシーは海沿いの街へ差し掛かった。
「あ、この辺りで大丈夫です」
「かしこまりました」
タクシーメーターの料金表示が「27,000円」を超えたタイミングで、車は逗子駅前ロータリーに滑り込むように停車する。
「では料金は……二万七千四百円になります」
「はい」
ポケットに裸のまま入れていた三枚の紙幣を目の前の釣り銭受け皿――正式名称はカルトンと呼ぶが、それに置く。運転手が素早く清算し、釣り銭と共に二千六百円をカルトンに戻した。それを手に取ると、ドアが自動で開く。
「お仕事頑張ってくださいね!」
「ありがとうございます。お互いに、ですね」
笑顔を覗かせる運転手。去っていくタクシーを暫く眺めた後、俺は右手に残った二千六百円を、駅前に置かれた水色の募金箱へとそのまま突っ込んだ。何の募金かも確認しないまま。俺の白い髪が夜風に靡く。
――スーツケースを片手に逗子を歩くこと十五分。俺は真冬の逗子海岸、その砂浜に立っていた。砂浜に人気はなく、波音だけが夜を満たしている。
眼前に広がる海は相模湾。日本三大深湾にも数えられる。海岸付近でもかなりの水深があり、沖まで行けば最深部は水深一〇〇〇メートルを優に超える。
俺は再度周囲の目がないことを確認し、スーツケースを波打ち際まで転がした。ダイヤルを解除してスーツケースを開ける。中には重量のある金属製のチェーンと、その至るところに引っ掛けられたダンベル。そして一本のナイフが入っていた。月光に照らされた刃が、青白く輝く。
ナイフを一度口に咥える。代わりに、ダンベル付きの長いチェーンを両手で持ち上げる。
「……重っ」
苦笑とも溜息とも付かない声を漏らしながら、そのチェーンを身体中に巻き付けていく。ダンベルの重みが、全身の筋肉と骨を容赦なく軋ませた。簡単には外れないよう、何重にも巻き付ける。
軈て、身動きの取りづらい程に重くなった身体を自覚しながら、今度はナイフを右手に持ち替えた。刃先を、躊躇いなく自分の腹部へと向ける。
――もう、いいだろ。
突き立てた瞬間、意識が飛びそうな程の痛みが全身を駆け巡った。灼け付くような痛み。息を吸うことすら難しい。瞬く間に、赤い血がグレーのパジャマに染みを広げていく。
――嗚呼、痛い。でもこれで終わるんだな。
ナイフを腹部から引き抜くと、温かい血が一気に噴き出した。足下の砂が、海水と混じり合った血でどろりと色を変えていく。
続け様に胸部へと刃を向ける。一度目は肋骨に阻まれたのか、奥まで届いた感覚がない。もう一度、角度を変えて突き立てる。今度は、肺を貫いた確かな手応えがあった。
恐ろしい程に冷静だった。不思議と死ぬことが怖くなかった。腹部、胸部、背中へと次々にナイフを突き刺し、更に身体に穴を空けていく。波打ち際の砂浜と、打ち寄せる波が赤く染まっていく。その光景は、場違いな程に――美しかった。
――こんなものか。
空っぽになったスーツケースを蹴り飛ばすと、海の向こうへと着水し、スーツケースはぷかぷかと浮かんだ。スーツケースはゆっくりと沖へ流れていく。
見上げれば、満月。まるで、俺を見送るように煌めいていた。そして俺は夜空に浮かぶ満月を暫く眺めた後、眼前に広がる相模湾――その海へとゆっくりと歩を進めた。
相模湾は海岸付近でも深さがある。波打ち際に足を踏み出すと、海は直ぐに足を奪う。冷たい海水が、身体の傷を焼く。振り返れば、血の線が海面に漂っていた。その軌道が何処か儚く見えた。
身体中に空けた穴に染み込む冷たい海水が、地獄のような痛みを絶え間なく俺に与え続けた。
――痛い……けどあの頃に比べたらマシだな。それより、急がないと先に出血多量で死ぬか……。
深く息を吸い――肺に水が入り込む違和感を捩じ伏せ、そのまま潜水する。冷たい海の中を、深く、深く潜っていく。赤い血が、暗い水中に線を描いた。
視界は徐々に暗く、狭くなっていく。最後の力を振り絞り、全力で更に潜った。全身に巻き付けたチェーンとダンベルの重みが、身体を底へ底へと引き摺り込んでゆく。
――最期に海を泳げて良かった。「自由」って気持ちがいいものだな。もし生まれ変わるなら、今度こそ自由になりたい。
そして、俺は脚を畳んだ。小さく丸くなるように。畳んだ脚を両手で抱え、四肢を束ねる。胎児のような姿勢で、そのまま冷たい真冬の海の底へと沈んでゆく。
――雪渚、辛かったよな。何度も死のうと思ったよな。もう楽になっていい。楽になっていいんだ。ゆっくり休んでくれ。
意識が遠のいていく中で、視界の端に、何かがぼやけた。頬を伝う感覚。涙だと理解した頃には、その涙は冷たい海水に溶け込んでいた。
――嗚呼、最期は笑って死にたかったな。
雪村雪渚、満二十歳。俺はこうして、その生涯に静かに幕を閉じた。
――だが、俺は知る由もなかった。終わらせた筈の人生。その自殺が、二度目の人生の始まりに過ぎないことを。
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