ドブ川に住む魚
ミナミと夫のサトシが住むアパートの横には、汚れたドブ川が流れている。こんな汚れた川にも住む魚がいるんだな。とミナミは思った。
目を移してミナミは、アパートの壁に貼られた安っぽいカレンダーを眺めた。日付には、大きな赤い丸。妊娠三ヶ月。それを見たところで湧き上がるのは喜びではなく、じっとりとした湿った不安だった。
テーブルの向かいで、サトシが鼻歌を歌いながらスマホをいじっている。「おいミナミ、今日さ、駅前のスロ屋、新台入ったんだってよ」「私、今日は健診て言ったよね?」「1人で大丈夫っしょ? 俺、必要? 大体、産むのお前じゃん? そんな深刻な顔すんなよ」
そう言い放つと、サトシはミナミの財布から札を数枚抜いて家をでてしまった。
「深刻な顔」? ミナミは唇を噛んだ。彼の言う「深刻」は、かつて彼女たちが高校の教室で嘲笑した「意識高い系」や「真面目ちゃん」の代名詞だった。
ミナミとサトシは、地元の中学からの付き合いだ。当時は男女のグループに分かれていたが、誰もが認める中心のコミュニティに属していた。そこには、絶対のルールがあった。「ノリを乱さない」「真面目ぶらない」。そうすれば、誰からも攻撃されずに済み、誰かを笑い者にすることで、自分たちの優位性を維持できた。
サトシとの交際も、結婚も、すべてその「ノリ」の延長だった。「皆がそうしてるから」「なんとなく流れで」。彼女は、そのグループのノリが世界の真理だと、本気で信じて生きてきた。そして今、彼女はそのコミュニティの残骸であるサトシと、このアパートの一室に閉じ込められている。
そうだ、楽しかった。だが、その「ノリ」の代償が、今の無知と不安だったことに、ミナミは気づき始めていた。出産一時金、育児手当、両親学級、妊娠保険…。病院で渡された分厚いパンフレットには、自分たちの人生に必要な知識が、ミナミの知らない言語でぎっしり詰まっていた。
不安に耐えられなくなったミナミは、長年疎遠だった母に電話をかけた。ミナミが「古臭い」と見下していた、真面目な人生を送っている母に。
「…妊娠したの」
静寂の後、母は問いかけた。
「……避妊は、してなかったの?」
その問いに、ミナミの脳裏に、高校時代にグループで誰かが言ったセリフが響く。「避妊?ダサいし、ノリ悪い」。笑い声だけが鮮明によみがえる。そしてミナミは、まるで他人の声のように、ぽつりと答えた。
「避妊って、なんだったっけ?」
電話の向こうの母親の息を飲む音が、ミナミの耳には、かつて自分が切り捨ててきた世界から届いた、審判のように聞こえた。
ドブ川で魚が、泳いでいる。あの魚は私達だ。あんなドブ川のようなグループにいなければ良かった。こんなドブ川の生活から抜け出さないといけない。
「お母さん、私、ウチに戻ってもいいかな」
ミナミは、左手でそっと自身の腹に触れた。この子は、もっときれいな川で産んであげたい。とミナミはそう思った。




